小縞山いう『リリ毛』(思潮社)は、文章を順序どおりに普通に読む、ということにあの手この手で切れ目を入れ、「抵抗」している。たとえば、「倒カップ」「音噛」などの造語(?)かつ発音のわからない語、「夜る」など単語の最後の音を外に送ることで音がダブっているのかやはり音として読み手に確定できないものを残している。
この詩集の半数以上を占める、普通の文字の大きさの行の右に小さな文字の行(ルビほどには小さくない)を添わせている形式の作品もまた、どう読んだらいいのか、心地よくかつ不穏にさまよわせてくる。
(以下の引用、このサイトの画面でもとのレイアウトが再現できていないかもしれない。二行一組のようになっていて、最初の行の文字が次の行の文字より小さく「添わせて」ある。そして一行空きが入り、また同じ形式の二行一組が続くといった感じだ)
廓
ドーナツ状のレンズが煌々と照って
しろいかべにうつった
うしろから見るあなたの背中の曠野に
慎重にピントをあわせると
気づいてこっちの向こうを見つつ
林立する電柱
広角に視線をまき散らす
恥じらうことは大切なことです
のびた枝毛が、リリの、がうねる動的な
に付着したこえはさっきの時点から
虹彩が灯りは尾をひいて
細く乾いたのびてランダムゆくわ
その淋しい背中の風景の光画に
廓を建設しよう
かくしたいもの
その電柱
電線のたるんだ
接写
塗りこめたらかべぎわへ
沈んでしまうからだのせん、目で追えば
ふれられないからだのらせん
がわたしに降りつもりって
のびてゆく背中の帰宅路
がまぶたに残るの途上に
わたしがひとり立ちすくんでいるのが見える
それは遠近感を失うような
(後略)
この詩、小さい文字から大きい文字にそのまま順番に読むことも、あるいは読んでいる最中にあとの行が前の行に逆流することも、ありうるのだという感覚におそわれた。一行あたりに書かれていることが、絶妙に「半身」であるために、その行が求めるものが複数の方向でありえているのだ。文字の大きさを二つにした「形式の確定」も、前後の錯視をさそう原因となっている。おそらくあまりに自由なレイアウトや文字のサイズをさらに増やしたりすることではこのようなことは起こらない。
いままでにも、ことばを普通に順序どおりに読むことへの「抵抗の夢」は、(たとえば断片化などのかたちで)抱かれていただろう。しかし、こうも読めるこうも読めると詩の外でいわれただけでは、「あえて」しなければそうは読めない、企みの段階で終わるだけのものでしかない。小縞山いうのこの詩集では、こちらが、「思わず」読んでいた。一つの「夢の実現」なのだ。
ただ、普通に書いているような作品「夜行バス」では、常套的ないいまわしが骨格にちらちら感じられる。変わった書き方をしているときは尻尾を出さないが、普通に近く書くと、かなり手前の素朴さ(常套)との格闘に失敗しているのがわかる、となるのだろうか。それとも常套的な素材に少しノイズを入れた、ということなのか。そこに読み手の迷いが生まれるということは、上記作品にくらべて弱いということだ。
カニエ・ナハ『なりたての寡婦』(カニエ・ナハ)。「第一部 フランス式の窓」。右ページに短歌形式の作品が1~4篇、左ページに散文形式の作品が見開きでならぶ。右の短歌部分は本の途中で終わっており、右ページに何もない左ページの散文作品だけの見開きが最後に3見開きつづく。そのあとに「なりたての寡婦 カニエ・ナハ」という標題ページが来て、その裏に「装幀=中島あかね」、次に「二〇一八年七月」。そして「第二部 なりたての寡婦」は標題だけで作品に当たる部分はない(『馬引く男』と同じパターンだ)。
散文形式の部分は、一度出たモチーフが次のページで部分的にまた出てきたり、変奏されたりする。一度書かれたものが、そのままであったり、別物としてふたたび書かれなおされたり。また違うものとして出てきた、ということがたえず起こっている書き方である。
要するにこれは、詩集全体で、「何かやっている」ことをアピールしている詩集といえる。短歌の篇数のばらつき、標題や日付の位置も含めて、通常の位置から軽く自由にすることで、不作為的な作為の中に読者を落としこんでいる。そのことにまず気持ちよさをおぼえる。
二羽の蝶々が同じひとつの花だったこと あとに影法師だけを残して
二匹の蝶々がおなじ一つの花だったこと まぶかにかぶる帽子が眠る
「みなさん、いいですか。」と先生が話している。「このあと、かけっこのとき、ゴール
の、テープのところに着いても、そこで立ち止まらないでください。そのまま、走りつづ
けてくださいね。わかりましたか。」昨夜みた映画の中で不意打ちのように、数日前に亡
くなった女優K・Kの声を聴こえてきて、しかしその姿はなく、声だけが聴こえてくるの
だった。映画の中の映画で、K・Kの声を聴いている、スクリーンの中のスクリーンを眺
めるひとたちの顔が映し出されるが、彼女らは彼らは目が見えない、あるいはほとんど見
えない。見えない、あるいはほとんど見えないひとたちを、こちらがわから、見えるひと
たちが見ている。
最初の短歌2篇(数え方は面倒なので「篇」を使う)ですでに、同じフレーズの漢字とひらがなを変化させ下の句を別のものに交換するという、反復と変奏のモチーフがあらわれている。散文形式の部分も、次の見開きでは、「「みなさん、このあと、かけっこをしますが、」と先生が話している。「ゴールの、テープのところに着いても、そこで立ち止まらないでくださいね。そのまま、走りつづけてください。わかりましたか。」(略)」といった具合だ。このような「小さな変奏」もあれば、全然違う題材が入ってきての「大きな変奏」もある。この変奏は、もしかしたら、先に書いた部分を見ないで、半ば記憶した状態で、記憶のあいまいさを利用して意図的に偶然性を呼び込むように書いているのではないか。
これはまた、裸の「書くこと」に対して、別レベルの法則を重ねることで、裸の「書くこと」の持つ文脈とは別のリズムを導入することでもある。書かれていることはストレートにそれである、ということから、それを外から操作する手のリズムによって、小気味よく、操作されているものの魅力を持つことになっている。ただ、この小気味よさをどう考えたらいいか、すぐに判断ができない。スマートにやりすぎている気もするし、そのクールさが興奮させているのだとも思える。文句をつけるとすれば、ある幅の中を何も傷つけないように見事な演技をしている、ということにもなる。
古溝真一郎『きらきらいし』(七月堂)のことばの振幅にはおどろかされる。人間が普通にいること、ほかの人も含めて人間が普通にいることが感じられるが、定型的な人間の描き方からはことごとく逃れるかたちで「普通」なのである。そのため、感傷が生まれない。もののとらえかたがすぐれているといえそうだが、とらえるときに起こりがちな力こぶがなく、意外性のあることばの振幅でそれがなされているが、ことば優先のレトリックに行くわけではなく、「普通」がたもたれている。ただ、その結果感じられる「余裕」に注文をつけたい気もしてくるが余計なことか。
この詩集の半数以上を占める、普通の文字の大きさの行の右に小さな文字の行(ルビほどには小さくない)を添わせている形式の作品もまた、どう読んだらいいのか、心地よくかつ不穏にさまよわせてくる。
(以下の引用、このサイトの画面でもとのレイアウトが再現できていないかもしれない。二行一組のようになっていて、最初の行の文字が次の行の文字より小さく「添わせて」ある。そして一行空きが入り、また同じ形式の二行一組が続くといった感じだ)
廓
ドーナツ状のレンズが煌々と照って
しろいかべにうつった
うしろから見るあなたの背中の曠野に
慎重にピントをあわせると
気づいてこっちの向こうを見つつ
林立する電柱
広角に視線をまき散らす
恥じらうことは大切なことです
のびた枝毛が、リリの、がうねる動的な
に付着したこえはさっきの時点から
虹彩が灯りは尾をひいて
細く乾いたのびてランダムゆくわ
その淋しい背中の風景の光画に
廓を建設しよう
かくしたいもの
その電柱
電線のたるんだ
接写
塗りこめたらかべぎわへ
沈んでしまうからだのせん、目で追えば
ふれられないからだのらせん
がわたしに降りつもりって
のびてゆく背中の帰宅路
がまぶたに残るの途上に
わたしがひとり立ちすくんでいるのが見える
それは遠近感を失うような
(後略)
この詩、小さい文字から大きい文字にそのまま順番に読むことも、あるいは読んでいる最中にあとの行が前の行に逆流することも、ありうるのだという感覚におそわれた。一行あたりに書かれていることが、絶妙に「半身」であるために、その行が求めるものが複数の方向でありえているのだ。文字の大きさを二つにした「形式の確定」も、前後の錯視をさそう原因となっている。おそらくあまりに自由なレイアウトや文字のサイズをさらに増やしたりすることではこのようなことは起こらない。
いままでにも、ことばを普通に順序どおりに読むことへの「抵抗の夢」は、(たとえば断片化などのかたちで)抱かれていただろう。しかし、こうも読めるこうも読めると詩の外でいわれただけでは、「あえて」しなければそうは読めない、企みの段階で終わるだけのものでしかない。小縞山いうのこの詩集では、こちらが、「思わず」読んでいた。一つの「夢の実現」なのだ。
ただ、普通に書いているような作品「夜行バス」では、常套的ないいまわしが骨格にちらちら感じられる。変わった書き方をしているときは尻尾を出さないが、普通に近く書くと、かなり手前の素朴さ(常套)との格闘に失敗しているのがわかる、となるのだろうか。それとも常套的な素材に少しノイズを入れた、ということなのか。そこに読み手の迷いが生まれるということは、上記作品にくらべて弱いということだ。
カニエ・ナハ『なりたての寡婦』(カニエ・ナハ)。「第一部 フランス式の窓」。右ページに短歌形式の作品が1~4篇、左ページに散文形式の作品が見開きでならぶ。右の短歌部分は本の途中で終わっており、右ページに何もない左ページの散文作品だけの見開きが最後に3見開きつづく。そのあとに「なりたての寡婦 カニエ・ナハ」という標題ページが来て、その裏に「装幀=中島あかね」、次に「二〇一八年七月」。そして「第二部 なりたての寡婦」は標題だけで作品に当たる部分はない(『馬引く男』と同じパターンだ)。
散文形式の部分は、一度出たモチーフが次のページで部分的にまた出てきたり、変奏されたりする。一度書かれたものが、そのままであったり、別物としてふたたび書かれなおされたり。また違うものとして出てきた、ということがたえず起こっている書き方である。
要するにこれは、詩集全体で、「何かやっている」ことをアピールしている詩集といえる。短歌の篇数のばらつき、標題や日付の位置も含めて、通常の位置から軽く自由にすることで、不作為的な作為の中に読者を落としこんでいる。そのことにまず気持ちよさをおぼえる。
二羽の蝶々が同じひとつの花だったこと あとに影法師だけを残して
二匹の蝶々がおなじ一つの花だったこと まぶかにかぶる帽子が眠る
「みなさん、いいですか。」と先生が話している。「このあと、かけっこのとき、ゴール
の、テープのところに着いても、そこで立ち止まらないでください。そのまま、走りつづ
けてくださいね。わかりましたか。」昨夜みた映画の中で不意打ちのように、数日前に亡
くなった女優K・Kの声を聴こえてきて、しかしその姿はなく、声だけが聴こえてくるの
だった。映画の中の映画で、K・Kの声を聴いている、スクリーンの中のスクリーンを眺
めるひとたちの顔が映し出されるが、彼女らは彼らは目が見えない、あるいはほとんど見
えない。見えない、あるいはほとんど見えないひとたちを、こちらがわから、見えるひと
たちが見ている。
(「第一部 フランス式の窓」最初の見開き2ページ。ただし、レイアウトは原本どおりではない)
最初の短歌2篇(数え方は面倒なので「篇」を使う)ですでに、同じフレーズの漢字とひらがなを変化させ下の句を別のものに交換するという、反復と変奏のモチーフがあらわれている。散文形式の部分も、次の見開きでは、「「みなさん、このあと、かけっこをしますが、」と先生が話している。「ゴールの、テープのところに着いても、そこで立ち止まらないでくださいね。そのまま、走りつづけてください。わかりましたか。」(略)」といった具合だ。このような「小さな変奏」もあれば、全然違う題材が入ってきての「大きな変奏」もある。この変奏は、もしかしたら、先に書いた部分を見ないで、半ば記憶した状態で、記憶のあいまいさを利用して意図的に偶然性を呼び込むように書いているのではないか。
これはまた、裸の「書くこと」に対して、別レベルの法則を重ねることで、裸の「書くこと」の持つ文脈とは別のリズムを導入することでもある。書かれていることはストレートにそれである、ということから、それを外から操作する手のリズムによって、小気味よく、操作されているものの魅力を持つことになっている。ただ、この小気味よさをどう考えたらいいか、すぐに判断ができない。スマートにやりすぎている気もするし、そのクールさが興奮させているのだとも思える。文句をつけるとすれば、ある幅の中を何も傷つけないように見事な演技をしている、ということにもなる。
古溝真一郎『きらきらいし』(七月堂)のことばの振幅にはおどろかされる。人間が普通にいること、ほかの人も含めて人間が普通にいることが感じられるが、定型的な人間の描き方からはことごとく逃れるかたちで「普通」なのである。そのため、感傷が生まれない。もののとらえかたがすぐれているといえそうだが、とらえるときに起こりがちな力こぶがなく、意外性のあることばの振幅でそれがなされているが、ことば優先のレトリックに行くわけではなく、「普通」がたもたれている。ただ、その結果感じられる「余裕」に注文をつけたい気もしてくるが余計なことか。