「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第228回 最果タヒの死生観と、現実の死 タケイ・リエ

2018年10月17日 | 詩客

 今年の夏は異様に長かった。身近なところで大きな災害が起きた。詩歌などの書籍を読みたい気持ちもだんだんと、しぼんでいった。各地の豪雨や地震で多くの人が亡くなった。人の死に対し、詩に何かができるはずもない。生きたくても生きられなかった人たちの生き様を、メディアがすごいスピードで伝え始める。命を落としたひとの人生の一部が切り取られ、映像や言葉という情報になる。それも、過去形で。
 グローバル時代の情報化社会は、私たち人間ひとりひとりの、現実社会で営む「生」を呑みこんでいってしまう。現代の私たちは、身近な者の死を、そして自分の死をどのようにみつめたらよいのだろう。身近な者にしのびよる死を、自分なりのやり方で迎えいれようとする『生き事』13号の佐々木安美「妻の息」を読んだ。

 大きな息に包まれて
 クダをいくつも通り抜けた
 死が
 迫っている
 種子
 虫
 草木
 すべての先住のものたちの息が
 混ざり合っている大きな息
 ツヤアオカメムシ
 クダマキモドキ
 生き物に
 隙間なく包まれて生きたのだと思う
 コノテガシワ
 ヒメコウゾ
 生き物たちの息に押されて
 ヤブコウジ
 クスノキ
 空高く
 どこまでも


大きな息に包まれて/クダをいくつも通り抜けた」という二行から、呼吸器を通した呼吸が、長きにわたり続いているという様子が伝わる。通り抜けるのは、呼吸だけではないのだ。介護する側の意識に「死が迫っている」という覚悟が「通り抜ける」。「種子」「」「草木」はこれまで妻とともに過ごした情景ひとつひとつの中にある、生きとし生けるものの姿であり、今、妻の息はそれら「すべての先住のものたちの息」に溶けあい、混ざっている。昆虫や植物の名がいくつも挙がる。生きている命の姿を、同じ場所、同じ空間、同じ空気を吸って、妻と見ていた。何十年間、共に過ごしてきたその事実ひとつひとつを確認し、納得しようとする。「死が/迫っている」現実にひとは備えるのだ。

 ひとが「」についてぼんやりと考え始めるのは、いったいいつからだろう。夏休み明けの新学期は一年のうちで最も、中高生の自殺が増える。近年、新聞、テレビ、SNSなどで子供たちに向けたメッセージが流れるようになった。最果タヒの詩集『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア 2014年)。冒頭の「望遠鏡の詩」を、読んでみよう。

 死者は星になる。
 だから、きみが死んだ時ほど、夜空は美しいのだろうし、
 ぼくは、それを少しだけ、期待している。
 きみが好きです。
 死ぬこともあるのだという、その事実がとても好きです。
 いつかただの白い骨に。
 いつかただの白い灰に。白い星に。
 ぼくのことをどうか、恨んでください。


 この詩の中に「死者」はいない。言葉で考えられた「」がある。
 現在、三十代前半の最果タヒの詩の読者層は、主に十代後半から三十代前半だと思われる。彼らに死生観というものがもしあるとするならば、ぜひ聞いてみたい。最果の詩の中で、死んだ人間は夜空の星になる。夜空に輝く「白い星」は美しい。「きみが死んだときほど」美しいのだ。「ぼく」はそのように期待している。「きみ」が「死ぬこともあるのだ」。それは「事実」だとしているが、いつか訪れる可能性のひとつにすぎない。「」は形式であり、実際にきみがどのようなかたちで死ぬのか、リアルな死は浮かんでこない。死はいつの日か「事実」になるが、今ではない。『死んでしまう系のぼくらに』の中の多くの詩篇に、「死ぬ」「しんだら」「死ね」という言葉が散りばめられている。けれども言葉は、言葉以上の意味を持つことはない。人生の途中で、自分の心の暗い闇を覗きこむことが誰にでも、一度は必ずある。最果タヒはその闇を惜しげもなく広げ、見せてくれる。わたしたちは闇を覗き、震え上がったり、立ちすくんだり、涙を流す。最果の詩は、言葉にならないモヤモヤした思いを代弁してくれている。そこに、シンパシーを感じる。最果の詩は、占いと同じ、もしくはそれ以上の効果を「わたしたち」にもたらす。研ぎ澄まされた表現の抽象性が、最大多数にあてはまるからだ。このモヤモヤの根源は、自分の存在意義を認められ、愛されたいという気持ちだ。(それは、誰に?)最大の謎は、この(それは、誰に?)である。誰に存在を認められたら、安心できるのだろう。愛されたいという欲求が強いのは、自尊心がじゅうぶん育っていないからではないのか。
『天国と、とてつもない暇』(小学館)で、最果タヒは、次のステージに入った。第一行が「大人になる」という言葉で始まるこの詩集で詩人は読者とともに向かう方向を定めた。子どもを卒業したひとだけが、大人になれる。大人になると決めるのだ。成熟することをいつまでもいやがり、傷つくことをこわがるのは、意味がないんだよ、というように。

 終わりが来ないことに慌てている、もがいている、溺れ
 ている、ここに水があったっけ? もがいている、出ら
 れない場所にいる気がして、足がつかない気がして、流
 れていく気がして、自分というものが溶けて消えてもこ
 の意識だけは残る気がしている、どこまでも大きな洗濯
 機の中にいるだけならいいのに、私はひとつの汚れとし
 て、流されそうになりながら太陽の周りを回っている、
 ジェット乾燥が、やってくるのだ、いつかは、そう信じ
 られたらよかった、けれど永遠に回り続けるのかもしれ
 ない、そのほうが美しいだろうとも思っている私の心臓、
 胃腸、膵臓。限界のある身体を、持っているから、くる
 しみぐらい、永遠でも、いいんじゃないか。獣の本能。
 傷つくことを、こわがらないで、無駄だから。


クリーニング」というタイトルの通り、大きな洗濯機のなかで自分の汚れた自我をぐるぐると洗い、やってくる次の季節に備えようとする。汚れは消えても、不安は消えない。大人になりたくないのは誰だって同じだった。いつまでも、じぶんに向き合っていたい。けれども、もしかしたら、いつかは誰かと、「種子」「」「草木」を見たいと思うのかもしれない。そして、これまで生きたより何倍も長い、何十年もの時間を、いっしょに過ごすのだ。それも「」を同じ、いつか訪れるかもしれない、可能性のひとつだ。
いい暮らし」という詩には、驚かされた。「生まれる前がちょうどよかった、わたしもあなたも今は余韻。八十年が続いていく、一度も、下がらない体温、終わらない循環。ひたすら泡立ちつづける、感情と感傷、抒情詩を書きつづける私の瞳。」三十代、四十代、五十代、六十代、七十代、八十代。最果タヒは、これからこれまでの人生の何倍も長い時間を、読者とともに過ごすのだ。ひとと寄り添う時間と、空間が広がる展開を、きっと見せてくれる。あたらしいひとたちがすこしずつ生まれる。その隣に大人が寄り添うのだ。
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