「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩評 僕は何者かになりたかった:松本圭二『詩人調査』・松下育男「初心者のための詩の書き方」に関連した小文 浅野 大輝

2018年01月24日 | 詩客
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 小説を書こうと思った。
 中学生の頃のことだ。学校の2階から3階へと向かう階段を上りきったところで、そう思った。西日が差し始めていて、階段の床は緑から黄緑にうつりかわって見えた。
 いま思い返せば、僕は何者かになりたかった。
 幸いなことに、僕はのうのうと生きていた。大した怪我や病気もなく、家族にも友人にも恵まれた。勉強は決して好きな方ではなかったが、かといって嫌いな方でもなかったから、そこそこの成績を得ていた。いまじゃ見る影もないが、そのころは運動もそこそこできた。リノリウムの床の上で、前方宙返りなんてしていたくらいだった。記憶のまぶしさと、そこにある無謀さに、思わずうめき声が出る。
 これらはどれも幸いなことだったが、しかしそのころの僕は(も?)馬鹿者で、その幸いが苦痛でもあった。つまり、僕には物語がなかった。少なくとも、そのころの僕にとっては。勉強も運動も、そこそこできた。でも、そこそこだ。ずば抜けているわけではない。支えてくれている人が大勢いたが、その幸福に気がつくにはあまりに幼稚だった。
 僕が僕の物語を手に入れて生きるためには、どうしたら良いのか。それが問題だった。

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 友人から松本圭二を教えてもらったのは2017年の夏の終わり。吟行帰りに仙台の丸善に立ち寄って、ちょうど刊行が始まった航思社「松本圭二セレクション」の『ロング・リリイフ』『詩篇アマータイム』を買った。それ以来、たとえすぐには読めなくともセレクションの新刊が出るたび買い足している。

 商業雑誌の投稿欄に詩が掲載されたなら詩人合格か?
 ノン。そうではない。
 では商業雑誌から詩の依頼が来れば詩人合格か?
 それも違う。
 じゃあ(詩人)という肩書でエッセイだの書評だの映画評だのを書くようになれば詩人合格なのか? それともシンポジウムや朗読会や学園祭のステージにゲストとして呼ばれるようになれば詩人合格か?
 むろん違うだろう。
 詩集を出せば詩人合格か?
 違う。
 その詩集が権威ある文学賞を取ったら?
 違う違う。
 園部は思う。そんなもの、屁の突っ張りにもならないだろう。結局、詩人判定は自分自身で下すしかないのだ。しかし、いったい誰に、そんなことができるだろう。

松本圭二「詩人調査」


 2017年末、セレクションの第7巻として刊行された『詩人調査』は、「あるゴダール伝」「詩人調査」の小説2篇を収録する。ジャンル・形式としては小説に分類されるが、その内容は「詩とは何か」「詩人とは何か」という、詩・詩人の存在への問いが一つの基礎となっている。
 「詩人調査」では、元タクシードライバーで酒浸りの男・園部が、(ヒラリー・クリントンに似ているという)宇宙公務員によって、詩人かどうか調査される。園部と宇宙公務員による問答は続き、その果てで宇宙公務員は園部が詩人かどうか判定する。上の引用は、その判定直後の園部の独白である。
 ある人が何者かになろうとしたら、その人はどうするべきなのか。その「何者か」というのが社会一般の職業的なものであるならまだ良いかもしれない。何かの資格がある、何かの試験に合格した、または何らかの選考を通過した。そうした一つのはっきりとした境界が定められる場合は、それに則した形でその「何者かになった」と名乗ることも可能である。だが詩人などのように、その何者かになるための明確な境界が必ずしも存在しない場合にはどうしたら良いのだろう。
 「詩人調査」の園部、あるいは「あるゴダール伝」の登場人物たちは、それぞれ置かれる立場に差異はありながらも、その「何者か」という判断の境界のなさ、曖昧さのために、もがき、あえぎ、時に逃げ出し、時に戦い、それぞれの物語を進行させていく。そこに僕は、ようやく薄い膜が覆いはじめた記憶の傷口をしたたかに指摘されたような痛み、そして妙な共感や高揚を感じてしまうのである。

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 昔に比べたら「何者かになりたい」という思いはずいぶんと減ってきたが、それが消えたというわけではないから、いまもつねに「何者かになりたい」という願いを果たすためのヒントを探している気がする。松下育男「初心者のための詩の書き方」も、思い返せば最初はそういう気持ちから手に取った。

 15
どんなに経験があっても、新しく詩を書く時にはわからな
くなる。でもそれってあたりまえ。もともと詩の書き方な
んてどこにもない。どうやって書くかを見つけるそのこと
が、詩なんだと思う。自分の感性の弱々しさを見つめる。
その眼差しが、たまに君を詩に導いてくれる。

 82
自分に詩の才能があるかどうかに悩まない詩人はいない。
でも、だれもその悩みに答えてあげることはできない。た
だ、自分が詩に向いているかどうかと、悩んでまでも詩を
書こうとするそのことが、すでにある強固な才能を証明し
ていると言えないだろうか。

松下育男「初心者のための詩の書き方」


 「現代詩手帖」2017年8月号から11月号までの4号分で集中的に連載された松下作品は、詩で詩を作ることを描くという、ともすれば安直さに陥りそうなメタ的構造を有しながら、決してそのような強度の不足を許していない作品だと思う。ひとつひとつの言葉や行にある呼吸のリズム、行替えによるジャンプ率の操作などが、詩としての威力を成立させている。
 松下作品は題名に「書き方」という言葉を持ちながらも、「もともと詩の書き方なんてどこにもない」ということを主張する。「書き方」がないところから、自分の手によって書き始める。「詩の書き方」とは、つねに「書き方」のない地点から書き始めるという「書き方」。まっさらな雪原に、ひとつずつ手探りで道を見出していく、そのときのためらいや悩みや自分の弱々しさが、たしかに詩につながっていくのである。

 *

 書き方がわからない状態のなかにいて、自らの言葉でその書き方を示すしかないとき、そこから生まれた詩は多様な姿をもっていて当然である。作者が従来見てきたものと、全くかけ離れたものが生まれるということもあり得るだろう。そうなるとき、作者は自信を持って「詩をつくった」ということができるのだろうか。僕の少ない見聞からの推測だが、例えば黒田三郎が自身の詩集『渇いた心』に対して「これが詩といえるかどうか」と述べるように、自分が「詩をつくった」のかどうかはっきりと断定できないという人もいるはずだと思うのである。
 どんな姿をしているのかわからないもの、未知なものが「詩」の生成に関わっているとき、ある人が自分のある文を「詩」と呼ぶには、「私の詩なのだ」と何らかの覚悟を持って宣言するしかないのではないだろうか。そしてそのとき、自身のことを「詩人である」というのは、未知のなかを迷いながら進むという在りようを覚悟を持って引き受ける、ということなのではないだろうか。
 「何者か」のバリエーションのひとつとして、きっと「詩人」もある。だが、どこからが「詩人」であるのかという境界はない。そして「詩」の「書き方」というものも一般的なものは本来なく、自分で探し出さねばならない。すべては未知のなかに飛び込むということから始まる。未知のなかを悩みながらでも進み続ける。その覚悟を自身が引き受ける。その者が「詩人」であることを裏付けてくれるのは、そういった覚悟だけなのかもしれない。

 *

ロング・リリイフ
戦意の喪失を引き継ぐために
僕は無傷の卵巣を培養している

松本圭二「ロング・リリイフ」


 「詩客」編集のNさん・Mさんから「自由詩にも詳しいとお聞きしたので」という言葉とともに数回分の自由詩評の依頼をいただいたとき、自分の読書量を省みて「誰がそんな適当なことを伝えてしまったんだ」と呆然とする気持ちもあったが、いまはそうした勘違いに深く感謝しているし、書かせてもらえて本当にありがたかったなと思う。自身の「詩人」としての存在を覚悟し引き受けてきた人々があって、そういう人々の戦意を意識する機会を与えてもらえたのは幸福だった。今後も多く現代の詩が生まれることを、そしてできれば自分もそのなかにひとつの明滅を引き受けられることを願って、筆を擱くことにする。本当にありがとうございました。


■参考文献
松本圭二『詩人調査:松本圭二セレクション第7巻[小説1]』航思社、2017年
松本圭二『ロング・リリイフ:松本圭二セレクション第1巻[詩1]』航思社、2017年
松下育男「初心者のための詩の書き方」(「現代詩手帖」2017年8月号〜2017年11月号)
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