「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 汲みつくされぬ秘密 古田 嘉彦

2018年08月19日 | 詩客
彼女は震えながら答えた何故に私は生まれたのかそして私は何なのか 一個の悲しみそして一個の恐怖一個の生きている苦悩そして裸のいけにえだ
( 「四人のゾアたち ヴァラ第一夜」から)


 これはブレイクの詩の一節であるが、恐ろしい表現力で延々と続くぞっとするようなブレイクの幻想をたどるとき、次の詩句を思いだす。

  私はこうして傷ついているが、治りたいと望んでいない
  この老いた、盲の、射手の、裸の、子ども


 この詩句は「哲学の言葉について」( 松葉祥一訳)においてリオタールが引用した 「オリーブ 」第十二ソネット( デュ・ベレ)の一部である。これは哲学の、欲望にかられた荒々しい言葉について語っている。詩の言葉は、哲学よりももっともろく、しかし人の眼差しを保護する力を持っているだろうか。しかし詩の言葉も明らかに「盲の、射手の、裸の、子ども」だ。(「老いた」は哲学だけにしておく。)
 既に言い古されたことだが、特定の状況で「語る」、「刺激を発する」、あるいは「聞く」、「刺激を受ける」ということと、印刷されたもののような固定化された「語られたもの」がどのような刺激を実現するかは別のことである。特に詩のような挑戦的な表現において、「特定の状況で」という要素が脱落した「語られたもの」が、謎を生まないわけは無いと思う。元より「わたくしは、他人の考えていることを知ることができるが、自分の考えていることを知ることはできない。」( ヴィトゲンシュタイン「哲学探究」第二部 藤本隆志訳)のであり、詩人も作品を書いたときの自分とは異なる読者として読むことによってしか自作を知ることはできない。読者は自分がそれを語って躍動を感じる範囲で語られたものを理解する。語られたものについて読者自身がそれを語る大胆さ、跳躍力、想像力を持っていなければ、当然「理解できない」と言うことになる。全く同じものを読んでいても、それまで分からなかったものが突然分かることがあるし、逆に自分が書いたものも、時を経てその必然が分からなくなることがある。そういう意味で、詩の言葉も、いつまでも「盲の、射手の、裸の、子ども」なのだと思うのだ。そうして詩のただなかで、「私はこうして傷ついているが、治りたいと望んでいない
 マラルメは「文芸のなかにある神秘」断章六で、どんな人の奥底にも、必ず汲みつくされぬ秘密、晦渋なものがあると言った。それを引きずり出すのは、まともな言葉ではない。時に不適切で、でたらめなようだが読む者を呪縛する言葉である。そしてそれは汲みつくされぬ秘密を引きずり出すことができるときだけ、存在する価値がある。それは今ただ言葉による刺激として読者の前に置かれる。 

 ブレイク的な恐怖とは異なるが、今それに近い恐怖を語るのは杉本真維子だ。

  通路、が塞がれ、身長ほどにしか、心がな
  い、日のなかで恐怖の種がわれる。蛍光灯
  で焼けしなないか、ソファで溺れないか、
  窓で迷わないか。
  わたしは、だれなのか

(杉本真維子「河原」 詩集「据花」 2014年 所収)

 
 ブレイクの「四人のゾアたち」の中には金切り声の叫びが響きわたっているが、杉本は呟く。

(水と食事を絶った硬くしなびた裸体にこそ、もっとも原始的な性欲は待ち望まれ、果てた馬の波立ったウムラウトの唇のかたちで生は終わっている)
(杉本真維子「終焉」 現代詩手帳 2009年9月号)


 杉本はこのような痛ましさをかんじさせる詩篇で、人間の中の汲みつくされぬ秘密を露出していく。それは確かに「盲の、射手の、裸の、子ども」である言葉だ。人間の中に、あるいは人間の側からここからの救いに至る道は無いというのが、聖書が徹底して語ることだが、そのような人間の姿に向きあうところに、我々は日々戻ってくる。
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