連載エッセイ しとせいかつ 第7回 「とをるもう賞」と、三井葉子さんに。(それと妊娠報告)   亜久津歩

2015年07月10日 | エッセイ

妊娠した。と、気づいたのが4月上旬。

何事もなく進めば、年内には新しい人間が出てくるのだからふしぎ~と、どこか他人事のように、しかし浮かれつつふくらみ始めた腹をさすっている。

 

しかしこうなると、またしばらく“詩”生活には心身を傾けられなくなるなァと思う。わたしはここ1、2年の間、やや活動的に詩に向かってきた。同人誌や合同詩集の企画・編集・発行、文学フリマポエケットへの参加、「前橋ポエトリーフェスティバル(2014・2015)」、「日本の詩祭 2015」、朗読会、合評会、勉強会等々…おお、振り返ってみると思ったよりも動いていた。それは、息子(3歳)が父親と留守番できるようになってから2人目出産までの間、「動き回れるのは今だけ」という意識が強くあったからだ。

純粋な「詩作」という行為に限ればきっと、ペンと紙、いや脳があればよい。しかし朗読会や勉強会、同人誌の編集発行のような「活動」は、そうはいかない。このあたりは場か回を改めて書きたいことだが、子連れでも気軽に行ける詩歌のイベントや、参加しやすい企画が増えるとよいなと思…というかやりたい。やろう。

 

さて。先日開かれ、朗読で出演もした「日本の詩祭 2015」にて。久しぶりに山田兼士さんとお話しさせていただき、萩原朔太郎記念「とをるもう賞」が第4回をもってなくなったと知った。三井葉子さんがお亡くなりになったことなどで、やむを得なかったのだろうと察する。

第1回の同賞はわたしが頂戴した。受賞式の頃、第1子が腹に入っていた。新幹線で大阪そして八尾と向かう道中、車窓は青、緑、青、青であった。

授賞式については、実は緊張のせいで殆ど記憶がない。特に受賞者挨拶で何を喋ったかはまっしろである。ただよく憶えているのは、閉会後のレセプションで、三井さんや粟津則雄さんと同じテーブルにつかせていただいたときのこと。

三井さんに、同伴していた夫を「シュ、主人でス」と紹介した。「主人」なんてこの1度以外、後にも先にも言ったことはないのだが、かしこまりすぎて思わず口をついて出た。すると「主人、なんて言わなくていいのよ」とピシャリと、しかし優しくおっしゃったのだった。そのまなざしがとてもきれいで、かっこいい方だなぁと思った。

この三井さんの面影と「とをるもう賞」には、何度となく背中を押されている。

 

賞にせよ投稿欄にせよ、大切な記憶として残るのは選者がくれた言葉なのではないだろうか。

「何よりも自分の手足で歩いているのがよい。感じるよりさきに見ているところがよい」

今でも時折、これを唱える。

 

もうひとつ。わたしは昨夏、それまで勤めた会社を辞め、同時にそこから発行されている詩誌や合同詩集への寄稿をやめた。それ以降、発表の場は自分で探し、またはつくっていくこととなった(そうしたくてやめた面もあるので肯定的な文脈である)。現実的な話。何かしようと動くとき、受賞歴がひとつあるだけで、意外とナットクしてくれる方も多いものだ。わたしのようなどこの何の骨かもわからない書き手の、小利口な名刺になってくれる。

しかし、いつまでも新鋭の賞をカンバンにしているわけにはいかない。三井さん、山田さんを始め選んでくださった方々、詩集を読んでくださった皆さまにも顔向けできるよう、これからも詩や生や死を呼吸していきたい。手づかみで。

 

終わりに。「私家版でも応募可能な新鋭賞が減ってしまった」ということが惜しまれてならない。出版された詩集を対象とする賞はみな私家版OKになればいいのに、と個人的には思っている。短歌の賞が30~50首の連作で公募されるように、詩も15~30篇くらいの原稿か私家版詩集でチャレンジできたらいい。選者は大変だろうし、さまざま意見はあるだろうが、応募を認めるくらいよいのではないか。わたしがいつかなぜかうっかりエラくなって、スポンサーないし裕福な協力者ができた暁には、創設したいものである。

そんなことを巡らす7月。今年も残り半分、出産予定日まで約半年。

さあ、次は何をしようか。

 

※「びーぐる ―詩の海へ」第12号掲載/「選考経過」より



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