「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第226回 「豆塚エリと実存性の復権」(一) 平川 綾真智

2018年08月08日 | 詩客
 ドイツの文芸/メディア評論家であるフリードリッヒ・キットラーは一九八六年に刊行した著書『グラモフォン・フィルム・タイプライター(上)』の中で次のように述べている。《リアルなデータの流れはもはや文字や筆記者を介さず、ネットワーク化されたコンピュータのあいだを、解読不能の数列となって流通している。テクノロジーは文字を無効にするだけではなく、いわゆる人間というものから文字を吸い上げ、どこかに運びさってしまった》。かつての地域社会では人が土着を仲立ちにした共同体を形成しており、自己存在と社会存在は根付いた土地や周囲の自然環境を情報として活用していた。しかし、いつの間にか人の周囲に見いだされる環境景観は高層化や地下化、交通メディアの重層化と高速化などにより複数化し拡散を続けるようになってしまった。近代社会以降、人間が風景情報を読み解き社会生活を営んでいくことは不可能となってしまったのである。人間の「声」を表象圏域で共通環境に協働させていく「文字」も勿論、その中では体温に満ち溢れていたかつての姿でいることは出来ない。近傍に現れる標識やデジタル・サインを手掛かりとする現代社会においては、世界の状態と人間の対応は既に電子化された技術へと委ねられている。しかも人間と技術の間にある「媒体(メディア)」は、世界の状態を最適解の形でマニュアル化した「音声」や「文字」として明滅させている。メディアの機械相互による作動によって初めて立ち上がるようになった情報は、もはや私たち人間が直接読み解くことなど出来はしない。キットラーが言うように、現代人にとっての環境は解読不能の数列が流れる機械や装置に介在され、情報とイメージの次元を仲立ちにして初めて顕在化するものなのだ。生物としての人間の世界さえ身体の運動や神経系の関数として現わされている情報化したメディア社会の中で、文字は大量流通する記号となりツール化された図像となってしまったのである。言語芸術の極致である「詩」において、文字の無効化は創作姿勢の変換を余儀なくさせる。そして現代詩の多くは従来の文字という図像をサンプリングし、高度消費社会の文脈上でリミックスする記号的操作を開始していったのである。記号化した文字の流通する情報消費社会をハイパーリアルなシュミレーション世界として捉え直した結果、言語芸術は領域を一気に拡張させて新たな作品世界の産出をもたらし、発表の地盤さえも変革した。何万ものリツイートと「イイね!」が副次的に出版を起こす反転世界の中で、現代詩のハイ・ブリッド化された創作者と読者は変容連鎖の更なる展開を予見させている。

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 豆塚エリ氏は登場以来、社会潮流を超越した作品と活動で現代詩の世界に大きな衝撃を与え続けている。その衝撃を裏書きしていくかの如く、氏の言語の本質を再提示していく営為作品と聡明な眼差しを持った姿は、今や文壇の内外どちらともから熱い視線を注がれ止まない。詩人/作家としてのアイコンにすらなりつつある氏の作品と存在は、現代詩を取り巻く環境さえ変え始めていると言って良いだろう。
 よく知られているように 豆塚氏は二〇一六年六月に、小説『いつだって溺れるのは』で本格的な文壇デビューを果たした。「第三十二回太宰治賞」に応募された本作品は、一四七三篇の中から最終候補作四篇の中に選出され、筑摩書房から出版された『太宰治賞2016』に掲載されることとなったのだ。中途から車椅子ユーザーになった作者にしか書けない生々しさと繊細さが共存している作品『いつだって溺れるのは』は、その時の選考委員でもあった現代詩作家の荒川洋治氏から《これからが楽しみ》と書かれるなど、豆塚氏の輝かしい文学的出発を絢爛豪華に告知していった。この快挙は豆塚氏が小説を書き始めて僅か二作品目にしてのことであり、あまりにも早く出た結果と文才に誰もが目を瞠ったものだ。無論、豆塚氏には結果と経過を当然のものとするだけの断固たる決意と努力の下地が存在していた。氏は事故で車椅子ユーザーとなった十代の頃から詩人として生きていく強い思いを持って行動し続けており、その血が通った詩作品の質の高さは文芸誌即売会などの場で以前から大きな話題となっていたのだ。自身が主催する「こんぺき出版」で編纂/出版/販売し、信念を持って自身の詩を高度メディア社会の中で販売して生きていこうとする意志は、周囲を少し緊張させさえする強固なものであった。早くも六冊目の詩集を出版し詩人としての姿勢を一人ひとりに再考させていた豆塚氏は当時、まだ二十二歳の若さで大分県詩人会の理事長を務めるなど他を圧倒する実績を着実に積み上げていく。更に毎年、別府市で商店街の協力のもと一般には流通しない個人制作の本を展示販売するzine展を主催し行うなど、現代詩と社会を接近させる独自の活動を信念を持ち突き進んでいくのだ。高度情報社会の中で、商業と詩との乖離を積極的に問い直し言語芸術としての現代詩の営為を日常社会の中に再獲得していく氏の姿勢は、その当時から既に眩く光を放っていた。そして豆塚氏は、詩人である自分の言語世界を拡張し更なる生を認識していくために小説の世界へと領域を広げていったのである。その行為の方向性は、見事なまでの大成功を果たすこととなる。詩という言語芸術の基盤を最大限に発揮し編まれた小説は至純な結果を導き出して、二〇一五年十月発行の第六詩集『夜が濃くなる』へも重ねて熱烈な注目が集まっていくこととなったのである。それだけではない。NHK-BS1『パラレポ~パラレルワールドレポート~』でリポーターを務めたことを皮切りに氏はテレビ媒体でも活躍するようになっていったのだ。画面上でも詩人としての矜持を持った言葉を発していく姿は話題となり、二〇一七年七月二十六日にEテレで放送された『ハートネットTV』に出演した際は、氏の真っ向から取り組む姿勢が更に記事化され各媒体でトピックスとなるなど氏の知名度は文学を越えた場所でも急上昇していった。現代詩領域でも土曜美術社出版販売から発行されている『詩と思想』の二〇一八年「現代詩の新鋭」に選出されるなど氏の勢いは益々加速していっている。「大分4F(しかい)」を結成し活動を拡げていくなど、詩人として作家として言語を糧に生きている佇まいは、発達する共同体の在り方を豆塚氏が作品で必ず変化させていく確信を多くの者に抱かせるのだ。
 人間が生きていく「現実」と呼称されているものは、客観的な拘束力を持っているにも関わらず実は先駆的な所与ではない。「現実」とは、あくまでも多元的な領域からなる意味の秩序として主観的に構成されたものなのだ。この主体に構造的に内在化されていく現実構築のプロセスは、本質的的に社会的相互作用と切り離すことが出来ない。対象を外界刺激から分節化する知覚のフィルターは、準拠集団の社会的な秩序の中で組織されていくからだ。日常生活の「現実」は多元的領域の中でも中心的な意味を持っており、この領域における経験は他の諸領域における経験の原型を提供している。そして、あらゆる現実の意味経験を基本的な水準で結晶化し、安定化させているものが言語だ。言語によって定型化された類型的な意味を通し、諸経験は意識の場から現実を構成していくのである。現実の途中で、あまりに突然な視点の変更を余儀なくされてしまった際、意味経験は偏差の中で主体の言語へと一層の決定的な意義を持たせていくのだ。
 豆塚氏は言語の中に充溢した実存を、再結晶化させ作品世界に至高の贈与を打ち立てる。アンソロジー『花図鑑はなのな』(こんぺき出版・二○一八年五月一日発行)に収載されている詩作品『幻肢痛』は、共同体と発達する資本主義の庇護にあり吹きさらしとなった主体を鏡像に暴き出していく貫徹への攪拌だ。再帰的な回路を持つ枠組みの中で表層の盤石さに見出してしまった本質的な齟齬が、追従の在り方への諦観から緩やかに現代を語り直していく。《飲みさしのサイダー》は装飾的な美を発し続け、幻惑されてしまいそうな音と共に自己を掴んでくる。時間を経る度に、それは甘さを増して《ぬるく》なり、複雑化しつつ進行していく在りようは止める手段さえ見つけることが出来はしない。このまま進行してしまった先の漠然とした結果が分かっていても、偽の基準は既存の例と馴化することを奨励していく。《ミュールの先》で缶コーヒーという文明社会の大衆性と日常性が結節する象徴を主体は怒りと共に感受する。喪失したものは記憶と記録を不可分にして、痛みだけは残すのだ。いくら目を逸らさせられても存在した事実は、消去することなどできないのだ。

 ロイクロリディウムの周到さと執念なんて
 待ち合わせるほどじゃなかったから
 ひとがよすぎたよ 誰だっていいひとに思われたいに決まってるって
 そう思ってた
 いやな敗北じゃないむしろ、すがすがしいくらい

 言葉さえ失えは みんなひとつになる
 荒野の片隅で揺れていようね 月でも見上げて
 音楽を奏でるように花は実を結ぶけど
 幻肢痛を伴う町、きらきら、音がするね
 ぬるく甘くなっていくね

 夏無、夏無、夏になったら死ぬよ。もうじき季節も死ぬのにねえ

(『幻肢痛』部分)


 個という自己たちが断片的な問題へと対峙していく時に、多くの物事は共同体の公示の次元では実に巧妙に隠されている。形式の問題へと無毒化することなく豆塚氏は透徹に眼差し提起化していく。政治的な流れを壮大な歴史の中で読み解いていく姿は《夏無》の死に象徴化されながらも《季節》の死へ達観をもたらし、主体形成にまで踏み込んでいく。豆塚氏の作品は鏡像体としての実存だ。かつて詩に血が通っていたころと手をつなぎ、氏の実存性は時空を超える色彩を作品世界に獲得したのだ。
(続)


■参考文献:
『グラモフォン・フィルム・タイプライター 上』  著:フリードリヒ・キットラー、
訳:石光泰夫/石光輝子 (ちくま学芸文庫、二〇〇六年)
『現象学的社会学の応用』著:P・L・バーガー、監修:中野卓、訳:桜井厚
(御茶の水書房、一九八〇年)
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