「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第224回 『現代詩手帖』2018年5月号、特集は「新鋭詩集2018」。 小峰 慎也

2018年06月06日 | 詩客
 『現代詩手帖』2018年5月号の紺野ともの詩誌月評「夢色バックドロップ」で、「自分に関して言えば、あまたの文章に対峙するときは「フォトリーディング」になってしまい、ページを脳内にスキャンしていくので、「声が立ち上がってくる」ことはほとんどありません。」(しかし、ここでとりあげている須永紀子の作品からは「声が行間から聞こえ」とつづく)と書かれていたので、そこまでいいきってしまうのかと軽くおどろき、それがあたりまえなのかなあという気分になった。ぼくの場合は、詩を含むすべての文章を、頭の中ですべて音声に変換しないと読めない。当然、超低速(文字組みにもよるが、普通の散文の本で時速20ページくらいか)となる上、文や文章のまとまりとして意味をとらえることができず、意味が部分化して、間歇的になる。音声と平行して起こってくる、ことばの切り方、意味の切りかえし、つながりのおかしさ、のようなおぼろげな「文体」だけを読んでいるような感じだ。
 この号では現代詩手帖賞の発表があった。その選評対談の中での、岸田将幸の発言が「参考」になった。石松佳の作品について。

 岸田 その煙に巻く部分において、ぼくは広瀬さんと対立してしまうんです。石松さんの詩は、飛躍や言葉の出し方にお洒落さがあって最初は面白かったのですが、だんだん引っかかってきて。それがまさに広瀬さんのおっしゃった唐突さです。今回の「リヴ」で言えば、「私小説のような、わたしのnephew,」、ここでまず躓く。数行先の「原野って、いつでも心理的だった」も、抽象に対する抽象で喩とするのは曖昧な感じがする。生け花に投げ入れというのがあって、詩でも言葉をポンポンと放る方法はぼくもやっていたし、うまくいけばカッコいいのですが、少し雑さが否めないのかな、と。「水面、揺れる、/合鍵」という箇所もどう評すべきか迷うし、「硝子戸/お豆腐」は組合せ的には意外性があっていいけれど、言葉を投げ出す感じに妙な手慣れがあるように思う。

 自分(岸田本人)もやっていたけど、自分はうまくやっていて、「カッコ」よかった、とつい(?)もらしてしまう意識の持ちかたが気になるが、指摘自体はうなずける。そのあとの「詩は表面的には突飛なものであっても、精緻なロジックを持つものだと思うんです。」という発言にも、「精緻な」といういいかたに引っかかりをおぼえるが、あ、そうなのか、と、超低速間歇読みをして、なんとなく「いい」とかいう程度のことを思っている人間を啓蒙してくるところがある。
 ただ、指摘している箇所をどう「判断」したらいいかには、いつも確信が持てない。「どうとでもいえる」がいつもつきまとっているからだ。まあ、ここで変な反省をするより、対象をいきいきと見せることに注意していけばいいのかもしれない。

 マーサ・ナカムラ「サンタ駆動」は、前半が、埋まりすぎていて抜けがないように思えた。ここまで親切に書き込まれていると、読まされている感じになって負担だ。隣の男が液晶画面を見せてくるところからのとんでもない展開には、ただでたらめに展開させようとしただけでは絶対に出てこない細部、飛ぶ前のところからは推測できない細部がある。細部といい加減な飛躍が同時に起こるために、思いもよらない、という感じを、繰り返し読んでも呼び起こされる。
 一方、深沢レナ「ヒトラーの抜け殻」は、着想自体には独自のものがあるが、そのタイトルにある題材のことしか書いてなく、着想の範囲から出ていないように思えた。となると、散文詩の長さがかえって停滞につながってしまう。しかしこの文章を読むと判断に迷わざるをえない。書くことそのものの喜びから、距離をおき、何かを説明するためにだけことばを使おうとするこの文章は、よくないとは思えず、だとしたら何であるといったらいいのか、ということだ。
 藤本哲明「背後から、HOW LOW?」。「Hallo」→「HOW LOW?」→「どれくらい悪い?」とずらしてきた、その「どれくらい悪い?」に引っかかってしまった。何かを射抜きそこねている感じがしてしまったのだ。第一連で、英語や何かが混じってくるのも、読むリズムのさまたげになっている。しかし、第一連最後の部分から第二連にかけての「どちらにしろLOSERのかたわらに負け犬とメモる癖を一九九八的恋人が「犬に詫びたほうがいい」と静かな筆致で書き残していたのだった//そうやって/チル・アウトする足/が欲しいが/試しに、二〇一八/部屋をで隣の公園/へ行くと」という箇所など、無造作さとくっつけかた切りかたのコントロールがよく(雑ないいかただ)、「負け」た状態がおちいらせられる態度をことばで切りかえしている。自分がこう生きている、ということが単に書かれたということではない、書くことによって生きる態度があらわれた。詩を書く、をせまい範囲での「書く」から、「生きる」に引き出す書き方だ。

 鈴木一平といぬのせなか座。鈴木一平単独のところはおもしろい。しかし、いぬのせなか座ということになると、このような部分を見せられてもという気持ちになってしまう。やっていることの方向がせまく、また、それっぽい語り口に行儀よく終始しているように思えるのだ。どれだけ部分化や再構成・反構成が行なわれてもパーツそのものがそれっぽさに終始していることの印象は変化しない。それに。というか。「試み」「実験」というかまえには、はじめから結果がわかっていることを実行しているだけという面があり、思いつきを打ち消すような力がはたらく。「試み」「実験」というかまえでつくられるものというのは、そのかまえの「それらしさ」に終始するという意味でつまらない。確信と不安、両方に踏み出していないものは、なにかにおさまっていく力しか持てない、ということか。

 河口夏実と海老名絢の作品は気になって何度か読んだ。
 河口夏実「ラジオの日々」。ふたしかなことばの運用が気になる。「そういえばわたし、顔を洗っていたときに列車と消えていった/傘を思った」の「」は「列車」「とともに」という意味なのか「列車」と「」を並列するものなのかわからない。「本を読む途中を眠っていたのだ」の後者の「」も、表現意識をアピールする以外の効果がないように思えた。わざわざやっている、はしばしに見えるふたしかなことばづかいが、それ以上ではない気がしてしまった。最後の「向こうの映画 犬を連れて歩いて」の軽い断絶、転換は気持ちがいい。
 海老名絢「のっそり、目覚める」には、つかまえているものをしっかり書く強さがある。
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