『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第20回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2010-01-27 04:00:50 | 『資本論』

第20回「『資本論』を読む会」の報告(その1)


◎新年を迎えたが

 新しい年を迎え、民主党政権になって初めての国会における予算審議が始まったものの、小沢幹事長や鳩山首相の金と政治の疑惑問題ばかりが話題になり、ちっとも自民党政権時代と変わっていないじゃないか、と思わざるを得ません。

 そもそも小沢一郎などという人物は、田中角栄や金丸信など自民党の中でももっとも自民党的なゼネコンと結びついた金権政治の伝統を受け継ぐ人であって、こんな人が牛耳る民主党に何かそれまでの自民党と違ったものを期待することが間違いだったのだ、ということがようやく国民の中にも実感して理解されるようになってきたといえるのでしょうか。

 鳩山政権の支持率が低下して、すでに不支持と逆転したといいます。民主党にも愛想を尽かした国民は、次に何に期待し、選択するのでしょうか。

 代わり映えのしない政治に対して愚痴ばかりが出ますが、わが「『資本論』を読む会」の状況もいま一つ盛り上がりにかけ、愚痴の一つもこぼしたくなる状況には変わりはありません。

 今回からは、第1章「商品」の第3節「価値形態または交換価値」の「(3)等価形態」に入りました。議論はいろいろと脱線して、和やかな雰囲気のもとに学習会は進みましたが、そうしたことあり、結局、進んだのは最初の三つのパラグラフのみでした。さっそくその報告をやることにしましょう。

◎等価形態を質と量の二面から考察

 今回、進んだ三つのパラグラフは、等価形態を質の面(第1パラグラフ)と量の面(第2・3パラグラフ)から考察しているところです。それぞれパラグラフごとに検討していくことにします。

【1】《(イ)すでに見たように、一商品A(リンネル)は、その価値を異種の一商品B(上着)の使用価値で表わすことによって、商品Bそのものに、一つの独特な価値形態、等価物という価値形態を押しつける。(ロ)リンネル商品はそれ自身の価値存在を顕わにしてくるのであるが、それは、上着がその物体形態とは違った価値形態をとることなしにリンネル商品に等しいとされることによってである。(ハ)だから、リンネルは実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって、表現するのである。(ニ)したがって、一商品の等価形態は、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態である。》

 (イ)われわれは、「2 相対的価値形態」において、その「内実」を分析して、リンネルの商品の価値がどのように上着の使用価値によって表現されているかを見てきました。そしてリンネル価値が上着で表現されるということは、上着に独特な形態規定性を与えることによってなされることを見てきたわけです。それが等価物という形態です。等価物も《一つの独特な価値形態》である、とここでは書かれていますが、初版本文には次のような一文があります。

 《われわれの分析が明らかにしてきたのは、一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している、ということである。リンネルは、その価値と、その特定の価値の大きさとを、上着で表わしている。リンネルはその価値を他の一商品にたいする価値関係において、したがって交換価値として、示すのである。他方において、リンネルがその価値をそれにおいて相対的に表現するところの、この別の商品、上着は、まさにそれゆえに、リンネルと直接に交換されうる使用価値という形態を、すなわち等価物という形態を、受け取るのである。両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なのである。両方が、じつはただ、同じ相対的な価値表現の諸契機であり、相互に制約され合っている諸規定でしかないのであるが、それら二つの等置された商品極の上に対極的に分けられているのである。》(国民文庫版53頁)

 ここでは《一商品の相対的な価値表現は二つの違った価値形態を包括している》と述べています。すなわち「相対的価値形態」と「等価形態」です。この《両方の形態、一方の商品の相対的価値形態と他方の商品の等価形態とは、交換価値の諸形態なの》だということです。

 (ロ)「相対的価値形態の内実」の第4~6パラグラフでは、リンネルの価値がどのようにして表現されるのかについて明らかにされていました。そしてそのことは第7・8パラグラフで明らかにされたように、上着が新たな形態規定性を帯びることによってであること、すなわち上着の自然形態そのものが価値として通用すること、すなわち価値体になることだと説明されました。つまり上着の物体形態そのものが価値の形態になることによって、リンネルと等しいとされたわけです。

 (ハ)そして上着の物体形態そのものが価値の形態になっているのだから、上着はそのままで直接リンネルと交換されうるものなのです。ここで重要なのは「直接に」ということです。すべての商品は価値としては、交換可能なものですが、「直接」にそうしたものとしてあるわけではありません。というのは商品の「直接」的な存在はその使用価値だからです。だから商品は価値として現れるような形態を持たないと交換されえないのです。ところが等価形態にある商品は、それによって価値を表現する商品に対しては、その直接的定在である使用価値そのものが価値の形態になっているわけですから、その商品は「直接に」交換可能となるわけです。価値を表現する一商品は、等価物にある商品をそうした状態に置くことによって、自らの価値を表現しているのです。

 (ニ)だから一商品の等価形態というのは、その商品の他の商品との直接的交換可能性の形態にあるということです。つまり等価形態というのはそれを等価形態におく商品と直接に交換できるという性質を持っているのです。

 フランス語版では、この部分が三つのパラグラフに分かれていることが指摘されました。ついでにフランス語版を紹介しておきましょう。

 《すでに見たことだが、商品A(リンネル)は、その価値を、異なる商品B(上衣)の使用価値のうちに表現すると同時に、商品Bにたいし、特殊な価値形態である等価形態を押しつける。リンネルはそれ自身の価値性格を次のような関係によって表わす。すなわち、自然形態にあるがままの上衣という別の商品が、リンネルに等しいとされる関係によって。したがって、リンネルは、自分自身があるものに値していることを、上衣という別の商品が直接に自分と交換可能であるという事実によって、表現している。
 すべての商品は、価値としては人間労働という同じ単位の同等な表現であり、相互に置き換えることができる。したがって、商品が価値として現われる形態をもつやいなや、この商品は別の商品と交換可能なものになる。
 一商品は、それを等価物とする他のすべての商品と、直接に交換可能である。すなわち、価値関係においてこの商品の占める位置が、その自然形態を、他の商品の価値形態にする。この商品は、それが他の商品にたいし価値として現われ、そのようなものとして値うちをもち、したがって、他の商品と交換可能なものになるためには、その自然形態とちがった形態をとるには及ぼない。したがって、一商品にとって等価形態とは、その商品が他の商品と直接に交換可能であるところの形態なのである。》(江夏他訳26-7頁)

 このフランス語版で特に問題になったのは、第2パラグラフです。ここでは《すべての商品》が問題になっており、だから商品の一般的な交換可能性について論じています。初版付録でも同じような文言が冒頭にきています。

 《諸価値としては、すべての商品は、同じ単位の、すなわち人間労働の、同等と認められる互いに置き替えられる、すなわち交換可能な諸表現である。それゆえ、ある商品が一般に他の商品と交換されうるのは、その商品が価値として現われるような形態をもっているかぎりにおいてのことである》(国民文庫版137頁)

 しかし現行版(第二版)では、そうした文言がなくなり、だからフランス語版で再び復活したことになります(しかし位置を変えて)。つまり初版付録やフランス語版では商品の「一般的な」交換可能性と等価形態の「直接的な」交換可能性とが対比される形で論じられているわけです。つまり一般に商品は交換されうるためには、価値として現れることが必要なのですが、等価形態にある商品はその現物形態そのものが価値として認めらるから、だからそれはそれをそうしたものとして認める商品とは「直接的」に交換可能である、というわけです。
 また現行版では、上着とリンネルとが例に上げられて、最後まで二商品の価値関係として説明されていますが、フランス語版では最初はリンネルと上着が例に上げられているものの、第3パラグラフでは、等価形態にある商品は、それを等価物にする《他のすべての商品と、直接に交換可能である》と述べられており、やや展開された価値形態に近い表現になっていることも指摘されました。
 
 最後に、ここで言われている「直接的交換可能性」について、どうしてこんなことをいう必要があるのだろうか? という素朴な疑問が出されました。それに対して、この「直接的交換可能性」というのは、等価形態が貨幣にまで発展すると、「金(カネ)があればなんでも買える」という貨幣の極めて強力な特質として現れてくるものだ、との説明がありました。「金さえあれば何でも欲しい物が手に入る」という金の魔力は、まさに等価形態の直接的交換可能性に基づいているわけです。貨幣になるとそれが貨幣そのものが持っている魔力のように見えますが、実はそうではなく、それは等価形態におかれた商品が、ただ一方的に《押しつけ》られた性質にすぎず、等価形態におかれた上着にとってはまったく与り知らない、ただ受動的に一方的に押しつけられた役割にすぎないわけです。そうした等価形態の「質」的側面が、貨幣にまで発展すると、まるで貨幣そのものが生まれながら持っている一つの魔力のように見えてくるのですから、おかしなものです。

 「ということは、貨幣に発展する等価形態の考察こそが、マルクスにとってはメインなのだろうか?」という疑問も出ましたが、しかし等価形態の謎を解明するためには、相対的価値形態の内実が解明される必要があり、むしろ相対的価値形態そのものの解明の困難さが貨幣の謎の解明の困難さでもあったことが指摘されました。

 貨幣が主役のように見えている現象の転倒性についても話が及び(なにしろ話はいくらでも脱線したので)、現象的には貨幣があって商品が売買されて流通するように見えるが、本当は商品の流通という現実(あるいは商品の交換によって社会の物質代謝が維持されているという現実)があるからこそ、貨幣の流通もあるのであり、そうした関係がわれわれには転倒して見えているのだということも指摘されました。またそうした転倒した現象に捕らわれた自称マルクス経済学者の典型的な主張の紹介など話は尽きないほどに脱線したのですが、その報告まですると、この報告そのものが脱線しかねないので割愛したいと思います。もし興味のある方は、以下のサイトを覗いてみてください(http://plaza.rakuten.co.jp/marxken/diary/200808030001/)。

 (字数の関係で、【付属資料】も含めて三分割します。よって、以下は「その2」に続きます。)

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