「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第215回 詩と小説 永方 佑樹 

2017年09月16日 | 詩客
小説の場合は、「ここにペットボトルがある」という事を書くのに、そのまま書く。だけど詩は、そのまま書いたら詩にならない。その事実を自分の中に反射させる、言葉がリフレクションで出来ているのが詩なんじゃないでしょうか
(古川日出男〈小説家・戯曲家〉 2017年8月2日「ラハティ・ポエトリーマラソン帰国報告会」にて)

 詩と小説。この二つの形式の違いについて、物語性のある散文詩を前にした詩人が「一見小説のようだが、間違いなく詩だ」と語る事がある。この時の、「間違いなく」という確信がいったい何を基準にしているのか、それはもちろん、それぞれの詩人によって様々な意見があるのだろうけれども、例えば「詩情がある」「リズムがある」といった規定は、良く聞くものの一つと言えるのではないだろうかという気がする。
 では仮に「詩情」や「リズム」の有る無しが両者の重要な境界なのだとして、一方の小説側、例えば小説家の立場から見た場合、小説と詩いう、両者の違いはどの様にそのまなざしに写っているのだろうか。
 2017年8月2日、青山スパイラルにて開催された「ラハティ・ポエトリーマラソン帰国報告会」において、諸々の事情は省くが、小説家の古川日出男氏と場を同じくする機会があった。古川氏といえば、純文学からエンターテイメント、果ては戯曲まで、様々なスタイルの散文の書き手として、旺盛な実績を積んできただけではなく、自身が朗読ライブとも朗読パフォーマンスとも名付ける、発話を伴う活動も精力的に行なっている、稀有な作家である。また、朗読の際に使用するテキストとして、自身の小説はもちろんの事、有名な物語や戯曲など、実に多岐にわたるテキストを朗読しており、そのうち、東日本大震災以降に取り組んでいた、宮沢賢治のテキストを対象とした朗読活動では、「銀河鉄道の夜」等の物語を読むのと同時に、「春と修羅」などの詩作品も朗読していたという事だった。
 そんな古川氏に、これ幸いとばかりに私がたずねた詩と小説の違いついて、彼は
詩は改行や余白があるだけあって、はっきりと入っていきやすく、突然クレッシェンドになるなど、やり易さがある。でも小説のような動的なものの場合、ストーリーがあるからそうはいかない。自分がどのような再生装置になるか、出発点、基準が違うように思える」と朗読時の違いについて語った後、詩について、「小説の場合は、「ここにペットボトルがある」という事を書くのに、そのまま書く。だけど詩は、そのまま書いたら詩にならない。その事実を自分の中に反射させる、言葉がリフレクションで出来ているのが詩なんじゃないでしょうか」と彼らしい言葉で位置付けた。
はっきりと入っていきやすく、突然クレッシェンドになるなど、やり易さがある」という、朗読時の氏の実感は、詩人が言う所の詩の「リズム」の作用であろうか。また、「言葉がリフレクションで出来ている」という、詩という形態の把握について、これはあるいは、詩人が「詩を詩たらしめている」と言う、あの「詩情」をもたらす、あるいは重要な始因装置の一つなのだという気づきが、その時の私にはあった。
 いずれにせよ、おそらく小説家——古川日出男氏も詩人と似た体感を持ち、その体感から両者のテキストを視認し、位置付けているのだが、それを語る言葉として、彼は「リズム」や「詩情」というある意味、曖昧な言葉は、たとえ私が指示したとしても同じく使用しようとは決してせず、いずれもボリュームのある語りとして返答してくれたのは、その母体とする文脈ゆえ、使う言葉の質の違いなのかもしれないと感じた。
 詩と小説の境界。それはもちろん、「詩情」や「リズム」以外にも、様々な要素があるだろう。そもそも、こうした両者の違いについて、詩人の中ではしばしば議論が持ち上がるのに対し、小説の側からの提起はさほどでも無い事自体、何か示唆がある様な気が私にはする。
 だがここでそれを我が物顔で明示する事を、今回はしないでおきたい。ただ詩の外側の目を自らのまなざしに投影するという事、例えば今回、一つの例として、小説家の側からの詩と小説の見方を共有し、別の視座からの見解を意識するという可能性を提示してみるにとどめて、この度は押し黙り、結論はぜひ読み手、そして皆さんの書く折の意識に委ねたいと考えている。


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