「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第221回 詩とパフォーマンス 永方 佑樹

2018年03月16日 | 詩客
いよいよ今回で、私が担当する自由詩時評は最後である。振り返ってみれば、初回で取り上げた現代美術館のイベント以来、二回目に「小説と詩」、三回目に「音響詩」と、詩集や詩誌の作品を対象とする事が大勢の時評欄では異色のものばかりを取り上げて来た。個別の詩作品を対象にすれば、取り上げられる事が少ない現代詩人たちのうち幾人かの、心血を注いた詩作の苦労に報いる一助となる事が出来ただろうから、そういう意味では申し訳なかったのだが、しかしそれはぜひ、他の巧みな時評の書き手や批評家にお任せして、私はそうした詩集や詩誌といった、現代詩の基本の形とは「別の詩型」を紹介する事をしたかった。なぜなら、そうする事で私自身、詩や表現の捉え方を多角的に見つめ直すきっかけとしたかったし、もしかしたら読者(がいるのかどうか分からないが)の中にもそれを読む事で賛否どちらでも良い、何かのきっかけが喚起されればと思ったのである。
というわけで最終回である今回もまた「基本の詩型」ではない、「詩とパフォーマンス」についての話をする事にする。
実は去る二月四日、三鷹にあるSCOOLという施設で開催された『どちらが先に口火を切ったのか、もうわからない。Vol.6』という朗読イベントを観に行ってきた。これは吉田アミさんと大谷能生さんというリーディングユニットによる言語パフオーマンスで、映像や音声に吉田さんや大谷さんのリーディングの声が重なってゆく、朗読の多層的な形を提供するものだったのだが、毎回、誰かしらゲストがそこに参加する事になっていて、この時のゲストは詩人の吉増剛造さんであった。
吉増さんの事は第一回の時評において、現代美術館での展示の事、また、映像作品「Gozo ciné」について少々書かせてもらったのだが、そうした中で展開されていたパフォーマンスを、この時はライブとして、目の前で見る事が出来たわけである。
開演前。徐々に埋まってゆく客席の四方では、何気ない日常の映像や声が延々と流されていた。イメージされている光景は、おそらく霞が関や渋谷をはじめとした東京の街で、それはついこの間通った道であり、あるいはだいぶ前に過ぎた場所であったから、それらを見、聞いているうちに、徐々に記憶や感覚が擦過されてゆき、気がつくといつの間にか吉増さんが目の前に座っていた。そうした仕組みのイベントでは、パフォーマンスの「はじまり」については、明瞭に告げられる事はない。それは「おわり」についても同じであった。「はじまり」も「おわり」も、明確に線を引いてしまえるものなど存在しないのだと言わんばかりに、吉増さんのパフォーマンスが自然と始まってゆく、そうしたイントロのイベントであった。
パフォーマンスの最中、吉増さんは目をアイマスクで閉ざし、耳をヘッドフォンで塞いで、頭の上にイクパスイ(アイヌ民族が儀式の時に使用していた棒のようなもの)をのせ、そうする事で感覚を閉ざし、言葉を枯らし、過去との交感を試みているようであった。そうした、土地や時間軸とのシャーマン的な交信を行いつつ、同時にエクリチュールを行なってゆく(あるいはエクリチュール行為をパフォーマンスに反射させてゆく)のが、吉増さんのパフォーマンスの大きな特徴なのだが、その中でも今回非常に興味深かったのが、吉増さんが自らのエクリチュールの歩行について、最新のテクノロジーを使用する事で、手元を拡大させながら映写してゆく、テクニカルなパフォーマンスを行なっていた事であった。吉増さんと言えば、手書きの原稿や楽器を鳴らすパフォーマンスから、テクノロジーを道具として使用する事を拒否しているように思われがちであるのだが、しかし「Gozo ciné」では画像が揺れるカメラエフェクトを積極的に使用したり、動画を編集したりと、元々テクノロジーを忌避しているわけでは決してなかった。実際この日も、手元を大きく映す機械との出会いにより、今まで出来なかったしぐさや交感が可能になったととても喜んでいて、私はこのイベントを観る事で、吉増さんがパフォーマンスをする上で何を重要視し、映像を製作する事で何を得ようとしているのか、真意の全貌を推し量る事はもちろん不可能だが、すこし触れる事が出来たような気がしたのであった。
で、ここで少々私の話をさせてもらう事にする。実は昨年、私は「ラハティ・ポエトリーマラソン」という、フィンランドで行われた詩の祭典に参加させてもらったのだが、このポエトリーマラソンというのが、ちょっと変わった詩祭であった。というのも、たいていの国際詩祭は世界各国から詩人を招致し、交流を行う事を目的の一つとしているのだが、この「ラハティ・ポエトリーマラソン」はあくまで一般市民が主役となり、詩を様々な形で楽しむ事を主眼としていたのである。それゆえ、いわゆる「プロ詩人」はほとんど参加しておらず、代わりにあらゆるジャンルと詩とを自由にコラボレーションさせる事で、詩を身近に楽しむ事が目的の祭典であった。そして私も、フィンランドの詩人、および日フィンのコンテンポラリーダンサーと共同でパフォーマンスをする事があらかじめ決まっていた。
しかしそもそも、異言語の中で詩を表現するという事。私にはこれが、非常な困難に思えた。と言うのも、どう考えても、自分のテキストを異国語話者に伝えようとする場合、もし単純な朗読のみを行い、音だけの乏しい情報で「詩」を伝えようと思っても、響きのオリエンタリズム以上のものはなかなか伝えきれないに違いなかったからである。もちろん、コンテンポラリーダンスを間に挟む事で、身体という、人類の共通言語のなかだちは成る。だがそれに安寧し、表現の伝達をダンスという身体表現におおむね託してしまって良いものなのだろうか。それで詩が果たして「詩として表現された」と言えるのだろうか。
我々はこの問題を解決するべく、クリエーションとリハーサルを重ね、プログラムを練った。そうして最終的に、詩のリーディングと音声・ダンス・音楽・ムーブメントとを空間の中で立体的に展開する「ポエトリーインスタレーション」というプログラムをつくった。
これは日フィンの詩人が「動くスピーカー」として時に観客の合間を縫い、時にマイクと裸声を切り替え、またダンサーが会場の内外を自由に行き来するプログラムで、日本語とフィンランド語の詩はこのプログラムの中では音として表現され、それがダンサーの身体――日本語話者であろうとフィンランド語話者であろうと、しゃべる言語の如何に関わらず、同じ機能と構造を持つ人間の肉体――を媒介にする事で、「言葉は差異であっても決して断絶では無い」のだという事、それはただ「音の違い」として肉体から発せられているに過ぎないのだというサジェッションを最終的に行う事に繋げてゆくものであった。
現地制作およびリハーサルがわずか三日ほどしか無く、完成度という点ではまだまだではあったが、しかし今後、言語を変えても様々に展開できる「ポエトリーインスタレーション」パフォーマンスのひな型をつくり上げられた事、そしてなにより、それによって「詩を立体的に立ち上げる」という事の視座が生まれた事は、私にとっても何よりの転機となった。
以降、僧侶に詩のリーディングを託す事で、仏教の身体性や概念をリズムに取り入れたサウンドインスタレーションパフォーマンスや、映像詩「ポエトリー・シネ」など、現在、詩を立体的に立ち上げる「ステリック・ポエトリー(立体詩/steric poetry)」と名付けた活動を、テキストベースの詩作と合わせて行なっているのだが、こうした活動に対して、映像作家や音楽家など、その道のプロと組めば良いだけじゃないかとか、他の表現をつたなく取り入れる事はするべきではないというような、詩人は詩だけ書いてただ素直に読んでいれば良いという意見もおそらくあるに違いない、とは感じている。だが、そうした意見はある意味もっともながら、しかしそれでも他ジャンルの専門家に表現や思考を託しきらずにあえて自ら試み、新規の表現を自らの心身に通す事は、ただ単にオーディエンスに見せる事、伝える事だけに主眼を置いたものではないと私は考えている。
とは言っても、私の言葉では納得出来ない、詩の表現としては認められない、という人も中にはいるだろう。そうした意見に対して、前述の吉増剛造さんが東京自由大学の講演で語った話を、例えばこういう考え方があるのだという例の一つとして提示してみたい。
吉増さんは自らの映像作品「Gozo ciné」において、朗読も撮影も、さらにはエフェクトまで全て自らで行っているのだが、その理由について、確かに映像としてはプロが撮ったものの方が良いし、そもそも朗読しながら自分で撮影するのは大変で、様々な人に手伝ってもらった方がよっぽどつたなくなくなるに違いないのだが、しかしそれをあえて自分でやる事、試みる事が大事なのだ、という事を話していた。単独で様々な表現をする事、それがどんなに大変で、また傍目にはどんなにつたなかろうが、しかしそうした未知の動作や過程を自らが通過する事で、他者に託している間は気づけない、様々な「気づき」が必ず得られる。そう吉増さんは言うのである。
実際、ステリック・ポエトリー(立体詩)を展開してゆく過程で、こうした「気づき」を私自身、幾度か得る事が出来たという風に感じている。
大事なのは、そこで得た「気づき」をエクリチュールへと還元してゆく事。そして再び、そうしたテキストやエクリチュールを再びパフォーマンスへと発展させてゆく事で、自らをテキストの内外に不断に循環させてゆき、立体性や多層性への視点や意識を間断なく養って、それによって新たな表現の可能性や、思いもよらない思考の誕生が生まれる事を惹呼する。これこそが詩でパフォーマンスを行う一つの大きな理由であり、効果であるのだと私は現在、考えているのである。

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