「詩客」自由詩時評

隔週で自由詩の時評を掲載します。

自由詩時評第219回 佐峰 存 

2018年01月15日 | 詩客
 冬の夕暮れ、帰路につく。寒さが凍みる。街は闇の一色に消えていき、代わりに身体の感覚が灯りのように浮かび上がる。そんな時分は言葉と向き合っていたい。
 今私の手元にあるのは、詩集『天の繭』だ。神保町の古書店で偶然見つけた。太平洋戦争が終わり、直後に出された詩集で北園克衛・村野四郎・長田恒雄の三詩人の作品が収められている。当時の感触が紙に触れる私の指先から伝わってくる。

絶望の思ひを霑ほす
自由の聲は
秋とともに
ふたたび我らによみがへり
しだいに高くなり
やがて眞實の響きをとりもどすだらう

(中略)


どうして忘れることが出来よう。
騙られた青春の日日は
忍苦の泪にぬれて
すでに廃墟のかなたにある。だが明日の燦然たる
すべての燦然たる並木は
人よ
それは我らのものだ!

(北園克衛、「秋の聲」、『天の繭』、1946年、天明社)


 戦後の光景は遠くなり、物理的にすっかりと変わった ― 情報技術の疾走によって作られた無機質な魔術のような ― 世界で私達の多くは労働に身体を差し出しつつ生活を送っている。
 そんな生活の一側面をあるがままに切り取った、面白い詩作品を最近読んだ。タケイ・リエ氏の「かろやかなお仕事」だ。詩の“かたち”と内容の極限までの合致と言うべきだろうか。それぞれの行が同じ文字数・長さで、連が正方形に近い四角となっている。見た目がポップだ。

白い肩に白いフリルを纏った女の
朱赤の唇が濡れたようにひかって
笑みを浮かべてビルの谷間を歩く
女の名はミランダ・カーといって
高級ブランドのランウェイショー
ファッションコスメビューティの
撮影はもちろんグローバル企業の
テレビコマーシャルの常連なのだ

(「かろやかなお仕事」、詩誌「Aa・vol.10」、2017年)



 頭の片隅に北園の諸作品を浮かべつつ、この作品を読む。現代の資本主義社会の空気がコンパクトに収まっている。この作品は四角く、語り手の目を通した社会を体現している。鮮やかな姿の女優が「笑みを浮かべて」テレビに現れる。笑う、のではなく、笑みを浮かべている。彼女はプロフェッショナルだ。「ランウェイショー/ファッションコスメビューティ」という片仮名の流れも、文字の連なり自体に良い意味での可笑しみがある。語り手は「ミランダ・カー」に憧れていて、世の多くの人々と共感する。

ミランダのかろやかなお仕事ぶり
甘い肩に白いフリルを纏いながら
朱赤の唇のわたしたちにも欲望が
移ってくる湧いてくる燃えてくる
ランチ休憩コンビニで視界に入る
サントリー烏龍茶に 手を伸ばす

(同上)



 「欲望」という根源的なものをミランダのイメージを通じ獲得する「わたしたち」の生活感あふれる姿もウィットに富んでいる。「ランチ休憩コンビニ」は前述の「ランウェイショー……」にも共通する文字の並びの可笑しみと共に、生活と言葉の関係性についても考えさせる表現だ。律儀に仕事をこなすオフィスワーカーが、外食する時間も惜しみコンビニで昼食を買い揃える、という光景は、確かに一つの言葉にしてもよい程度にありふれているかも知れない。この作品の魅力は、消費という資本主義のともすれば複雑な側面を扱いながら、そのような側面との向き合い方を規定し(=狭め)過ぎていないことだ。「サントリー烏龍茶に 手を伸ばす」という締め括りに入れられた、作品内唯一の“スペース”に語り手の自意識が宿っている。
忙しない生活の傍らで、豊かな抒情も繫っている時代に私達はあると思う。忙しなさの反動でもあろうか。山腰亮介氏の作品が読みたくなる。

冬の夜の気配が窓ガラスに頬をよせる
ひややかな雨の毛並みでいっぱいの
バスのなか
真っ赤な苹果りんご
熟れてゆく
時間と時間とが隣あう
あの眸の奥で
結露の飽和が
街灯たちをあたたかにくるんでいる

(「(冬の夜の気配が窓ガラスに頬をよせる)」、『白仲本 No.4』、2016年)



 最初の一行にこの作品のトーンが凝縮されている。「頬をよせ」ているのは、「冬の夜の気配」であって、人ではない。このような、人ではない事物が人のように動き回るアニミズムが山腰氏の多くの作品の特徴だ。“冬”や“夜”という言葉に、人々の生活を通じて蓄積されてきた情景。これらが主体として息づく美しさがこの一言に宿っている。続く「ひややかな雨の毛並で……」という表現も同様で、雨が柔らかい“いきもの”として描かれている。「バスのなか」 ― 機能的な都市光景 ― の中で隣同士になった乗客は、それぞれが流れの違う「時間」を体温として抱えている。前述のアニミズムとは逆に、今度は人が時間という事物に“変身”していく。

もうすでにない
庭の
茱萸ぐみの樹の上にいる
子どもたちの外套の刺繍は
どこまでも続く蒼い壁の
表面で結晶化するざわめきとなり
梅は 鼻腔の刺激を屋根のいちめんに展開し
部屋の隅で醸成しては
腹部から指さきへ 脚さきへ 全身へと
極微の珊瑚の手のひらが生長する

(同上)



 語り手の身体は既に追憶の深くにある。異なる季節の「すでにない」空間が、細やかなディテールを以て再現される。「外套の刺繍」の具体性と、空とも読み取れよう「蒼い壁」の比喩が反応し、触れることの出来そうな幻が凝結していく。語り手の「鼻腔」を、幻の世界を請け負った「」が満たしていく。変遷する情景の行き着く先には、思いも寄らぬ「珊瑚の手のひら」が待ち受けている。この作品に重力を齎しているのは、それぞれの情景に通った一本の軸だ。「表面で結晶化するざわめき」という表現を見てみたい。この表面は空の表面であると同時に、作品の冒頭で登場した「窓ガラス」の表面でもある。作品の隅々が、丁度無意識が意識を表出させるように、一つの地層で繋がっている。そんな情景同士の交感・塗り重ねがあって、音楽の重なった音符のように新しい旋律を鳴らす。
 一日一日を葉や花のように剥がしていきながら生活を送っていると、やがて剥がされたものが香りを放って追憶になる。そのとき、剥がされたものと、残された芯のどちらに私達の姿はあるだろう。そんなことを考える。
 そろそろ香り豊かな夢の中に入っていく時間だ。日々の足を緩めにくい生活の中で分断された感覚がひとつに溶け込んでいって、広い水平線になる。そこではながらく会えていない人々にもふと会える気がする。詩を読むことと、夢を見ることは似ていると思う。
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