『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(2)

2019-12-23 12:42:38 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(2

 

◎第7パラグラフ(紙幣は金量を象徴する金章標であり、その限りでの価値章標である)

 

【7】〈(イ)紙幣は金章標または貨幣章標である。(ロ)紙幣の商品価値にたいする関係は、ただ、紙幣によって象徴的感覚的に表されているのと同じ金量で商品価値が観念的に表わされているということにあるだけである。(ハ)ただ、すべての他の商品量と同じにやはり価値量である金量を紙幣が代表するかぎりにおいてのみ、紙幣は価値章標なのである。84〉 

  (イ) 紙幣は金章標または貨幣章標です。 

  紙幣というのは、これまでの展開を振り返ってみれば分かりますように、金鋳貨が流通手段として流通する過程で磨滅し、その自体のシンボルとなるところから、シンボルなら別に金でなくてもというところから生じてきました。だからそれは金鋳貨の象徴かというと、そうではなく、磨滅した金鋳貨は度量標準で確定している一定量の金(これ自体は観念的なものです)の象徴なのです。つまりそれは金そのものの象徴(シンボル)、あるいは貨幣金の象徴なのです。 

  (ロ) 商品価値にたいする紙幣の関係は、ただ、紙幣によって象徴として感覚的に表されている金量で、諸商品の価値が観念的に表現されているということだけです。 

  では紙幣で表される諸商品の価格というものはどのように捉えればよいのでしょうか。諸商品の価値は、観念的な金によって、価格として表示されます。金がこのような価値を尺度する機能を持つのは、金そのものが価値を持つ一つの商品だからです。しかし紙幣それ自体には価値はほとんどありませんから、紙幣が直接諸商品の価値を尺度し価格として表示する機能があるわけではありません。だから紙幣による諸商品の価格表示というのは、度量標準で決められている金のある一定量(これ自体は観念的なものですが)を、紙幣が象徴しているからなのですが、さらに紙幣は、流通手段としての貨幣の機能を果すものですから、その観念的な金を感覚的に手で掴めるものとして象徴して表していることになります。だから紙幣は直接商品の価値ではなく、それを価格として表示する金量を、だから諸商品の価格を象徴しているということができるわけです。そしてこうした回り道を通って、それは諸商品の価値を表象しているということができるのです。 

  (ハ) 紙幣が、すべてのほかの商品量と同様にやはり価値量である金量を紙幣が代表するかぎりにおいてのみ、紙幣は価値章標なのです。 

 すなわち、他の諸商品と同じようにそれ自体価値をもつ金分量を紙幣が代理している限りで、紙幣は諸商品の価値の章標だもということができるわけです。 

  『経済学批判』から紹介しておきます。 

 〈鋳貨として機能する価値章標、たとえば紙券は、その鋳貨名に表現されている金量の章標であり、したがって金章標である。一定量の金それ自身が価値関係を表現しないのと同じように、それにとって代わる章標も価値関係を表現しない。一定量の金が対象化された労働時間として一定の価値の大きさをもつかぎりでは、金章標は価値を代表している。しかし金章標によって代表される価値の大きさは、いつでもそれによって代表される金量の価値に依存している。諸商品にたいしては、価値章標はそれらの価格の実在性を代表するのであって、価格の章標〔signum pretii〕であり、それが諸商品の価値の章標であるのは、諸商品の価値がその価格に表現されているからにほかならない。過程W-G-Wでは、この過程が二つの変態のたんに過程的な統一または直接的な相互転化として現われるかぎり--そして価値章標が機能する流通部面では、それはこのようなものとして現われるのだが--、諸商品の交換価値は、価格ではたんに観念的な存在を、貨幣ではたんに表象された象徴的な存在を受け取る。こうして交換価値は、ただ考えられたもの、または物的に表象されたものとしてだけ現われるのであるが、しかしそれは、一定量の労働時間が諸商品に対象化されているかぎり、それらの諸商品そのもののほかには、なんらの現実性をももたないのである。だから価値章標は、金の章標としては現われないで、価格にただ表現されているだけで、ただ商品のうちにだけ存在する交換価値の章標として現われることによって、商品の価値を直接に代理しているかのように見える。だがこういう外観は誤りである。価値章標は、直接にはただ価格章標であり、したがって金章標であり、ただ回り道をして商品の価値の章標であるにすぎない。〉 (全集第13巻95-96頁) 

 また大谷禎之介著「貨幣の機能」(『経済志林』61巻4号)からも紹介しておきましょう。 

  〈紙幣は,正確には,金章標または貨幣章標である。紙幣の商品価値にたいする独自な関係は、商品の価値を観念的に表現している金量も、紙幣が象徴的感覚的に表している金量も、どちらも同じ金の量であり,どちらも社会的必要労働時間によって規定される価値を含んでいるのだ、ということにあるだけである。そのかぎりでは、金の章標は或る価値量を含む金の章標であるので、そこから、金の章標であるものは、また〈価値章標〉とも言われる。紙幣もまた価値章標である。〉 (279-280頁)
 

◎注84
 

【注84】〈84 第二版への注。(イ)貨幣のことについての最良の著述家たちでさえ、貨幣のいろいろな機能をどんなに不明瞭にしか理解していないかは、たとえばフラートンからの次の箇所に示されている。(ロ)「われわれの国内取引に関するかぎりでは、通常は金銀鋳貨によって果たされる貨幣機能のすべてが、法律によって与えられる人為的慣習的な価値のほかにはなんの価値もない不換紙幣の流通によっても同様に有効に遂行されうるということは、思うに、否定することのできない事実である。(ハ)この種の価値は、その発行高が適当な限度内に保たれていさえすれば、内在的な価値のすべての目的に役だてられることができ、また度量標準の必要をさえなくすことができるのである。」(フラートン『通貨調節論』、第2版、ロンドン、1845年、21ページ。〔岩波文庫版、福田訳、42ページ。〕)(ニ)つまり、貨幣商品は、流通のなかでは単なる価値章標によって代理されることができるのだから、価値の尺度としても価格の度量標準としても不要だというのである!〉

 

  (イ) 貨幣に関する最良の著述家たちでさえ、貨幣のいろいろな機能をいかにあいまいにしか理解していないかは、たとえばフラートンからの次の箇所に示されています。 

 この原注は第7パラグラフ全体に付けられたものです。ここで〈最良の著述家たち〉と言われているのは、フラートンが例に挙げられているようにいわゆる銀行学派を指しています。銀行学派の貨幣のとらえ方の問題点は『経済学批判』に次のように指摘されています(付属資料も参照)。 

  〈すべてこれらの著述家たち(トゥック、ウィルソン、フラートン等--引用者)は、貨幣を一面的にではなくそのさまざまな諸契機で把握してはいるが、しかしたんに素材的に把握しているだけで、それらの諸契機相互のあいだや、これらの諸契機と経済学的諸範疇の全体系とのあいだの生きた関連をすこしも見ていない。……総じてこれらの著述家たちは、まずもって、単純な商品流通の内部で展開されるような、そして、過程を経る諸商品それ自体の関連から生じてくるような抽象的な姿で、貨幣を考察することをしない。だから彼らは、貨幣が商品との対立のなかでうけとる抽象的な諸形態規定性と、資本や収入〔revenue〕などのような、もっと具体的な諸関係をうちにかくしている貨幣の諸規定性とのあいだを、たえずあちこちと動揺するのである。〉 (全集第13巻161-162頁) 

  (ロ)(ハ) 「われわれの国内取引に関するかぎりでは、通常は金銀鋳貨によって果たされる貨幣機能のすべてが、法律によって与えられる人為的慣習的な価値のほかにはなんの価値もない不換紙幣の流通によっても同様に有効に遂行されうるということは、思うに、否定することのできない事実である。この種の価値は、その発行高が適当な限度内に保たれていさえすれば、内在的な価値のすべての目的に役だてられることができ、また度量標準の必要をさえなくすことができるのである。」(フラートン『通貨調節論』、第2版、ロンドン、1845年、21ページ。〔岩波文庫版、福田訳、42ページ。〕) 

 これはフラートンの著書からの引用だけですが、このフラートンの著書はなかなか興味深いものです。『資本論』第3部第5篇第28章のなかでもフラートンら銀行学派たちの主張する「通貨」や「資本」の概念の混乱が批判されています。 

  (ニ) つまり、貨幣商品は、流通のなかでは単なる価値章標によって代理されることができるのだから、それは価値の尺度としても価格の度量標準としても不要なのだ、というわけです! 

  銀行学派たちは、貨幣の抽象的な機能をそれ自体とし考察することができないから、価値章標(紙幣)の流通の根拠も分からないわけです。ただ彼らは紙幣が金鋳貨を代理して流通している現実を見るだけです。そこから彼らは貨幣(金)そのものはもはや不要であり、それによる諸商品の価値の尺度や価格の度量標準の機能そのものも不要だと主張するわけです。
 マルクスが引用している部分に続いてフラートンは次のようにも述べています。 

  〈真鍮板、皮革片、透模様付紙片、などはそれ自体として、商取引における等価物としての役割を演ずる資格を与えられるべき何らの価値をももたない物品である。しかるにこれらの物品のどれにでもとにかく特定のマークを押し、その発行数は対価に応じて限定し、これを貨幣と名付け、一切の公租公課の支払いに使用を許し、しかして何人も社会における普通取引に伴う一切の債務の支払いを果たすためにこの貨幣を十分準備すべきことを法律をもって強制するとしよう。しからば社会はこの貨幣に対して、直ちに、その内的特徴からまったく独立した、かつまたこれに対して向けられる需要と確実に比例関係に立つところの、一つの交換価値をば与えることとなる。ヨーロッパ大陸諸国における政府の発行する紙幣はまさにこの種類のものであって、ほんとどいかなる場合においても、これら紙幣にたいする信用は、それらが究極において鋳貨に兌換されるであろうという期待にはまったく由来していないのである。〉(阿野季房訳、改造選書、39頁)

 

◎第8パラグラフ(なぜ金はそれ自身の単なる無価値な章標によって代理できるのか)

【8】〈(イ)最後に問題になるのは、なぜ金はそれ自身の単なる無価値な章標によって代理されることができるのか? ということである。(ロ)しかし、すでに見たように、金がそのように代理されることができるのは、それがただ鋳貨または流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化されるかぎりでのことである。(ハ)ところで、この機能の独立化は、摩滅した金貨がひきつづき流通するということのうちに現われるとはいえ、たしかにそれは一つ一つの金鋳貨について行なわれるのではない。(ニ)金貨が単なる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それが現実に流通しているあいだだけのことである。(ホ)しかし、一つ一つの金鋳貨にはあてはまらないことが、紙幣によって代理されることができる最小量の金にはあてはまるのである。(ヘ)この最小量の金は、つねに流通部面に住んでいて、ひきつづき流通手段として機能し、したがってただこの機能の担い手としてのみ存在する。(ト)だから、その運動は、ただ商品変態W-G-Wの相対する諸過程の継続的な相互変換を表わしているだけであり、これらの過程では商品にたいしてその価値姿態が相対したかと思えばそれはまたすぐに消えてしまうのである。(チ)商品の交換価値の独立的表示は、ここではただ瞬間的な契機でしかない。(リ)それは、またすぐに他の商品にとって代わられる。(ヌ)それだから、貨幣を絶えず一つの手から別の手に遠ざけて行く過程では、貨幣の単に象徴的な存在でも十分なのである。(ル)いわば、貨幣の機能的定在が貨幣の物質的定在を吸収するのである。(ヲ)商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである 83。(ワ)しかし、貨幣の章標はそれ自身の客観的に社会的な有効性を必要とするのであって、これを紙製の象徴は強制通用力によって与えられるのである。(カ)ただ、一つの共同体の境界によって画された、または国内の、流通部面のなかだけで、この国家強制は有効なのであるが、しかしまた、ただこの流通部面のなかだけで貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能に解消してしまうのであり、したがってまた、紙幣において、その金属実体から外的に分離された、ただ単に機能的な存在様式を受け取ることができるのである。〉

 

  (イ) 最後に問題になるのは、なぜ金は自分自身のたんなる無価値な章標によって置き換えられることができるのか? ということです。 

  私たちは金鋳貨がその流通のなかで磨滅して、それ自身の象徴になり、よって金以外の物によって置き換えられ、最終的にほとんど価値のない紙幣によって象徴され置き換えられる過程を見てきました。これらは磨滅した金鋳貨が、流通手段として機能する限りでは、完全量目の金鋳貨と同じようにその機能を果すことができることから生じています。つまり金鋳貨は磨滅したから流通するのではなく、流通するから磨滅したのです。ではどうして磨滅した金鋳貨が一定の限界内では流通手段として機能し続けられるのかという問題が最後に片づけねばならない課題として出てきます。 

  (ロ) しかし、すでに見ましたように、金がそのように置き換えられることができるのは、ただ、鋳貨または流通手段としている金が孤立化または自立化されるかぎりででしかありません。 

  しかしその問題は、すでに私たちが検討してきた過程そのもののなかに解決があります。金鋳貨というのは、貨幣としての金が流通手段としての機能を果す上での技術的な問題から生じてきました。貨幣金が流通手段としての機能を果たすためには、その金の純度や重量を正確に秤量する手間が生じます。金鋳貨とは一定の金量を鋳造して、そこに刻印してその純度と重量を保証するものです。それによって生じる手間を省いて流通手段としての機能を容易に果たすことができるようにしたものです。すなわち金鋳貨は、貨幣(金)が流通手段としての機能を果すために特化したものと言うことが出来るのです。これが金が〈流通手段としてのみ機能するものとして孤立化または独立化される〉ということの内容なのです。だからまた金鋳貨の象徴化や他の金属や紙幣によって代理されるという性格も、その流通手段としての機能そのものから生じているといえるわけです。 

  (ハ)(ニ)(ホ) ところで、この機能の自立化は、摩滅した金片がさらに流通しつづけるというかたちで現われるとしても、たしかにそれは一つ一つの金鋳貨について生じるわけではありません。というのも、もろもろの金貨がたんなる鋳貨または流通手段であるのは、ただ、それらが現実に流通しているあいだだけのことだからです。けれども、一つ一つの金鋳貨にはあてはまらないことが、紙幣によって置き換えられることのできる最小の総量の金にはあてはまるのです。 

  流通手段という機能に特化したものだからこそ、磨滅した金鋳貨でもその機能を果すことができたのですが、しかしそれは一つ一つの金鋳貨について生じているわけではありません。一つ一つの金鋳貨なら流通から引き上げられることもありえます。それらは流通に入ったりそこから引き上げられたりしているわけです。そうした個々の金鋳貨ではなく、私たちが問題にしているのは流通過程で流通し続けている金鋳貨全体に対してであって、そうしたものについてそれは言いうるのです。絶えず流通過程にあって流通し続けている金鋳貨というものは、ある国においてはその最低限の量というものがあります。必ずこれだけは流通のなかに留まり続けているという分量です。そしてこの常に流通に留まり続けている金鋳貨については、それは流通手段としてだけ機能しているのですから、別のものによって、すなわち紙幣によって置き換えることができるということなのです。 

  (ヘ)(ト) この最小量の総量の金は、つねに流通部面に住んでいて、不断に流通手段として機能し、したがってもっぱらこの機能の担い手として存在しているのです。ですから、それの運動は、ただ商品変態W-G-Wの対立する諸過程が継続的にたがいに転換していることを表わしているだけす。これらの過程では、商品にその価値姿態が向かい合ったかと思えば、それはまたすぐに消えてしまうのです。 

  この流通過程に留まり続けている最小量の金の総量については、常に流通過程にあって、不断に流通手段としてのみ機能しいるといえます。そしてその運動とは、私たちが商品の変態のところで見ましたように、W-G-Wの対立する過程を媒介しています。ここでは商品は、販売されればすぐに消費過程に落ちていきますが、貨幣は常に流通過程に留まり続けるものとし現われてきました(久留間鮫造の図を参照)。しかしそれを私たちはあくまでも商品の変態として考察したのでした(商品が主体)。まず商品の運動があって、そしてその反映として貨幣の運動があったのです。 

  (チ)(リ)(ヌ) 商品の交換価値の自立的な表示は、ここではただつかのまの契機でしかありません。それは、またすぐに、ほかの商品にとって代わられます。だからこそ、貨幣をたえず一つの手から別の手に遠ざけて行く過程では、貨幣のたんに象徴的な存在でも十分なのです。 

  W-G-WにおけるGはWの交換価値の自立的な存在です。しかしそれは束の間の契機でしかありせん。なぜならW-Gを経た商品の価値は、すぐさまG-Wによって別の商品へと変態しなければならないからです。そしてその結果が貨幣が絶えず人の手から別の人の手へと遠ざかる運動が生じていたのです。それが貨幣の通流であり、貨幣の流通手段としての機能だったのです。
  だから商品の変態であるW-G-Wの過程における一時的な存在であるGは、商品交換の当時者が互いに納得するなら貨幣のたんなる象徴でも十分可能なのです。 

  (ル) いわば、貨幣の機能的な存在が貨幣の物質的な存在を吸収するのです。 

  だから流通手段としての貨幣の機能だけであるなら、つまり諸商品の交換を媒介するためだけのものなら、そのGは別に金に拘る必要はないということになります。これはいわば貨幣の流通手段としての機能的存在が、その物質的存在を吸収したともいえます。 

  (ヲ) 貨幣は、それがもろもろの商品価格の瞬間的に客体化された反射であるときには、ただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた、章標によって置き換えられることもできるのです。 

  W-G-WにおけるGが、諸商品の価格をただ瞬間的に客観的に写し出し表示するものだけであるなら、それは貨幣を標章するだけでもよいですから、だから標章によって置き換えられるのです。 

  (ワ)(カ) ただし、貨幣の章標は、それに固有の客観的社会的な効力を必要とします。そして、紙製のシンボルがこれを受け取るのが、強制通用力によってなのです。この国家強制が有効なのは、ただ、一つの共同体組織の境界によって画された、すなわち国内の、流通部面のなかだけなのですが、しかしまた、この流通部面のなかだけでは、貨幣はまったく流通手段または鋳貨としてのその機能のなかに埋もれてしまい、したがってまた、紙幣というかたちで、その金属実体から外的に分離された、たんに機能的な存在様式を受け取ることができるのです。 

  W-G-Wにおいて、W-Gで商品の販売者がGの代わりに章標である紙幣を受け取るのは、その次に彼がそのGの代理物である紙幣で、G-Wの過程を確実に実行できると確信しているからにほかなりません。つまり交換当事者たちが互いの共通の意志としてそうした過程を認め合っていることが必要です。つまり販売者が貨幣の代わりにそのシンボルを受け取るのは、そうした社会的了解があってこそです。すなわちそこに強制通用力が働いているからなのです。そして国家がそれを保証したものが国家紙幣です。国家紙幣は、一つの共同体組織の枠内に限られたものですが、しかしまた国内の流通部面のなかでは、貨幣はただ流通手段の機能を果すだけですから、だからそれは紙幣によって置き代えられ、その金属実体から国家によって外的に分離されて、ただ流通手段という機能を果すだけのものとしての存在を受け取るのです。 

  この部分に該当する大谷氏の説明を紹介しておきましょう。 

  〈ここでは、磨滅金貨は、仮象の金--つまり、一見それだけの金に見えるが実際にはそれだけの金ではないもの--として、完全な鋳貨の機能を果し続ける。ほかの商品は、外界との摩擦によってすり減れば、それの理想的な平均見本には及ばないものと見なされるようになるのに,鋳貨だけは,流通のなかで摩滅することによって--すぐあとで見るように,その摩滅が或る限度を越えないかぎりは--,逆にいわば「理想化」されて,金という身体の仮象の定在に転化されるのである。
  このようなことが可能であるのは,なぜであろうか。それは,商品の売り手がこの磨滅に気づいていたとしても、それでもなお、磨滅した鋳貨を、磨滅していない完全量目の鋳貨と同じものとして受け取る、という事実から推測できる。すなわち、この販売ののちにほどなく買い手としてその鋳貨で商品を買うことを予定しており、しかも、彼が買い手として商品を購入するさいに、磨滅した鋳貨が完全量目の鋳貨として通用することが確実であるかぎり、そのような鋳貨を受け取ることになんの問題もないのである。
 しかし,もし彼がこの販売ののちにその鋳貨を価値の自立的な定在として、つまり価値のかたまりとして保蔵するとしたら,どうであろうか。明らかに彼は,完全量目の鋳貨でなければ、受け取ることをいやがるであろう。そのような役割を果たす貨幣を,のちに見るように、蓄蔵貨幣と言うのであるが,摩滅した鋳貨は蓄蔵貨幣とはなりえないのである。   それにたいして,摩滅した鋳貨でも,諸商品の流通を媒介するものとして商品所持者の手から手へと流れていく流通手段の機能は果たすことができるのである。それはなぜか。   流通手段の機能を果たす金もW-Gから次のG-Wに移るまでに、売り手の手のなかで長かれ短かかれ休止しなければならないし、そのあいだはGは商品の価値姿態であり、価値を自立的に表示しているのであるが、そのような価値姿態、価値の自立的な表示は、一時的なものであって、次の購買によってすぎに消えてしまうものでしかない。だからこそ、 金が流通手段として機能するだけなら,それは貨幣のたんに象徴的な存在でも十分なのである。つまり,摩滅した鋳貨の流通は,金が流通手段または鋳貨としてだけ機能するものとして自立化させられていることを表わしているのである。
  その場合,注意が必要であるのは,そのような流通手段機能の自立化は,流通界にある摩滅した鋳貨の全体について生じているのであって,一つ一つの金鋳貨についてではない,ということである。商品の売り手は,自分が受け取る鋳貨にかぎって,それがいくらか摩滅していても,自分の購買にさいして完全な鋳貨と同じく受け取られるであろう,と推測するのではけっしてない。彼は,その種の鋳貨が通用する流通部面、つまり国内流通で一般的に,摩滅した鋳貨でも完全な鋳貨として受け取られることを知っているから,自分もそれを受け取るのである。流通手段機能の自立化は、国内流通で現実に流通している鋳貨の全体について生じるものであること、このことは、のちに不換紙幣流通下のインフレーションを見るときに重要な意味をもつことになる。〉 (「貨幣の機能」272-274頁)
 

◎注85
 

【注85】〈85 (イ)金銀が、鋳貨としては、またはただ流通手段だけとしての機能においては、それ自身の章標になるということから、ニコラス・バーボンは、「貨幣の価値を高める」〔"to raise money"〕政府の権利を導きだしている。(ロ)すなわち、たとえばグロッシェンと呼ばれる一定量の銀に、ターレルというようなもっと大きな銀量の名称を与え、こうして債権者にはターレルのかわりにグロッシェンを返済する、というようにである。(ハ)「貨幣は、何度も数えられることによって、摩滅して軽くなる。……(ニ)人々が取引のさいに気をつけるのは、貨幣の名称と通用力とであって、銀の分量ではない。……(ホ)金属を貨幣にするものは、金属にしるされた公の権威である。」(N 。バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』、29、30、25ページ。)〉 

  (イ) 金銀が、鋳貨としては、あるいは流通手段としてだけの機能では、自分自身の章標になる、ということから、ニコラス・バーボンは、「貨幣の価値を高める」〔"to raise money"〕政府の権利を導きだしています。 

  この原注は〈商品価格の瞬間的に客体化された反射としては、貨幣はただそれ自身の章標として機能するだけであり、したがってまた章標によって代理されることができるのである〉という一文につけられたものです。
  つまりこの原注は貨幣が流通手段としての機能に限定されるなら、その章標によって代理できるということから、あたかも通貨の名称を名づけることを変えれば、貨幣の価値を高めることができると主張したバーボンを紹介したものだといえます。
  ニコラス・バーボンについては、すでに一度紹介したことがありますが(№16)、もう一度『資本論辞典』から簡単に紹介しておきましょう。 

  〈バーボンNicholas Barbon (c.I640-1698)イギリスの医者・経済学者.……主著としては《A Discourse of Trade》(1690) (久保芳和訳)と《A Discourse concerning Coining the New Money Lighter》(1696)があるが.前著では国富としての金銀の重視をしりぞけ,貴金属の輸出にたいする重商主義的統制に反対し,過度の節約をいましめて国際分業と貿易の自由を主張した.後著では当時やかましく論議された時事問題たる貨幣改鋳の問題にかんしてロックの軽鋳反対論を論駁し. 軽鋳の利を説いた.……マルクスは使用価値および価値にかんしてバーボンが先駆者的卓見をもっていたことに注目しているが, しかし他方では,商品価格は流通手段の分量によって規定されるとなすグァンダーリントやヒュームと共通した幻想をいだいていたとの批判をも記している。 (久保芳和)〉(533-534頁) 

  (ロ) すなわち、たとえばグロッシェンと呼ばれる一定量の銀に、ターレルというようなもっと大きな銀量の名称を与え、こうして債権者にはターレルのかわりにグロッシェンを返済する、というようにです。 

  バーボンの「貨幣の価値を高める」政策というのは、グロッシェンと呼ばれる一定量の銀に、ターレルというもっと大きな銀量の名称を与えて、債権者にはターレルの代わりにグロッシェンを返すということだそうです。
 グロッシェンというのは、シリングの100分の1を表す補助単位だそうで、ターレルというのは大型銀貨のことで、国や歴史によってさまざまですが、ターレルはターラーともいわれ、これがダラー、ドルとなって、今のアメリカの貨幣の名称のドルもここから来ているということです。 

  (ハ)(ニ)(ホ) 「貨幣は、何度も数えられることによって、摩滅して軽くなる。……人々が取引のさいに気をつけるのは、貨幣の名称と通用力とであって、銀の分量ではない。……金属を貨幣にするものは、金属にしるされた公の権威である。」(N 。バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』、29、30、25ページ。) 

  貨幣は流通手段としての機能においては、その章標によって置き換えることができるということから、だから問題なのは、その貨幣の金属実質ではなく、政府が与える金属に記された名称であり、それを通用させる公の権威なのだというのです。だからグロッシェンと呼ばれている銀に、ターレルというもっと重い銀の名称を付けて、そして政府の債務を返済するときに、ターレルで借りた債務を、ターレルと名づけられたグロッシェンで返せばよいというのです。なるほどこれだと政府は丸儲けですが、しかしそのような政府の国債を買うものは誰も現われなくなることだけは確かでしょう。

  (【付属資料】は(3)に掲載します。)

 

 

 

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