わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第126回 神尾和寿の謎-神尾和寿- 渡辺玄英

2014-07-05 01:23:36 | 詩客

 神尾和寿は、ぼくにとってミステリアスな詩人だ。かれの作品がいわゆる〈私詩〉の対極にあるということも理由だが、何よりも作品が謎に満ちていることがぼくを惑わすし魅了するのだ。いくつも好きな作品はあるが、まずは詩集『水銀109』(1990年 白地社)から冒頭を紹介しよう。

   1
 いつでも風が吹いていた
 歩いていてそう思ってた
 空気は何処から降りて来た
 見渡せばやまのひとつない
 狂気いじみた安全な土地だ
 視線は果てまで届いてる
 宇宙が 裸で立っていた
 羞恥は何処からやってきた

 大胆だな、と思う。視線が歩行のレベルから、一気に「宇宙」まで届いている。しかも「宇宙は 裸で立っていた」というのである。歩行する人の視線が、世界を見渡し、剥き出しの(おそらくは未知の)宇宙を発見したということだろうか。しかし、意味に翻訳することは無粋とも思えるほどの鮮やかさだ。
 禅では「不立文字」を標榜するが、実は禅宗ほど言葉をふんだん、かつ自在に使う宗派はそう多くはない。むろん、それは日常の言葉とは別種の言葉だ。通常の言葉の地平を踏み越えさせて、言葉の向こうの宇宙の真相とでもいうべきものに触れさせる、とでも言ったらいいだろうか。告白すると、ぼくは禅語録を読むようにこの詩集を読んだのである。そして、今これを書きながら思いついたのだが、タイトル『水銀109』の数字は、煩悩108を踏み越えるということかもしれない。つまりこの詩集は神尾和寿なりの禅語録だったのだ。そう考えると、この詩集が、当然いくつもの限界を抱えながらも、裸の宇宙なものに出くわしながら、同時にそれをズラすというか、無化するような言葉を放り込んでくる独特の塩梅も納得できるのだった。
 この後、神尾和寿は『モンローな夜』(1997年 思潮社)という優れた詩集を上梓している。ここでは、ナンセンス洒脱にして、言葉になりにくいが確かな感興が心に残される『モンローの夜』について述べる紙幅がない。とはいえ、ぼくの大好きな詩「河童許すまじ」や詩「六歩」などの不思議な状況の作品群は、通常の意味が奪われているという要素を前詩集からスタイルを変えて受け継いでいるのだろうと思う。この次第は別の機会にしっかりと考えることにしたい。


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