わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第23回 ―吉増剛造― 「柴田山」 番場 早苗

2019-05-11 14:54:33 | 日記
 「わたしの愛憎詩」というテーマに「柴田山」を想起したのは、この詩の中に、奥に、過去にも未来にも及ぶ、詩人本人や書かれている作家夫妻と家族の愛憎が見え隠れしているからだと思う。けれど、わたしがこれから書くのは、「わたしの愛憎詩」というよりはむしろ「わたしの愛蔵詩」と呼ぶべきものかもしれない。敬愛する吉増剛造氏の作品の中でも、とりわけ好きな詩だから。そして、おそらく作者にとっても愛蔵する詩だと思うから。
 昨秋、吉増剛造著『火ノ刺繍』刊行イヴェントの一環として、わたしの住む函館でトークショーを行った。その折、資料として吉増氏の詩篇を来場者に配った。『出発』から『火ノ刺繍』に到るまでの吉増氏の多数の詩集中の、さらに厖大な数の詩篇の中から選んだのは、「かえろうよ」(『出発』)、「燃える」(『黄金詩篇』)、「初湯」(『草書で書かれた、川』)、「柴田山」(『オシリス、石ノ神』)、「「ディラゴン」という響き(抄)」(『火ノ刺繍』)の5篇。もちろん、これらは見開きA3用紙3段組に収まる分量という制約内でのセレクトではあるが、もし千行にもなる長編詩でもなんでも自由に選んでいい紙幅であったとしても、わたしは「柴田山」を必ず入れたと思うのだ。この1篇には、詩人・吉増剛造の時間と魅力が詰まっているから。それを伝えられたら。詩行に沿って書き出してみたい。

1.重層的な回想

景色に耳を澄ますようにしていたとき、こんな聲が聞こえて来てい
た。そう、ちょっと古風に、聲が落ちて来たといえばよいのかな。母らしい人
が子に
         〝縄の目をつけておくのよ、月に戻っていかないように〟
と話しかけていた。ある日、晩秋の夕暮、ひとかたまりの雑木林、次第に影を
おおきくする山並を背にして、わたしは立ちどまっていた。しばらくみつめて
いると景色の奥に小川がながれているのが判る。そうか、大昔、ここは繁華街
のようだったろうな。そう囁く聲はもうわたしの聲ではなく、六、七千年前に
戻りはじめているようだった。〝樹があれば樹、環状列石のそばをかけ廻って
いたの? 美しい名の尾が峡にうかんだ。〟ふと気がつくとわたしたちはおもい
もかけないところに歩をすすめていることがある。わたしがいま書こうとして
いるのも、そのひとつのこと。あそこは信濃町のホームだった。記憶の遠いと
ころで潮騒と木舟の匂いがしておどろいていた。三つくらい、景色が一緒にみ
えてくるということが起こっていた。

 
 「柴田山」書き出しからの詩篇3分の1である。晩秋の夕暮に立つ詩人、原始の林に幻の小川を視て幻の声を聴いていたことが語られている。その幻に対し現(うつつ)の「信濃町のホーム」という具体的な名が出てくることで、読者はこれから語られるだろう景色の場所に詩人と共に立つ。

2.遠い日の恋

                そんなことは普通という人もいるかも知れ
ない。でも、おもいがけず、激しくふられはじめたあの手は忘れられない。遠
ざかって行く人に、あんなに幾度も御辞儀をし、別れの挨拶をしたのはまった
く久しぶりのこと。遠い昔に、そうしたことがあったよ。記憶が幽かに戻って
来ていた。

 
 遠い昔に手をふったのは、第一詩集『出発』の「プレゼント MMに」と題された詩に書かれていた女性だろうか。『火ノ刺繍』について詩人や評論家だけでなく、著名な作家が書評やエッセイを書いているが、その一人、五木寛之氏の視点に瞠目する。五木氏は、1200ページを超える大冊『火ノ刺繍』の中では目立たないと思われる場所に置かれた「二〇一六年 自身による詩集解題」に着目して、次のように書いている。

 〝インターネット全盛の時代に、こういう書物を世に送るということは、狂的な執念がなければできることではあるまい。たぶん1年ぐらいかかっても読み終えることはできないのではあるまいか。畏怖の念を抱かせる一冊。0914ページに「二〇一六年 自身による詩集解題」という項があって心を打たれた。/ 出発 /新芸術社 1964年1月20日 装幀=渡辺隆次  ガリ(謄写……)インキの匂いのまだ残るタイプ印刷、内百五十部買取り。畏友、故井上輝夫による序文「混沌の伝説」不朽なり。M・Mとの恋の詩集でもあったのだが、若い暴力がそれを蔽った、……。〟 (日刊ゲンダイ2018.6.25連載「流されゆく日々」最近読んだ本の中から⑤より) 

 作家の慧眼は、詩集『出発』のこのわずか3行の説明に、若き日の詩人の物語を読みとったのだろう。発行から半世紀を超えて、なお忘れえぬ遠い日の愛憎と悔いや苦さ、そしてそれを記しておこうとする真摯さであり性(さが)でもある詩人の生涯に、〝心を打たれた〟のだろう。滋味あふれるエッセイだった。読後の余韻のなかで、わたしは「柴田山」の〝遠い昔に、そうしたことがあったよ〟を反芻していた。

3.島尾敏雄・ミホ夫妻との出会い 

       信濃町のホームで、電車が遠ざかるまで手をふってられたのは島
尾ミホさん、柴田南雄さんの作品「布瑠部由良由良」に出演のリハーサルの(わ
たしも自作の「地獄のスケッチブック」をその作品の中で読む)ために、茅ヶ崎
から島尾敏雄さんと出てこられての帰りだった。
                        〝石をひろって、幾つ?〟
美しいとき、、の帯が、ほっと海上を吹いて行くようだった。そのとき、わたしは島
になっていたのかも知れない。わたしが港になっていたのかも知れない。送られ
る者がじつは送っている、風。


 吉増剛造氏は、島尾敏雄・ミホ夫妻と知り合う前から息子の伸三氏と友人だったと聞いている。伸三氏は『死の棘』に出てくるシンちゃんである。『死の棘』の家庭に育った子どもたちの両親への愛憎の深さ、受けた傷の大きさは、成人して家を出ても家庭を持っても翳を落としていることが、島尾伸三著『小高へ』を読むとよく判る。そのシンちゃんマヤちゃん兄妹の父母との駅のホームでの描写は、その後の吉増剛造氏とミホさんの永きにわたる濃密な交流を暗示しているようだ。「ハブをおとなしくさせる力を持つかもしれない」(「恒河沙」2〈詩の旅、詩のことば〉)ミホさんの大きくふられた手は、詩人を惹きつける。〝美しいとき、、の帯〟は過去にも未来にも吹いていたのだ。詩は、作者も気づかないうちに未来を予見するのか。あるいは、詩の腕が未来にまでふられて詩人を引き寄せたのかもしれない。詩は美しい。詩はおそろしい。

3.石(楽器)をひろう

演出の佐藤信さんが考えられたのか、詩を読む席のまわりに、小石でサークル
がつくられていた。舞台が終ってからひろいあげてみると、かるいものだった
けれども。そうしてひろってみて、あらためてわたしはあたらしい経験をした
ことに気がついていた。東京混声合唱団の方が、環をつくって打つ石(の聲)
がめずらしく(うらやましく)、わたしも石をひろっていた。それは楽器。柴
田南雄氏の音楽のなかに入っていったしるしだった。

        
 吉増剛造氏にとって石は、少年の日の化石の思い出に結びつく重要なアイテムだ。この詩のなかでも〝環状列石〟が出てくるなど、古代へ続く石への関心や愛は深い。この石を〝(うらやましく)〟ひろい、それを〝楽器〟にする行為は、30数年後の現在、吉増剛造氏が持ち歩くピンチハンガーに繋がっている。映画監督の青山真治監督作の映画にヒントを得たという、その携帯する楽器には、いろいろなものがつりさげられる。エミリー・ディキンスンの写真、母親からの葉書、柳田國男の宝貝、等々。函館に来たときは、泉鏡花の「婦系図」讃の酸漿(ほおずき)が色を添えていた。また、吉増氏は『我が詩的自伝』の、好きな詩人エミリー・ディキンスンについて語る中で、好きな詩として「小石はなんていいんだ」とはじまる詩を引用している。

4.絵のような叫び聲

                        景色に耳を澄ますように
していたのだろう。よく晴れた、秋のある日、甲府から西方をみていると、な
んと、嵐の翌日(一九八二年十月二十四日)で山頂が白く燃えるような、巨大
な縄文土器がそびえているのではないか。そうだ、八ヶ岳が、あの火焔土器の
原型だったと、遠い叫び聲を聞くようだった。言葉にならない、絵のような叫
び聲。一人、登って来る月に揺られるように、わたしは山の下に立っていた。


 「柴田山」の最後部。〝景色に耳を澄ますようにして〟と冒頭の語をくりかえして綴られる詩行は、〝縄の目をつけておくのよ、月に戻っていかないように〟という声に対して、〝言葉にならない、絵のような叫び聲〟。最終行の〝〟が冒頭の声へつながっていくような構成で、原始との呼応・宇宙的視座をいっそう感じさせる。
 そして、ここにはその後の吉増剛造を読み解くヒントがある。まったく、吉増氏が詩に求めたもの、書きたいのは、生きたいのは、この〝言葉にならない、絵のような叫び聲〟だったのではないかと思うのだ。それゆえの難路でもあったろうし、悪戦と愛憎の年月もあったと思う(映画「幻を見るひと」の中で吉増氏は、詩を書くって大変だよ、詩を書くことで一生をすり減らしてきたなぁ、と吐露していた)が、吉増剛造は突破した。彼は克った。近年の吉増剛造氏の活躍・充実ぶりを見るにつけ、そう思う。この「柴田山」には、そんな遠近の〝景色〟も重なる。

 最後に、「柴田山」は作者本人にとっても愛蔵詩なのではないかと最初に述べたことについて少し付記しておきたい。わたしがそう思ったのは、「柴田山」を詩集『オシリス、石ノ神』以外でもみた記憶だった。『吉増剛造詩集』のような詩の集成ではないものだった。今回、これを書くにあたって蔵書を確認した。エッセイ集『緑の都市、かがやく銀』にあった。発行は昭和61年6月20日となっているから、1984年発行の『オシリス、石ノ神』より2年後の発行だ。しかし、今回気づいたのだが、二つは表記などに少し違いがあった。「声」が「聲」だったり、1行の文字数が違ったり。それから見るに、発行年が先の『オシリス、石ノ神』所収の方が改訂されている印象だった。それで、『緑の都市、かがやく銀』の初出一覧を探したら、附録の別紙にあった。「音楽芸術」一九八三年一月号、となっていた。詩のなかにある日付からすぐの発行月だ。「柴田山」は、音楽誌に掲載された(エッセイ的)作品だったのだ。それを、レイアウトを少しなおして、四十代のモニュメントとなる詩集『オシリス、石ノ神』に入れたのだろう(吉増氏の書くもの語るものは、エッセイでも書評でもインタビューでも、みな詩なのだという証左にもなるだろうか)。やはり、吉増氏自身にとって、「柴田山」は詩集に蔵しておきたい愛する詩だったのだと思う。

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