わたしの愛憎詩

月1回、原則として第3土曜日に、それぞれの愛憎詩を紹介します。

第12回 ―ピエール=フランソワ・ラスネールー 「死刑囚の夢」 鎌田 伸弘

2018-05-13 20:09:24 | 日記
 まずはラスネールの「死刑囚の夢」を全文ご紹介する。

  死刑囚の夢

  夢を見ているときはなんと幸福だろう!
  眠らずに夢を見ることはすばらしい。
  一時間とたたぬうちに私は仕上げる
  愉快きわまるおはなしを。
  最上の運命は私のためにあり、
  思うままに自分の世界を創造するのだ、
  しかし王の運命をえらぶことは
  けっして思いつかない。

  孤独な隠れ家で、
  将来のことには思いわずらわず、
  思い出をまぜて
  空想にふけるのだ、
  不幸でもしおれることのなかった
  私の青春のみずみずしい夢よ
  私の老年を陽気にしてくれ、
  人の死なんとするとき人は老いぼれる。

  ときおり私のすばらしい宮殿に
  たくさんの美女たちを私は集めるが、
  草の上にたびたび横になる
  私の傍にはリーズしかいない、
  彼女の胸が持ちあげる薄衣が
  知らずしらず夢見るように私を誘う。
  この夢を仕上げるのがひとりきりとは
  全く残念至極だ

  あるときは、貧しい茅屋で、
  幸福な父親で思いやりの深い夫、
  私の傍には人の善いお母さん、
  膝の上には子供たち、
  よく繁った樹蔭で、
  私は読んだり書いたりするのだ。
  だが残念! 嵐が突然やってくる、
  なぜこの夢がこんなにはかないのか?

(小浜俊郎訳)


 ご存知の方も多いだろうが、ピエール=フランソワ・ラスネールは19世紀フランスの詩人であり、同時に、詩のタイトルからもわかるように手形偽造や強盗のほかに殺人まで犯してギロチンにかけられた筋金入りの犯罪者でもあった。
 この詩もまさに獄中で綴った作品である。そして最期は社会と道徳を愚弄して、世間に阿諛追従することなく笑って断頭台へと向かっていったといわれている。
 なんとも不届き千万な、ふてぶてしい詩人ではないか。この詩もまさに至るところに不遜さがあらわれている。一連め「最上の運命は私のためにあり、」「しかし王の運命をえらぶことは/けっして思いつかない。」にはじまり、二連め「人の死なんとするとき人は老いぼれる。」三連め「この夢を仕上げるのがひとりきりとは/全く残念至極だ」等々、全く傲岸至極である。これだけで充分憎しみの対象となり得るのではないか。かれのじっさいに起こした行動も鑑みるとなおのことである。

 しかし、そこはかつてボードレールと比肩され、スタンダール、ユゴー、ドストエフスキーといった文豪の作品に影響をあたえ、のちにブルトンやカミュをも魅了したかれである。そして、これもよく知られているが、かれは本名のラスネールのままで映画『天井桟敷の人々』の登場人物にもなっているのである(演じたのはマルセル・エラン)。
 わたしなどあの映画はたんにメロドラマとしてではなく、一犯罪者(もちろんラスネール)のダンディズム溢れる作品としてとくに偏愛しているのだが、そのように思っている人はけっして少なくないと信じている。そしてラスネールに接するたびに、バルザックの『人間喜劇』に登場する膨大な人物のなかでも一、二をあらそう異彩を放つヴォートランを思わずにいられない。『ゴリオ爺さん』など、はじめはただ鼻持ちならないキャラクターとして読んでいたに過ぎなかったのに、気づくといつの間にかグイグイとかれの悪の魅力に惹きつけられてしまっていた。

 ふつう世間一般には「愛→憎」に変わるのが常で、つまり「可愛さ余って憎さ百倍」なのだが、ラスネールやヴォートランのばあいは「憎→愛」なのである。これには適切な表現があるのかどうか、すぐには思いつかないが、かなり大仰ないい方をすればコペルニクス的転回といっていいのではないか。
 そして、である。この「憎→愛」の方式は、物理や哲学の領域にではなく、文学の世界にこそ許される、あるいはもっとも有効にはたらくのではないかとわたしは考えるのだ。
 
 そのことを誰よりも承知し、徹頭徹尾実践したのが、最期まで社会に阿ることなく笑って死んでいったラスネール自身ではないかと、わたしには思えてくるのである。
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