連載エッセイ しとせいかつ 第6回 朗読について、おかわり。   亜久津歩

2015年06月10日 | エッセイ

2015年5月16日~31日まで開催された「前橋ポエトリー・フェスティバル2015」のイベントのひとつ、「ポエトリー・リーディング in 前橋文学館」(5月23日)へ行ってきた。出演と、もちろん、聴くために。

20名以上の出演が告知されていたので、さまざまな朗読を視聴できることをたのしみにしていた。単独の詩人の朗読会は「詩集」、複数人が読むイベントは「アンソロジー詩集」だろう。愛しい一輪のために、あるいはこれから愛する一輪と巡り合うために、花束を買うのだ。

自分自身を知る機会にもなる。わたしは自分の「詩の朗読」の好みがどんなものか、そしてそれがどのくらいはっきりしているか、少し前まで自覚がなかった。音楽の好みも狭く、特定の作品をしつこく聴く性分なので少し考えればわかりそうなものだが、黙読する分にはかなり雑食なので考えたことがなかった。声とリズムが関係しているらしい。


「わたしはこの人の朗読が好きだ」と知っている場合、純粋に、ある種の安心感(退屈ではない)をもって聴き入ることができる(わたしの場合、前回書いたように田中庸介さんがそれにあたる。特に田中さんの読みはリズムがおもしろいので、何を聴いても快い)。驚きがあるとすれば、その土台の上に乗る。この確信めいた期待はひとつの信頼であり、だからお金を払っても遠出してでも聴きたいと思うのだ。大トリであった田中さんの朗読を聴き終え、拍手をしながら、そんなことを考えていた。


前橋で記憶に残った朗読について、いくつか。

わたしはリフレインを聴くのがすきだ。読むのもいいが、聴くほうがより好ましい。同じ語に繰り返し出逢うのに、その度に声によって表情や意味や「言葉そのもの」さえ異なるように感じられ、それらが連なり合い向かってくるようでぞくぞくする(聴くリフレインといえば広瀬大志さんの「激しい雨(だったから死んだ)」(詩集『激しい黒』収録・思潮社刊)がまず浮かぶ。烈しく打たれ、一度聴いたら忘れることができない…のに三度ほど打たれたので、これでもかと刻まれている)。今回でいうと、それぞれまったくタイプは違うが、加藤明日花さんと黒崎立体さんとかとうゆかさんが印象に残った。

加藤さんの「シカの肉(岩手県花巻市)」。戦慄した。リフレインのうちにほのぼのとした風景はずれ崩れ不穏にねじれ、あっけなくそれが告げられる。ほのぼの、とは狂気である。彼女は笑顔と死がよく似合う。かわいらしい声と仕草と風貌で度胆を奪いにくるので、その唇が動くとき、まったく気が抜けないのである(しかし結局また抜かれてしまった)。

黒崎立体さんのリフレインは、放たれる度にまっすぐにこちらへ向かい、刺さった。胸元を確かめるが何もなく、刃なのか光なのか判別することができなかった。傷ついたことにも気づかぬうちに次の傷が訪れるような、そして皆消えていくような幻をみる。黒崎さんの作品にふれた後は、いつもどこか、痛む。

かとうゆかさんは「五十音」で詩を作り(あいうえお作文の要領)読まれている。聴ける機会は二度目だったが二度とも笑った。「あいうえお」でよくもネタが切れない(かぶらない)ものだと驚くし、あれほどの量とテンポと表情で一語一語はっきりと聴き取れるのだからすごい。わたしはこういった詩の書き方や読み方はしてこなかったので、目から耳からウロコが雪崩れる。それと、こどもや「難解な詩」が苦手な方もたのしんでふれられる作品、朗読だ。いつか息子にも聴かせてやりたい。

そう、それから、カニエ・ナハさんの声に浄化された。

カニエさんの声には何か特別な効能があるのではないか、魔除けとかできるんじゃないかと割と真剣に思う。わたしは人格も認知も歪んでおり「やさしさに溢れた声のトーン」や「愛の囁き」が非常に苦手で、アレルギー反応のようなものが出てしまう。今回のカニエさんの朗読はやさしさであり愛であった…はずだが、あらゆる警戒網をすり抜け、染み入った。

目をとじて聴いていると光が射してきて、体内の黒くモジャモジャこんがらがったものをほぐしてくれるような、痛む部分をあたためてくれるような声、詩、朗読だった。

じんわりと癒やされたい方、消え去りたいモンスターの皆さまにおすすめである。

 

もっと紹介したいところだが、このあたりで。
個々の多彩な味わいで、おなかいっぱい胸いっぱいでした。
おいしかったよマエバシ!どうも御馳走様でした。また行きますね。





蛇足だが、「自分自身を知る機会」ということをもう少し。さまざまな朗読を聴いていると、時折、今この人は詩を読んでいるのか、これは「詩」なのだろうか、と「?」が立ち上がってくることがある。もっと明らかな場合、聴き続けることが苦痛ですらある。「技術的に未熟だから」「その詩人が嫌いだから」などではない。理由もわからないのに、どうにもざわざわするのである。

そんなときはつい手元の資料に目を落としたり、夕食のおかずについて考えを巡らせたりしそうになる。しかし、そこで「何が自分をざわつかせるのか」と考えるのも、たのしみの一つだろう。そこに自分自身の輪郭や核のヒントが隠れているからだ。

「これがすき」は自覚しやすく、「なぜすきか」を掘り下げて考えることも比較的容易い(他者に伝わるよう表現することは別。難しい…)。だが、これは合わないというものを「なんとなくすきじゃない」から先へ進めるには気力が要る。いずれにせよ礼儀正しい聴き方ではないが、これもまたおもしろいなぁというのが、近頃の発見だ。何を愛せるかということと、何を愛せないかということは、同じ線を描いている。



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