短歌散文企画 砕氷船

短歌にまつわる散文を掲載いたします。短歌の週は毎週第1土曜日です。

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第9回 他人と比べてどうかなんて 岡本真帆

2018-08-01 19:59:35 | 短歌についての散文
『短歌ください』がきっかけで現代短歌に興味を持つようになり、短歌をつくり始めたのは3年前のことだ。うたらば、うたの日、新聞歌壇など、さまざまな場所に短歌を投稿するようになり、私はすぐに短歌に夢中になった。その後も未来短歌会に入ったり、文学フリマに出展したり、短歌ユニットをつくって1年間月詠を公開したりしながら、短歌をつくること、短歌を読むことを楽しんできた。

 一方で、私は「短歌をつくっている」ということを自信を持って人に伝えることができなかった。
なぜなら新人賞もとっていないし、歌集も出していない。短歌において誇れるような結果を何一つ持っていない私が、「短歌をやっている」と言っていいんだろうか。自分よりも短歌がうまい人はたくさんいる。
 歌壇の誰もが認めるような素晴らしい結果を得ていなければ、胸を張って「短歌をつくっています!」と言ってはいけないんじゃないか、という気がしていた。誇れるような結果もないことが後ろめたくて、短歌をつくっていることも、あまり周囲には話していなかった。

 5月上旬。私が過去につくった、1首の短歌がTwitterでバズった。

ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし

 これは2年前、うたらばの『傘』という題詠でつくった短歌だった。
同時に「毎月歌壇」にも投稿していて、2016年7月発行のネットプリントで谷川電話さんに選んでいただいた。評がとてもうれしくて、いつでも見られるように写真に撮ってカメラロールに保存していた1首。それを今年の5月、何気なくツイートした。最初はフォロワーの何人かが反応してくれた。彼らのリツイートやリプライがきっかけで私のツイートはじわじわと広まっていき、徐々に拡散の速度は上がっていった。1週間でリツイート数は1万以上、いいねは合計3万にも及んだ。ずっと通知が鳴り止まなかった。信じられなかった。急に大きな舞台のスポットライトの下に立ってしまったようで、何が何だか分からなかった。

 私は運が良かった。例えばこの短歌が、短歌だけでツイートされていたら。つまり、谷川さんの評がなかったら、ということなのだけれど、おそらくここまで多くの人に反応してもらえなかったんじゃないかと思う。評という解釈の補助線が引かれて、短歌に普段触れる機会がない人にも分かりやすく、かつ情熱的に歌の特徴が語られたことで、より多くの人の琴線に触れるものになった。つまりこの反響は、谷川さんという素晴らしい選者と愛のある評のおかげだ。谷川さんには感謝しかない。

 お祭りのような状態は2週間も経過すればある程度落ち着く。
 バズ自体は一時的なものだったが、私の環境には変化があった。

 仕事で名刺交換をしたり、人が集まる場所で自己紹介をしたりすると、自分から言及していなくても「傘の短歌の人ですよね?」と声をかけられることが多くなった。
また、この1首をきっかけに他の短歌も見てくれた人が多いようで、「犬の短歌が好きです!」と、別の短歌についても感想をいただけるようになった。こう言われたときにどう反応するのが正解かわからず、おどおどしてしまうけれど、純粋にうれしさがにじみ出てしまう。

 新しくつくった短歌ではなく、2年前の短歌がきっかけで周りの人の反応が変わった。Twitterのフォロワーは、5000人増えていた。私自身は何も新しいことはしていない。昔つくった自分の好きな短歌と、愛のある評についてつぶやいただけだった。
周囲の反応が変わり、「短歌の人」と認識されるようになって初めて気づいたことがある。
私は短歌が好きだということを、もっと前から誇ってよかったのかもしれない、ということだ。

 誰かと比べてすごいかどうか。周りの誰もが認めるような結果を残しているかどうか。そんなことは本来関係がなかったんだ。
短歌をつくるのが好きなこと。短歌をつくるのを楽しんでいること。それだけで、私は短歌をつくっていることを、堂々と誇ってよかった。
あの1首をつくって2年経った今、初めて気がついた。自分の短歌がそれを気づかせてくれた。

 短歌をやっていて一番うれしいのは、短歌に込めた想いが誰かに伝わる瞬間だ。そして、伝わったことがこちらに「評」や「感想」という、読み手の解釈を伴って、言葉の形で戻ってくると、この上なく幸せな気持ちになる。泣きそうにさえなる。
普段短歌に触れる機会がない人、これまで短歌に興味がなかった人、歌壇の外にいる人たちから「この短歌、なんか好きです」と言ってもらえることが、たまらなくうれしかった。私は何者でもないけれど、ただ短歌が好きで、こつこつと続けてきた。短歌をやめなくてよかった、と思った。

 短歌をつくるということは、極端な話、社会で生きていく上で必要ない行為だ。短歌が有益かというと、役に立たない部類に入る。短歌なんてなくても社会では生きていける。
けれど私たちは短歌が好きで、短歌をどうしようもなく愛してしまう。社会で生きていく上で役に立たないと分かっていても惹かれてしまうのは、詩の言葉を紡ぐことで、社会という枠組みから自由になった、唯一無二の「生きている自分」になれるような気がするからじゃないだろうか。

 最近は仕事ばかりしていて、あまり短歌がつくれずにいる。仕事に打ち込めば打ち込むほど、詩歌の言葉や短歌の自分が遠ざかり、小さくなってしまうような気がする。正直焦りもある。だけど短歌が好きだということ、短歌が人に届く喜びを実感した今、新しい短歌がつくりたくて仕方ない。これから自分がどんな短歌をつくっていくのか、私自身もとても楽しみだ。
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