わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第11回 ―松浦寿輝ー 『冬の本』 峯澤 典子

2018-04-06 16:55:27 | 日記
 出会い自体にすでに愛憎の念が潜んでいた。大学一年のある日、一人のフランス語の教員と雑談をしていた時のことだ。現代詩に興味がある、と私が言うと、彼は「まさか松浦寿輝など読んでいないでしょうね?」と苦々しい顔で聞いてきた。
 話をよく聞くと、別れた妻が松浦氏の大ファンだったとのことで、こじらせた嫉妬心がそう言わせたらしい。
 読むな、と言われれば読みたくなる。私は、ちょうど刊行されたばかりの『松浦寿輝詩集』を書店で立ち読みした。

 驚いた。百万回転生しても、こんな文章、書けない…とくらくらした。
 とくに『冬の本』が衝撃的に好みだった。すぐに単行本も手に入れた。
 それが『冬の本』のオブセッション(?)の始まりだった。
 その時から現在に至るまで、松浦氏の数多くの著作はできるかぎり刊行時に読んでいるが、『冬の本』だけは、ちゃんと読み通せていない。誇張ではなく、旅先にも携帯し、おそらく何千回も開いているのに、だ。

 まず表題詩の「燐寸を擦ると/なつかしい死人たちの呼気にふるえながら/ぼんやり浮かびあがる狐や蝶のかげ」という始まりから、燐寸の火とふるえるかげで脳内がいっぱいになり、ぼんやりしてしまう。
 例えば、とくに好きな作品「満月」はこう始まる。

 曇り空のしたで天気予報をきいている。夕暮。……冬型の気圧配置。……強風波浪注意報。…… 字のすくない本の最後のページに落ちてくる雨滴、二粒、三粒。たちまち大きく滲む。ぼんやりした鳥の影が水面を一瞬よぎって消える。

 この池のおもてには何が書かれているのか。小石をいくつか投げこんでみる。鼓膜につたわってくるかすかな響き。音のつめたさとは、肌寒さとは。幼年期の初霜。遠くのほうを市電がごとごと走っていった。


 引用していると気が遠くなるほどにかすかな、薄墨いろの視覚と聴覚と触覚の響き合いのなかに、冬のつめたい水の気配がゆっくり滲んでいる。最初の三点リーダーの繰り返し「……」の美しい静けさに引き込まれ、「……」とつい息を止めているうちに、いつのまにか市電の音が眩暈のように遠ざかってゆく……。
 するとふいに眠たくなり、思考が停止する。そして、頭が冬眠したまま、詩の言葉だけが響いているという感覚に陥る。つまり、つい、うっとりしてしまうのだ。
 あ、つい、うっとり……がつねに繰り返され、いつまでも何かを読み取ることができない。

 これもまた魅惑的な一篇「消印」も、「或る日 (疲れていた。風がやまない。晩春の夕方。もう翳りだしている八重桜の重い花房。夕闇。生暖かな。不思議な)」と、生暖かな夕闇にぼうっと浮かぶ八重桜の花房が、初めからすでに眠りを誘うような重さで迫ってくる。
 ここには、「わたし」と誰かとの間でやりとりされる葉書の言葉が挿入されているのだが、「わたし」宛に届いた返事にはこうある。
こんどイタリアに引越すんです 南の方の 古い奇麗な町なんですって 海辺の(…)またお便りします/あ 雨が降ってきました」。

 西脇の「南方の奇麗な町」のイメージも重なるようなこの葉書の言葉が頭から離れなくなった若き日の私は、実際の自分の手紙にも、「またお便りします。あ 雨が降ってきました」と書きたくてしかたがなくなった。そして、複数の友人宛の手紙に、ほんとうに書いてしまっていたのだ…。
 それを受け取った友人たちはたぶん、「へ? 雨が降ってきたって…なに?」と奇妙に思ったに違いない。ああ…何度、意味不明な雨を私は降らせたのか…。
 恥ずかしい自分にも、ついでに、この素晴らしい詩にも腹が立つ。
 けれどいまも本を開くたびに、「……」と、うっとりの表記をやっぱり繰り返してしまうのだ。
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