わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第14回 ―清水あすかー わたしを食い破れよ 和田 まさ子

2018-08-04 11:29:43 | 日記
 現代詩のなかでも異彩を放つ詩人は幾人もおられるだろうが、清水あすかもそのなかに入るにちがいない。
 
  島中の牛が坂を踏む。
  女衆はまず赤ん坊を抱き、としょうりは竹籠をしょい、
  めならべはマグサをひとつかみ握り締め、
  男衆は黒い長靴をはいて、牛を追いかけて背をそらす。
  竹籠からこぼれて落ちたアマリリスの花が、
  まだなんとか夜のままでいる道に落ちて、

(「ぞっくめ、ぞっくめ、こわくない。」部分)


  生まれるまでに見たものを申し申し申し。
  死ぬのであろう日までに見るものを申し申し申し。
  口々見てすぐに我らは申し申し申し。

(「土に落ちた声と汗が言うに。」部分)


 私はこの言語、リズムに慣れていない、読み難いというのが最初に読んだときの正直な感想だった。紛れもなく現代詩だと思うが、読んでいると中世的世界に身を置く感じもした。閉鎖された島(それはあくまで清水あすかの書く「島」のイメージ)のなかの、自然や夜、年寄、海などが出てくるからだろうか。しかし、背景、書かれているものはそうであるが、いちばんの印象をつくっているその言語が、私に中世の雰囲気を感じさせたのかもしれない。
 清水あすかの詩をはじめて読んだとき、その言葉、リズム、文体に私のなかのものとの大きな距離を感じてしまった。それゆえ愛憎の憎を持ったというわけでは決してない。詩人のこの言語、リズムに恐れおののいた。私は清水あすかを読んで動揺し、揺れた。彼女の詩の言葉は私たちの現実世界に力強く斧のようなもので裂け目を生じさせるのだ。
 彼女の生い立ちや現在を私は詳しくは知らないが、八丈島に住んで書いているようだ。とすると、清水あすかの詩にあらわれる言葉は島に住んでいる中から生まれたのか。しかし、だからといって、彼女が使う独自の言語が島言葉に由来するわけではないだろう。言語は自己そのものだから。では、清水の言語世界はどのように生成されたのか。そこが知りたいと思う。
 一つのヒントが詩のなかにあった。

  わたしの体の経路を辿って書き写したら
  それははっきり島の形をとって、読み上げるとき詩として書く。

(「夕方を作る何百音に合わせて。」部分)


  まず今までひろったことのないことばを見つけ
  真新しい詩を書いてみる。なんてつめたい夕方だろう。「ああ」

(「夕方を作る何百音に合わせて。」部分)


 じつは私は、詩の世界にいままでなかった言語、リズムをもたらした清水あすかの詩を偏愛している。
 彼女は第四詩集『腕を前に輪にして中を見てごらん』を2016年に出した。この詩集では、以前見られた、つんのめるように言葉が言葉をぐいぐいと押し出す切迫した文体から、いくぶん速度を落とした息の継ぎ方で書かれているように感じられた。
 清水あすかの詩はここからどこに行くのだろう。興味津津で見ている。
 最後に第四詩集から、好きな一篇をあげておく。

  あらわれる緑。

  次にはまちがえず椎の木になる。
  目に入りきれずこぼれる色の数になる。
  言わない声は石になり、やればよかったことを土にする。
  なに一つを拾い残さず、見ているこの景色にする。

  頭ごと持っていかれるところから始まる、
  うつくしいとは風景にどうしても湧いてしまう虫で
  見とれた身体が折れてしまい、折れ線から食べられることもある、
  人の手には負えない生き延び方をする生きものだ。

  そして見る、この奥も奥にもいくつもの木の盛り上がり奥行きになる緑は
  洗われてあたらしく、におう花の粒が空気を色にして渡る、息をすればするほど
  混ざっていく緑、木の皮はぜる、風の吸うたび生まれる、
  風景全体、微々電流帯びて山は
  育つための息をする、合わせて入っていく甘い葉、味する雨も、来る水気も
  この身体を糧にして、いつか見とれる風景、あるひとしずく
  たとえば椎の木の一本になる。
  こぼれる色のひかりになる。
  なに一つ拾い残さずわたしを食い破れよ。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 第13回 ―エリザベス・ビショ... | トップ | 第15回 ―イヴ・ボヌフォワ「... »

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事