『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第41回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2011-12-31 18:03:33 | 『資本論』

第41回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

◎収束宣言?!

 野田首相は、16日、東電福島第一原発事故の収束宣言を行いました。「発電所の事故そのものは収束に至ったと判断される」と。しかし、メルトダウンし、さらに圧力容器をメルトスルーし、あるいは格納容器さえも突き抜けかねない融け落ちた核燃料が今どうなっているかは、誰も直接には知ることができていないのではないでしょうか。

 そればかりか、すでに広範囲に拡散され、今も垂れ流され続けている深刻な放射能汚染は、福島県を中心にした東北地方のみならず、首都東京や西日本も含めたまさに日本列島全体を、その海域も含め、これから放射能の恐怖に晒そうとしているのです。

 いったい、どの面さげて「事故は収束した」などと言えるのでしょうか。住み慣れた美しい故郷を汚され、安住の地を失い、剥ぎ取られ、追い払われた何万人もの人たちの心を踏みにじるものではないでしょうか。

 腹立たしい気持ちは容易に納まりませんが、しかし、とにかく第41回「『資本論』を読む会」の報告をやりたいと思います。

◎第12パラグラフの「ロビンソン物語」に関連する二つの疑問

 今回は、すでに第39回で学習した第12パラグラフのロビンソン物語に関連して、二つの疑問が出され、まず、その議論から始まりました。というのは、以前紹介した新参加者の方(今、仮に「Nさん」としておきます)が、そのときには都合で参加されなかったために、今回、その疑問を改めて提出されたからです。だから、まずその疑問と関連する議論の紹介から始めることします。

★第一問、どうして「ヤギ」ではなく、「ラマ」なのか?

 最初の疑問は、次の部分に対するものです。

 〈経済学はロビンソン物語を好むから(29)、まず孤島のロビンソンに登場願おう。生まれつきつつましい彼ではあるが、それでもさまざまな欲求を満たさなければならず、したがってまた、道具をつくり、家具をこしらえ、ラマ〔南アメリカ産のラクダ科の役畜〕を馴らし、魚をとり、狩りをするといったさまざまな種類の有用労働を行わなければならない。〉

 ここでマルクスはロビンソンが〈ラマ〔南アメリカ産のラクダ科の役畜〕を馴らし〉たと書いていますが、Nさんによれば、デフォーの書いた『ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険』によれば、ロビンソンが飼っていたのは「ヤギ」になっているのだそうです。ロビンソン・クルーソー物語そのものは空想物語ですが、そのヒントになったと言われている、スコットランド人航海長アレキサンダー・セルカークの実話(その体験談が1713年に出版されている)によれば、そのヤギというのはセルカーク自身が島(マス・ア・ティエラ島、後にロビンソン・クルーソー島と改名)に持ち込んだものなのだそうです。

 だからどうしてマルクスは物語とは違った「ラマ」にしているのか、というのがNさんの疑問なのです。あるいはマルクスはロビンソン物語の実話の島がチリの沖合に浮かぶファン・フェルナンデス諸島(その主島がロビンソン・クルーソー島)であることを知り、南米ならばヤギではなくラマだろうと考えたのかも知れないが、しかしラマというのは南米のアンデス山脈の高地で古くから役畜として飼育されてきたようですが、果たしてチリ沿岸とはいえ、島にも生息していたといえるのだろうか、というのもNさんの疑問でもあるのです。果たしてどうでしょうか。困ってしまいました。

 マルクスが「ヤギ」ではなく、どうして「ラマ」にしたのか、というのは、よく分かりませんが、そもそもマルクスが「ロビンソン物語」という場合、それはある程度、象徴的な意味をもたせているのではないだろうか、という意見がだされました。というのは注29で〈リカードにも彼のロビンソン物語がないわけではない〉と述べて、〈彼は、原始的な漁師と猟師にも、ただちに商品所有者として、魚と獣とを、それらの交換価値に対象化された労働時間に比例して交換をとり行わせている〉という『経済学批判』の一文を紹介していますが、しかし、実際にリカードの著書を見ても、ロビンソン物語そのものが直接論じられているのではなく、〈アダム・スミスが説ける、彼の初期の状態〉の話として、〈海狸〉(ビーバーの別名)と〈鹿〉の狩猟に必要な労働の違いによって、〈一頭の海狸は当然二頭の鹿よりも多くの価値を有する〉などと論じているだけです(『経済学及び課税の原理』第1章第3節)。だから現在の経済諸関係や諸法則を、人間社会の原初的な関係にまで遡って説明しようとする試みを、象徴的に「ロビンソン物語」としているところがあるのではないだろうかというのです。その意味では、実際のロビンソン物語に忠実ではないということそのものは、それほど重要な問題ではないだろうというわけです。

 またこれに関連して、以前にも問題になりましたが、第12パラグラフで論じているロビンソン物語の考察は、そもそもどういう意義があるのか、またそれに続いて第13パラグラフで取り上げられているのが、どうして中世社会なのか、という疑問も出されました。つまりこの一連のマルクスの考察の順序にはどんな意味があるのか、という問題です。

 この問題については、すでに第39回の報告のなかでも触れましたので、その部分を少し紹介することをお許しください。そこでは次のように論じています。

 〈マルクスの場合、すでに見たように、ロビンソンの孤島での生活をあらゆる社会的な関係とは無縁の一つの抽象物として論じています。ロビンソンは孤島でひとりぼっちなので、ここでは彼と自然との関係のみがあるだけです。これはマルクスが「第5章 労働過程と価値増殖過程」の「第1節 労働過程」において、労働過程をとりあえずはあらゆる社会形態から独立してそのものとして考察したのと同じような関係が、ここにはそのまま、つまり何の抽象も必要なく、具体的なものとして存在しているわけです。……(中略)……
 ここでマルクスが述べているように、マルクスのロビンソンの孤島での生活の考察は、それが〈人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永遠の自然的条件であり、……人間生活のすべての社会形態に等しく共通なもの〉としてではないかと思います。それがロビンソンの孤島での生活では、一つの空想的な物語とはいえ、具体的に何の抽象も必要のない形で存在しており、その具体性において、一般的条件が考察できるからではないかと思うわけです。〉

 議論のなかでは、ロビンソンは漂流して、孤島に流れ着くことによって、ロビンソンが生活していたその時代の社会的な生産諸関係から切り離されてしまったたために、彼の孤島での生活は、〈人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件〉という、どんな社会形態からも独立した関係になってしまったのではないか。つまり漂流は彼の生活をある特定の生産諸関係から抽象する役割を果たしたと言えるのではないか、との指摘もありました。そしてそれがマルクスが最初にロビンソン物語を考察している理由ではないかということです。

 では、それ(第12パラグラフの考察)に続いて、マルクスが中世社会の労働(第13パラグラフ)や家父長制の下での労働(第14パラグラフ)、将来の連合体社会の労働(第15パラグラフ)という順序で考察していますが、この順序には何か意味があるのか、という問題についてはどうでしょうか。

 これについては、一つは、マルクスは第11パラグラフまで、商品世界の物神的性格について、それを生み出す原因を明らかにし、労働生産物の物象的諸関係が、ブルジョア経済学の諸カテゴリーをなしていること、だからそれらは歴史的に規定された商品生産を基礎とする社会(資本主義社会)に固有のものであることを明らかにしたのでした。そしてマルクスは、だから商品生産を基礎とする社会とは違った別の生産諸形態の場合には、そうした労働生産物に纏い付く神秘的なものは直ちに消え失せるのだ、と述べて、第12~15パラグラフにおいて、そうした資本主義的生産様式とは異なる別の生産諸形態の考察を行っているわけです。

 それをマルクスは、まず最初に、人間生活のすべての社会形態に等しく共通なものであり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件を示す具体例として、空想物語であるロビンソンの孤島での生活を例に考察を行い、そのあと資本主義的生産様式から歴史的に遡って、最初の前資本主義的生産様式である中世社会の考察に移っていると考えられます。そこでは人格的な依存関係が、労働の社会的な関係に、すなわち生産諸関係になっている社会でした。そこで次に、マルクスは〈共同的な、すなわち直接的に社会化された労働を考察するためには、われわれは、すべての文化民族の歴史の入口で出会う労働の自然発生的形態にまでさかのぼる必要はない〉として、中世の封建社会へと発展する以前の社会形態である、家父長制の家族労働の分析を行ったのでした。そして最後に、マルクスは今度は、一転して、将来の自由な個人の自覚的な連合体の社会を想定して、そこでも諸関係は極めて透明であり、労働生産物が神秘的な霧に覆われる必要はないことを明らかにしたのです。もしこの考察の順序に意味があるとすれば、その程度のものではないでしょうか。

 あるいは、こうした考察の順序自体には、それほど重要な意味がないのかも知れない、という意見も出されました。というのは、第40回の報告でも注30と関連して、紹介したことのある『経済学批判』では次のようにマルクスは論じているからです(すでに一度紹介しましたが、もう一度紹介しておきます)。

 〈これに反して、紡ぎ手も織り手も同じ屋根の下に住んでいて、いわば自家需要のために、家族のうちの女たちは紡ぎ、男たちは織っていた家父長制的農村工業においては、家族の限界内で糸とリンネルとは社会的生産物であり、紡績労働と織布労働とは社会的労働であった。けれどもそれらの社会的性格は、一般的等価物としての糸が一般的等価物としてのリンネルと交換されること、つまり両者が同じ一般的労働時間のどちらでもよい、同じ意味の表現として互いに交換されることにあったのではない。むしろ原生的な分業をもつ家族関連が、労働の生産物にその固有な社会的極印をおしたのである。あるいはまた、中世の賦役と現物給付をとってみよう。ここでは現物形態にある個々人の一定の労働が、労働の一般性ではなくて特殊性が、社会的紐帯をなしている。あるいはまた最後に、すべての文化民族の歴史の入口で見られるような、原生的形態にある共同労働をとってみよう〔*〕。ここでは労働の社会的性格は、明らかに個々人の労働が一般性という抽象的形態をとることによって、つまり彼の生産物が一つの一般的等価物の形態をとることによって媒介されているのではない。個々人の労働が私的労働となることを妨げ、彼の生産物が私的生産物となることを妨げ、むしろ個々の労働を直接に社会有機体の一肢体の機能として現われさせるものは、生産の前提とされている共同体である。交換価値であらわされる労働は、個別化された個々人の労働として前提されている。それが社会的となるのは、それがその正反対の形態、抽象的一般性の形態をとることによってである。〉(全集13巻18-19頁)

 この本文中にある〔*〕につけられた注として、現行版の注30とほぼ同じ内容のものが付けられているのです。

 ところで、ここでマルクスが考察している順序は、(1)家父長制の家族労働、(2)中世の賦役と現物給付、(3)原生的形態にある共同労働、というものです。だからこの考察の順序自体に、何か意味があるようにはどうしても思えません。こうした例を考えてみると、『資本論』の場合も、あまりその考察の順序自体に何か深い意味があるかに考えるのは、やはり考えすぎではないかと思うわけです。

★第二問、〈価値のすべての本質的規定〉の三つ目はどこに〈含まれている〉のか?

 これは次の部分に対する疑問です。

 〈ロビンソンと彼の手製の富である諸物とのあいだのすべての関係は、ここではきわめて簡単明瞭であって、M・ヴィルト氏でさえ、とりたてて頭を痛めることなしに理解できたほどである。にもかかわらず、そこには、価値のすべての本質的規定が含まれているのである。〉

 このように、マルクスはロビンソンと彼の作った諸物とのあいだの関係は、簡単明瞭であって、簡単に理解できるものであるにもかかわらず、そこには、価値のすべての本質的規定が含まれていると述べています。マルクスがわざわざ〈すべての〉と述べているのは、いうまでもなく、マルクスが第2パラグラフで次のように述べていたことに対応しています。

 〈したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない。それはまた、価値規定の内容から生じるのでもない。と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。第二に、価値の大きさの規定の基礎にあるもの、すなわち、右のような支出の継続時間または労働の量について言えば、この量は労働の質から感覚的にも区別されうるものである。どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった(26)。最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。〉

 このようにマルクスはここでは「価値規定の内容」として三つの契機について論じています。(1)価値の実体である抽象的人間労働というものは、あるいは人間労働というのは、その内容や形態がどうであろうと、人間有機体の諸機能として、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは生理学的真理であり、そこには何の神秘性もない。(2)また価値の大きさの規定の基礎にある、そうした労働の支出の継続時間、あるいは労働の量についても、やはり労働の質から感覚的に区別されうるものであり、やはり何の神秘性もない。(3)労働の社会的形態についても、やはり人間が何らかの様式で互いのために労働するようになるやいなや、必ずそうした形態を受け取るものである、と。

 Nさんの疑問は、このマルクスが〈最後に〉と述べているものは、ロビンソンと彼の諸物とのあいだの如何なる関係に〈含まれている〉のか、というものです。

 この問題については、第39回の学習会でも問題になりました。そして議論の結果、それは〈彼の全活動の中でどの機能がより大きい範囲を占め、どの機能がより小さい範囲を占めるかは、所期の有用効果の達成のために克服されなければならない困難の大小によって決まる。経験がそれを彼に教える〉という部分に合致しているのではないか、ということになったのでした。だから報告では次のように書いています。

 【(ト)(チ)彼の全活動のなかで、どの機能がより大きな範囲を占めるか、あるいはどの機能がより小さい範囲を占めるかは、必要な有用な効果を達成するためにやらなければならないことの困難さの大小によって決まってくるでしょう。経験がそれを彼に教えます。
 
 この部分もロビンソンのさまざまな諸機能が対象である自然に働きかけて、彼が目的にしたものを獲得するために、相互に有機的に関連しあった形で支出される必要があることが指摘されているわけですが、これも先の価値規定の内容の第三のものに対応していると考えることが出来るでしょう。
 
 〈最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。
 
 つまり社会的にはさまざまな人間によって担われる、彼らの社会的形態を受けた労働、すなわち社会的に結びあっている労働が、ロビンソンの場合は、彼自身のさまざまな機能として一人の人間の諸機能として関連し合って支出されるということです。
 
 このようにこれらのロビンソンの労働の分析は、第2パラグラフの価値規定の内容には何の神秘的な性格もないと述べていた内容に対応しています。これはある意味では当然なのです。というのは、初版本文では、この第12パラグラフのロビンソンの生活の考察と、第15パラグラフの将来の自由な人々の連合体の社会の考察は、第2パラグラフの直後に、その第2パラグラフで述べている価値規定の内容には神秘的なものは何もない具体的な例証として論じられていたものなのです(だから初版では第3、第4パラグラフにありました)。それをマルクスは第2版ではやや位置づけを変えて、今の位置に持ってきているのです。こうした初版と第2版との違いは、どういう意味があるのかも、一つの問題といえばいえますが、それはまた別に機会があれば論じたいと思います。】

 しかし、今回、議論のなかで、この〈最後に〉とマルクスが述べている価値規定の内容の三つ目の内容は、人間労働が社会的形態をとることについて述べているのに、今、ロビンソンのところで引用している部分は、労働の社会的形態というより、ロビンソンの時間がさまざまな労働に配分されることについて述べているという指摘がありました。だからロビンソンの諸労働が互いに結び合って一つの分業の体系をなしているということを言っているのは、その部分ではなく、むしろ最初に言われている次の部分の方が適切ではないか、ということになりました。すなわち次の部分です。

 〈生まれつきつつましい彼ではあるが、それでもさまざまな欲求を満たさなければならず、したがってまた、道具をつくり、家具をこしらえ、ラマ〔南アメリカ産のラクダ科の役畜〕を馴らし、魚をとり、狩りをするといったさまざまな種類の有用労働を行わなければならない。〉

 つまりこうしたロビンソンのさまざまな労働は、彼の諸欲求を満たすために、全体として有機的に関連して支出されなけれはならないという意味で、一定の“社会的”形態を持たねばならないと言えるのではないか、というわけです。

 なおこれに関連して、Nさんは、さまざまな解説書がその部分をどのように説明しているかも紹介してくれましたが、それはここでは割愛させて頂きます。ただNさんが河上肇『資本論入門』も例に上げてくれましたが、河上肇の場合は、ロビンソンと彼の諸物との関係に含まれる価値規定の内容として上げているのは、最初の二つだけで、マルクスが〈最後に〉と述べている部分は取り上げていません。つまりNさんが問題にしている部分については何ら論じていないように思えます。もちろん、これではマルクスが〈価値のすべての本質的規定〉(下線は引用者)と述べていることに必ずしも忠実ではないことになりますが。

(「その2」に続きます。)

 

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