「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第216回 佐峰 存

2017年10月19日 | 詩客
 人の往来を眺めつつ、詩について考えることが多くなった。行き交う人々を見ていると飽きない。初めて見る姿恰好に想像が広がる。同じような感覚で、詩の文字を眺めていると愉しい。日本語の一つひとつの文字は不思議な形をしていて、例えば中世の大聖堂の装飾や飛び交う鳥の残像、そんなものを想起させる。文字の曲線は迷い込んでみると、日々の生活の諸手続きや時の流れから解かれた心持ちになる。文字の間に浮かぶ世界は広く絶えず変化している。移動の多い現代の生活の中で、手元に置いておきたい言葉の息遣いがある。
 伊達風人氏の詩集『風の詩音』(2012年 思潮社)はそのような呼吸で満ちている。

ショートしかけた
集積回路内では
原水爆と人間とが並列に配置されている
自然の異物として、あるいは抵抗として
僕らを氷河期まで護送してゆこうとする
その凍えた統一規格を、せめて分解するために
それとは逆に、
原始的熱音をさらに上昇させながら
時間を遡行しようと試みる
この半導体は、どうやら
文明から抜け出したいようだ

(「摩擦」『風の詩音』)



 「集積回路」、それは私達の体内の今ここにある神経と思考の配線のことだ。それが「ショートしかけ」ている。その回路の中で、言葉で囲えるあらゆるものが均質、「並列」になる。「原水爆」―おそらく人類が目にし手にしたモノの中で最も恐ろしいもの―と「人間」が共に記されている。その“並列のリスト”を私達一人ひとりに持たせるのは何なのか。それが「凍えた統一規格」だ。それは人間が生き残っていく過程で、「自然の果物として」現れて、「氷河期」まで私達を導こうとする。
 語り手はそんな状況と、語り手自身の間合いで向き合う。統一規格を全否定する訳ではない。それは私達人間と切っても切れないものだからだ。しかし、「せめて」もの抗いでそれを「分解」すなわち対象化しようとする。「原始的熱音」か。私達にとっての原始はどこにあるのか。確かな熱と音が、読み手である私の腕の皮膚の下にも流れている。その流れが繋がっていく「文明」の外。
 語り手は自身を「半導体」と呼ぶ。半導体はあらゆる電子機器に組み込まれ、社会を動かす。無機質で、一糸の乱れもなく均一的な、美しくもある輝きを放っている。機器の中でそれは「抵抗」しながらも、その一部として機器を成立させていく。人の社会と語り手、そして読み手である私達の多義的な関係性に発生する“摩擦”が詩として刻印されている。足の竦みそうな現実を証言として精確に書き留めていく。
 いつまでも文字に浸っていたくなる。伊達氏の言葉が私を私自身の現実と対面させてくれる言葉だとすれば、詩集『イナシュヴェ』(2013年 書肆山田)におけるたなかあきみつ氏の言葉は私を見ず知らずの遠くへと導いてくれる言葉だ。

色彩の森の純ざわめき
そのふきこぼれる胞子たちを
刃こぼれなしに光線のくちびるで
まずは徹底的に決済するために
フィローノフの腕の傍らに
釘づけになっている釘づけに
非植生の緑までの
木々の呼吸をときには金属的に
ときにはぐるぐる螺旋的
終始その夢時間のこめかみまで
打ち寄せるあれは
悍馬の蹄を貫流する血
親愛なるアーラヤ

(「フィローノフの時空」 『イナシュヴェ』)



 たなか氏の言葉の魅力はその音楽性にある。言葉、否、文字の音符が読み手の中で不可思議さに満ちた感覚、火花を呼び起こす。「純ざわめき」「光線のくちびる」など目新しくも実感が湧いてくる言葉の並びが目に心地よい。漢字と平仮名と片仮名が混沌を作り出し、混沌のままで飛び込んでくる。文が一筋の意味を持つ必要はない。私は漢字の複雑な形状に絡まって、平仮名の曲線に意識を滑らせる。と思ったら「フィローノフ」。突然現れた片仮名の名に軽やかな気持ちになる。「釘づけになっている釘づけに」という言葉の繰り返しも旋律を成している。
 「夢時間のこめかみまで」という言葉の組み合わせも面白い。そして「打ち寄せるあれは…親愛なるアーラヤ」という呼びかけ。召喚される名前は安らかな響きを持っている。

鶏卵と喉笛を瞬時に変換するように
バサッと幾何学の外へ断ちおとされる風景
ノイズの地肌でしかないそこへ
それまで視線だった瘡蓋や錆の断裂が群れをなして漂着する
てんでに火気をおびた原景の破線はひたすら砂呼吸
声の痣はなめし皮からもウィスキイの獣毛からも
やおら発着を繰りかえし
風のレンズで発吃しては
その熱から波状的にブレつづける

(「闇の線」、同上)


 作品「闇の線」も目にとって悦びだ。「鶏卵と喉笛を瞬時に変換する」というくだりの、熟語が路上の石のようにその場限りの規則性をもって押し寄せる様(さま)に心が躍る。風のように文字の塊を意識全体で受け入れる。「瘡蓋や錆の断裂」、「火気をおびた原景の破線」はよい調べがして、「ウィスキイの獣毛」という表現は微笑ましい。晴れやかな気持ちになる。飛行機のように「やおら発着」、反射する「風のレンズで発吃」。色彩も目に浮かぶ。嵐の中の頑強な枝葉のように、「波状的にブレつづける」。
 漢字の森林を潜り抜けて、今度は平仮名の水面に向き合いたい。田中さとみ『ひとりごとの翁』(2017年 思潮社)の冒頭に置かれた「ひとりごとの翁」は平仮名を通じ世界の形状を余すことなく見せてくれる。

かわもにしずむ魚は光る環をのせておよいでいる。
あたたかみをくゆらせて祝宴だ。
かわうそは恐れるあたまをかきむしり鏡もちを投げ入れる。
ときどき魚に当たることもあり
しろめの魚が浮かぶ。

人もとうとうと
流れるおとにさそわれて
流されることもある。
とうとうと
流れに身をまかせているうちに
ひとりごとの翁にぶちあたり食われる。
 なにごともなく川は流れる。

目をそらすな

(「ひとりごとの翁」)


 何よりも魚の情景が鮮やかだ。今まで魚に「光る環をのせ」た詩作品があっただろうか。この一表現から、どこまでも波紋が広がっていく。まさに「祝宴」だ。「鏡もちを投げ入れる」「かわうそ」も実際に目にしてみたくなる。天使のような魚が出てきたと思ったら、今度は「しろめの魚が浮か」んできた。光を宿しながらも過酷な動物の営みから、視座が「」に移る。人を取り巻く状況も相変わらず厳しい。この短い一連の中に登場する多くの「流れ」。平仮名の柔らかさが、必ずしも柔らかくない世界の有様を浮かび上がらせる。「ひとりごとの翁」はずっと陣取っているのだ。「目をそらすな」という言葉が力強く響き渡る。
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