「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第227回 『子午線』6号の稲川方人×松本圭二×森本孝徳の座談会ほか 小峰 慎也

2018年09月09日 | 詩客
 『子午線』6号の稲川方人×松本圭二×森本孝徳+子午線編集部=春日陽一郎、綿野恵太の座談会「討議 現代詩の「墓標」――六〇年代詩」を部分的に読んだ。かたくるしいことばで語られているところがつまらなく、放言的になっているところがおもしろい。主に放言的になっているのは松本だが、それを受ける稲川がユーモラスな側面を出しているのが意外だった。
 鈴木志郎康の話題で、松本圭二がプアプア詩よりあとは「もうクズですよ。」というような発言をしている。早稲田や多摩美の先生になったことだとか、鈴木志郎康についてだけではなく、「アカデミシャン」や「生活」にとらえられている状態がダメといった区分けも出てくるが(松本だけの発言ではない)、観念的な区分けによる切捨てに思えてならない。「詩」というものが堅固に決まりすぎているのだ。
 詩は、ルールを破りあらたに更新しつづけるゲームだという面がある。そのことに、ルールに従ってよしとしている無自覚な素朴さをダメとする価値観を重ねすぎているのだ。たいていの書きものは、素朴な部分と逸脱している部分が混ざっているから面白いと思えるのではないか。
 と書いていたのだが、3人ともそれぞれに違っていて、いま書いたようなことは、混ざったものをぼくが勝手に単純化してしまったもののような気がして書きすすめられなくなった。
 稲川方人の場合は、詩というのを、国家や社会が押しつけてくるものに対する「抵抗」として考えているのだろうか。その図式があれば、「生活」を素朴に肯定すること自体がアウトとなる。逆に(まだよくわかっていないが)「抒情」ということ=「ぼくたち」「きみ」の「一者」と「他者」の関係、とすることで、「抒情」を社会的なものに対する「抵抗」として考えているということだろうか。
 理屈としてはわからなくもない。これに「反論」したくなるが、それはここでダメとされている側に「立たされる」ことによってはじめから理屈として負けてしまう。
 ぼくは、詩に(かぎらないが)、たのしいとかおもしろいとかおどろいたとかそういうことを求めていて、この理屈の中には、それが入る余地がない。それこそ、それらを求めること自体が制度的なものへの屈服とでもいいそうな気配がある。

 話の最初のほうで、松本圭二が「現代詩にとっての一番の問題はジャーナリズムの喪失であるということをまずは言いたいんです。」といっている。稲川方人はそれを受けて、「でもその言い方だと、松本圭二にとって現代詩が他者みたいに見えてしまうので」、そういいたくないとし、「ジャーナリズム」を「歴史」という言葉でいいかえる。「継続的な歴史に対しての認識と一つの言語がどのように関わってきたのか、関わっているのかということが、ジャーナリズムとして反映されると思うんです。」と。わかるのだが、どうしても「いやだな」と思えてしまう。生まじめさに対する単純な反発もおぼえるが、書くごとに、それまで書かれてきたこととの関わりをいつも意識しなければならないとしたら、たまらない。勝手にやらせてくれといいたくなる。稲川方人だけではないが、SNSやブログなど匿名でいつでも改変可能な、責任をとらなくていいかたちでの発表の仕方を否定する人たちの、論理的一貫性がどうにも息苦しいという気がするのだ。
 いっていることはわかるし、部分的、その場かぎりのたのしみ「だけ」を生きのびさせたいわけでもない。しかし、やはり「生きている」(「生活」に限定したくはない)ほうを基本に据えたいのだ。「生きている」ことには、論理的に「間違った」ものを含むゆれがある。変化しつつ、変化させられている。要するに、自由も逸脱も屈服もある、「普通」というポイントでバランスをとろうとする態度のことだ。もちろん、屈服の度合いが強くなって大きく「普通」がおびやかされる事態も想定できる。しかし、だからといって「普通」がいつも何かに作られている状態のことで、自覚と抵抗によってだけはじめて「生きうる」ものとは思えない。そうはいってないかもしれないが、理屈の一貫性がそう感じさせるのだ。

 復刊された室生犀星『新しい詩とその作り方』(国書刊行会)という本を読んだ。最初と終わりが面白い本だ。
 「自分がこの本をかいた動機は、自分が手紙などでよく質問された「詩はどんなものか」「どうすれば書けるか」ということについて、比較的平易に書き、そして答えたつもりである。/自分は全然へり下った、世にありふれた「詩の作法」を書くことを嫌うし、また、そういう程度の低いものでは、中々諸々の読者らの胸間に沁み込むことが出来るものでない。いまは何よりも優秀な実力によって育たなければならない時代だから、自分も実力によってこの本を日夜にわたってかき上げた。」(「自序」)
 「またはその日の前後に重なりかかった身辺の生活などを振りかえってみるものだ。ことに小用をたしているときほど、つみのないうっとりしたいい気持ちはない。何も考えていないようで、何かしきりに夢のように考えているのである。/私はそういうとき、書きたいと思っていたことを、ふいに思い出したり、シーンをさぐりあてることが出来る。」(「29 詩を多く読み書くこと」より。本文の最終部分)
 さんざんいろいろ書いてきたあとに、小用をたしているときに思いつくと書けること、そのまま終わってしまっていること、がいい。多く読んで書く、それを通過したあとの、「小用」、具体的な思いつく場面へのみちびきだ。
 いいかたの大胆さで強く引っぱる力を持っている。この本は犀星が最初の詩集『愛の詩集』を出した時期に書かれたもので、いままでにない「新しい」ものを打ち出す気迫があふれている。犀星の新しさとは何だったのか。こんないいかたがあるのかというところまで心に踏み込んだ表現をしたこと、と仮に考えてみる。的を外しても何かをつかみとっている。
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