「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評 第95回 求愛の詩法の探求 小島きみ子

2013年05月04日 | 詩客
 詩を書くということにおいて、人間愛の求愛を求めているなどと書くと、またまた大それたことになってしまうが、究極の詩法だと思っている。詩書き人も読む人も、あらゆる苦悩を経て快感に到達できればそれですべては完結されるさ、と思う。
 初めに2013年4月に届いた詩誌についての感想と、これまでに榎本櫻湖さんの発行してきた詩誌の感想を述べたいと思う。

Junction 86(草野信子)
 柴田三吉さんと草野信子さんの二人誌。草野さんの作品、「テールスープ」は、福島へボランティア活動に行った藤井君という青年との食事中の会話。泥とガレキのなかの遺体を片づけた衝撃を、草野さんとテールスープで分かちあう。食事とは、充たされないものを、物を食べることで分かち合うことかもしれない。苦悩も噛み砕き、飲み干してしまう。
 「泥かき がれきの片づけ/ボランティアをはじめたころは からだの震えがとまらなかった と/どんぶりのスープを れんげですくいながら言う/おれ 軟弱もの だから//うつむかなくては言えないことは 言わなくてもいいのに//互いが いま それぞれの場所にかえるとき//泥と がれきのなかの 遺体を/藤井くんは わたしにも分かとうとしている//
 この食事の場所には、詩の表現に到る前段階のラテン語のテクネーという癒しの術があると思う。テクネーの二番目の意味はポイエーシスで「出で来たらす=創作する」という詩作の意味がある。テクネーの意味と使い方はヒポクラテスの医療従事者への「医の倫理」によるもの。藤井くんという青年の行為を食事で分かち合ったことから派生してできた作品です。草野さんの詩は、比喩が効果的に使われるのですが、今回のこの作品に有るのは、ヒポクラテスの「人への愛のあるところには、またいつも癒しのテクネーへの愛がある」と私は感じています。藤井くんのボランティアによって体験した行為を「テールスープ」で分かち合う草野さんの行為。癒しのテクネーによって出で来たらしめられた創作の行為「ポイエーシス」がこの作品でした。

交野が原74(金掘則夫)
 先ず、目がいくのは一三人の詩人が一三冊の詩集評を書いていることです。この量はどこの同人誌にもありません。扉の詩は、一色真理さんの「書き置き」。野川のことが出てくる夢と月。平林敏彦さんが「瑠璃の青」を書いておられる。春の初めに咲きだすイヌノフグリの瑠璃の青だろうか。心の内がますます研ぎ澄まされて、どうぞ穏やかな日々をお過ごしくださいと思う。
 渡辺めぐみさんの「庭の子」「やらなけらばやられるぞ」「成仏しな成仏しな」という微かな風の幼子の声が、星降る夜に降ってくる。研ぎ澄ますとは、研がれたものに触れていくことかもしれない。海埜今日子さんの「そら、そら、さいて」の二行目にもそんな研ぎ澄まされた刃物がぱっくり口を開けて「くびのない、かんじょう、よくないまさつが くうをさく、さくために、ぬぐう」 

季刊ココア共和国vol.12(秋亜綺羅)
 秋さんの作品+ゲストのブリングル、坂多瑩子、北条裕子、詩人アリス。詩人アリスの作品はtwitterに連載しているものからということ。初めて読みました。この名前でどこまでの冒険ができるか楽しみです。感受性の感覚、意識の認識、言語の扱い方は意外と普通です。この名前を使ってアリスが自分自身の自我を解放することを試みているという書き方です。解放の前に棄却があるのでしょう。「詩人アリス」はそのあたりから誕生したという気がしてならない。

玩具箱2号
 花潜幸さんの個人誌。折畳んだ黄色のカードの裏表印刷で手作り50部限定。四行の「スペランッア」という作品。「そこに追い込まれた小さな星を拾った」赤い星の人形の折紙つき。絵本のように可愛い詩誌です。小さな詩誌ですが、心の芯に染み渡ります。

⑤季刊 びーぐる第19号
 特集は「詩と笑い」。五人の詩人による小論考。その中で田中庸介さんの「あっちでアシカ・・・・・」に、私も感じていた興味深いことが書かれていて、個人的に納得した。論考は「日本語の音韻に重きを置いた児童文学の詩を読みながら「詩のユーモア」について語っています。私も谷川俊太郎の子どものために書かれた詩を小学生に読み聞かせたことが三回ほどあります。彼らは本当によく「笑う」のです。意味よりも、言葉の音に鋭く反応するのです。それは、語の音への人間の子どもの「聴覚」の反応ですが、田中さんが自作詩を朗読する場合にもそれは起こるようです。田中さんの言葉を借りるとそれは、朗読者の「ユーモア」として受け取られるようです。ああ、なるほどと思いました。そして、谷川詩の『ことばあそびうた また』における心理と「個体距離」を述べていて参考になるものでした。

雨期60号記念特集号(雨期編集部)
 特集は「詩の未来、これからの詩」で、編集人の須永紀子さんを含めて二五人の小論考。60号ということですが、初めて読む雑誌で、記念ということでお二人の方から届くという奇遇。論考を寄せている、岡島弘子さん、金井雄二さん、神山睦美さん、草野信子さん、宮尾節子さん、須永紀子さんの言葉に頷きながら、詩の入り口は広いけれどもその門に入ったら中の路は狭くて深いのだと思う。人生は楽しいことばかりじゃない、現実は苦しいことばかりだ。須永紀子さんの「多くの自然な死、無念の死について〈思う〉ことをしなければ、何も見ていないと同じだろう。・・・〈死〉の想念を抱きつつ、新しい表現を探っていく。そこに未来の詩の在処があるのではないかと考えている。」というところに共感する。

ル・ピュール16(水仁社)
 年二回発行誌。ときどきだれかれとなく送っていただいている好きな雑誌です。一五人の詩と中島悠子さんの短歌。どれもこれも成熟している。それは豊かな知識と経験の上から放たれている言葉だと感じる。それで、柿沼徹さんの「赤い口」に酷く惹かれてしまった。「人間のそのような姿を見るのは初めてだった。キャベツ畑のむこうに農家があり、その庭先から、女が歩行者と通り過ぎる自動車に向かって、大声で避難しているのであった。」という第一連から騒動がはじまるのです。

ピエ8号(海東セラ個人誌)
 札幌在住の「海東セラ」とはもちろんペンネーム。薄いページュの表紙の中綴じ本で本文の用紙は表紙よりは濃い色のページュで一二ページ。表紙のカラー写真もプロの技。作品「ななつ」では水彩画とのコラボ。全作品五篇。五篇と数えていいのか。最後のページは後書なのか字体も変えてあって不明の散文。随分と文体が変わったと思う。

きょうは詩人(編集発行。長嶋南子)
 私より少し上の女性ばかりの雑誌。何年か前のことですが、モヤシ炒め、というものをシャキシャキに作るにはどうしたらいいの、と思っていた時「きょうは詩人」で長嶋南子さんがモヤシ炒めの詩を書いていたことがあって、その通りに作って成功したのです。今回は「猫又」「無職」を書かれている。人生なんて自分が猫だと思えば、タイトル「軽い身のこなし」のようなものだった。小柳玲子さんも猫の詩を書いていて、こちらは画廊の絵の中に棲んでいるらしいフランスの猫でアンという名前。

Aa vol.6
 お洒落な表紙デザインは同人の萩野なつみさん。加藤思何理、高塚健太郎、タケイリエ、萩野なつみ、疋田龍乃介、望月遊馬。関西在住の若手詩人六人による六七ページの雑誌。目次がないので、好き勝手に読むが、「シロちゃん」が好きだった。私が、幼年時代に遊んでもらった猫の名と同じだ。作品に登場するシロちゃん、虹子さん、語り手の、ここに有るという在り様が、意識なのか幽霊なのか、たんなる病気なのかわからないが、なんという自由さだ。作品として読ませるによい分量と構成で、佳作だと思った。「熊の子ども」がいいと思ったらタケイさんだった。6号、個人的な好みでタケイリエ、おもしろかった。

 終わりに、創作行為をする者は、3.11以後の存在の在り様が変化したと思う。「有る」といわれた(cogito)は失われたのか。感覚や感受性の(figure )は変容したか。
 ということで、榎本櫻湖が編集発行した雑誌は手許に六誌あるので、その外観を紹介する。詩誌発行は、「櫻湖figure=現代詩」を物質化させる試みだと思う。それで櫻湖は、このように幾つもの雑誌を発行しては「櫻湖cogito」を確認するのではないか。まず初めに
(1)「それじゃ水晶狂いだ!創刊号(2011年12月25日発行)」は野村喜和夫、伊藤浩子、海埜今日子、小笠原鳥類、杉本徹、広瀬大志、望月遊馬、櫻湖の八名が参加する同人誌だったが、その後の発行を知らない。この雑誌は、それぞれの書き手のプロフィールまで入ったなかなかの誌面で、表紙画は小笠原鳥類が描いている。
(2)「モンマルトルの眼鏡 第一号(2012年7月7日発行)」は五名の執筆者で41ページ.櫻湖は散文詩を書いているが、井上法子、朱位昌併の詩がこの雑誌発行人の櫻湖に合わせて書いているのか、井上法子の「残念ながらこの感情は綺麗なんだよ」の詩句がとてもいいと思った。その後、どうしたか。
(3)「臍帯血WITHペンタゴンず 第弐号(2012年7月12日発行)」。執筆者は六名で51ページ。この号では、暁方ミセイの「デトリス見聞」が非常に良かった。櫻湖は言葉の豊かな勢いはあるが、それだけであった。 
(4)「おもちゃ箱の午後 5(2012年11月20日発行)」装幀、清野直子。執筆者十六人という多数で60ページ。 一人当りの担当するページ数の決まりはない様子で、四~五ページ。フランス詩の翻訳もある。このときは、櫻湖はあまり個性がなかった。ブリングルがおもしろかった。
(5)「散文詩誌・サクラコいずビューテイフルと愉快な仲間たち6号(2012年11月25日発行)」装幀、清野直子。執筆者七人で63ページ。ミュトスがあって構造があって読ませたのは、金澤一志と望月遊馬。小林坩堝も寒気がする鋭利な感覚だった。
(6)「漆あるいは金属アレルギー創刊号(2012年12月25日発行)」装幀、金澤一志。執筆者九人。91ページ。一人当たりのページ担当量は10ページという分量。ここまでに挙げたそれぞれの雑誌の外観は、印刷所が株式会社ポプルスで、表紙はカラー印刷。本の背に、きちんと雑誌名が入るという厚さを維持している。六種類の詩の雑誌を発行するという詩活動によって辿りつこうとする地点を何に定めているか。執筆者が、現在の日本の現代詩というジャンルの言葉の最前線に居ると思われる詩人たちの、暁方ミセイ、ブリングル、望月遊馬、高塚健太郎等の若い書き手たちと、中堅と思われる広瀬大志、金澤一志、福田拓也等のほかに、現在の現代詩の在り様を牽引する野村喜和夫氏も混ざって、現代日本語の言葉がビームのように突き刺してくる。同人誌ではない雑誌への寄稿は、編集発行人の企画や意図に沿って作品を書くことが求められるだろうし、発行人は求めていいのだと思う。言葉を使って創作する現代詩は、個人の人生への恋愛や生死の日常を超えて、喜びや悲しみや苦しみという感情を、読む人に「快感」として届ける作業だと思う。2012年12月創刊の「漆あるいは金属アレルギー」は、書き手の充実もあるし、一人が10ページを使って書いている長編詩は、それぞれに読み応えがある。雑誌創刊にはマニュフェストがあるものだろうけれども、そうしたものはなくて、元旦の朝に届いた衝撃の雑誌だった。執筆者は、暁方ミセイ、伊藤浩子、小笠原鳥類、金澤一志、杉本徹、野村喜和夫、広瀬大志、福田拓也、榎本櫻湖。とくに、暁方ミセイの87ページからの「冬子」の感情や感覚の新鮮さに激しく好感をもった。櫻湖は、「十字架から鹿を覗く男」という作品を書いているが、「地上にあって主とともに苦しみなさい」と言っておきます。

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