『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第27回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2010-09-03 12:46:54 | 『資本論』

第27回「『資本論』を読む会」の報告(その2)


◎第二形態から第三形態への移行をめぐる論争

 このマルクスの第二形態(全体的な、または展開された価値形態)から第三形態(一般的価値形態)への移行については、賛否両論があり、従来から論争が繰り返されてきました。それらは大きくは、マルクスが「逆関係」を使って説明しているのを否定する主張と、それを肯定する主張とに分けることができます。今、その代表的なものを知るために、白須五男氏がまとめたものを紹介してみましょう。

 〈【逆連関否定の移行論】
   I
(1)価値形態の中に交換過程的論理を導入し、商品所有者の相互的な欲望表現を価値表現と同一視し、その表現の不一致から発生する交換の困難を解決するものとして第三形態を措定しようとする説--宇野弘蔵氏および宇野学派の多くの論者の見解 。
(2)マルクスの価値表現を相互的価値表現であると批判し、価値実体も商品所有者の欲望もともに前提せず、交換過程的論理を排除した「純化された価値形態的論理」それ自体の内で、価値と使用価値の二要因の矛盾が展開されることを通して第三形態を導出しようとする説--中野正氏、鈴木鴻一郎氏(および玉野井芳郎氏) の見解。
  II
(3)価値形態論の内部では第二形態から第三形態への移行を理論的に説くことには本質的困難が伴い、その発展過程に交換過程の全面的外化の矛盾を対応させることによって第三形態の成立が可能になるとする説--冨塚良三氏の見解 。
(4)逆連関を前提せずに、価値概念とその定在様式(価値形態)との矛盾の展開だけから第三形態の成立を措定しようとする説--武田信照氏の見解 。
  III
(5)価値形態論を価値表現の「類型論」として位置付け、第二形態から第三形態への移行は本来交換過程論の課題であって、価値形態論の内部ではその移行の論理は始めから説きえないとする説--大島雄一氏の見解 。
  【逆連関肯定の移行論】
(6)価値概念と価値の定在様式との不一致(矛盾)を形態移行の動力として価値概念に照応する第三形態を導出し、貨幣の現実的必然性が問題となる交換過程はその第二形態から第三形態への移行を媒介するものと捉える説--見田石介氏、尼寺義弘氏の見解。
(7)価値表現の両極性と両項の互換性についての「独自な」解釈に基いて、第二形態およびその逆連関としての第三形態が同一時点では必ずただ一つだけ成立可能と捉える説--頭川博氏の見解。〉(『マルクス価値論の地平と原理』158-9頁)

 なかなか、これだけでは、それぞれの主張を理解することはできませんが、さまざまな主張が入り乱れて論争が行われていることは了解頂けたのではないでしょうか。そのすべてについて具体的に検討することは、ほとんど不可能であるし、またその必要性もないと思いますので、ここでは、逆関係を否定する代表的な主張として、富塚氏の主張を批判的に検討してみることにしましょう。富塚氏の主張は次の一文に典型的に現われています。

 〈元来、20ヤールの亜麻布=1着の上衣 という等式関係は、亜麻布商品の所有者が「上衣一着とならば亜麻布20ヤールを交換してもよい」といっていることを表現しているにすぎないのであって、それは全く亜麻布所有者にとっての私事にすぎず、亜麻布所有者がそういっているからといって、上衣の所有者がそれに応じなければならないという理由は全くない。上衣の所有者はその商品を亜麻布と交換することを望まないかもしれず、仮りに亜麻布と交換しようとする揚合にも、20ヤールでは不足だとするかもしれない。要するに、20ヤールの亜麻布=1着の上衣 という亜麻布にとっての価値表現の関係は、20ヤールの亜麻布が必ず一着の上衣と交換されるということを表現してはおらず、1着の上衣=20ヤールの亜麻布 という逆の価値表現の関係を当初から予定してはいないのである。〉(『恐慌論研究』244頁)

 こうした富塚氏の主張は、明らかに価値形態を見誤っているとか言いようがありません。富塚氏は、マルクスが商品の価値を分析するのに、商品の交換関係から考察を開始したことを忘れています。マルクスは第1章で次のように書いています。

 〈交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現われる。〉(下線は引用者、全集版49頁)
 〈さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、与えられた量の 小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる。たとえば 1クォーターの小麦=aツェントナーの鉄 というように。この等式はなにを意味しているのか?〉云々(下線は引用者、同50頁)

 こうした考察から出発して、私たちは商品の価値をつかみだし、その実体を考察したのです。マルクスは、価値の実体を考察したあと、その量的考察に移る前に次のように述べていました。

 〈だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現われる共通物は、商品の価値なのである。研究の進行は、われわれを、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値につれもどすことになるであろう。しかし、この価値は、さしあたりまずこの形態にはかかわりなしに考察されなければならない。〉(同52頁)

 だから第三節から始まった価値形態の分析は、マルクスがここでいう〈価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値〉の分析に他ならないのです。だから価値形態の分析においては、常にその背景として交換関係が前提されているということが留意されていなければならないのです。そして二商品の交換関係を前提すれば、リンネルと上着との交換には、当然、上着とリンネルとの交換が含まれており、リンネルの価値を上着で表すということと同時に、上着の価値をリンネルで表すという逆の関係が常に含まれていることはあまりにも当然のことではないでしょうか。価値形態の考察においては、二商品のこうした交換関係から商品所有者やその欲望を捨象して、二商品の交換という事実だけを取り出して観察し、分析しているわけです。

 こうした第二形態から第三形態への発展を、マルクスはモスト著『資本論入門』のなかでは歴史的に次のように描いています。

 〈交換のその次に高い段階(第二形態--引用者)を、われわれはこんにちでもまだ、たとえばシベリアの狩猟種族のところで見いだす。彼らが提供するのは、交換向けのほとんどただ一つの財貨、つまり毛皮である。ナイフ、武器、火酒(かしゆ)、塩等々といった彼らに供給される他人のすべての商品が、彼らにとってはそっくりそのまま、彼ら自身の財貨のさまざまの等価物として役立つ。毛皮の価値がこうして受け取る表現が多様であることは、この価値を生産物の使用価値から分離して表象することを習慣にするが、他方では、同一の価値をたえず増大する数のさまざまの等価物で計量することが必要となる結果、この価値の大きさの規定が固定するようになる。つまり、ここでは毛皮の交換価値はすでに、以前ばらばらに行なわれていただけの生産物交換の場合(第一形態--引用者)に比べて、はるかにはっきりした姿をもっているのであり、したがってまた、いまではこれらの物そのものもすでに、はるかに高い程度で商品という性格をもっているのである。
 こんどはこの取引を、異郷の商品所持者の側から観察してみよう彼らのおのおのはシベリアの狩人たちにたいして、自分の財貨の価値を毛皮で表現しなければならない。こうして毛皮は、一般的等価物になる。一般的等価物は、他人のすべての商品と直接に交換可能であるばかりでなく、また他人のすべての商品にとって、共通の価値表現のために、したがってまた価値を計るものおよび価値を比較するものとしても役立つ。言い換えれば、毛皮は生産物交換のこの範囲のなかでは、貨幣となるのである。
〉(大谷禎之介訳10-11頁)

◎第二形態から第三形態への発展には、どういう商品形態の発展が対応しているのか?

 第二形態から第三形態への移行を逆の関係から説明するマルクスのやり方を肯定するにしても、では、第二形態から第三形態への移行においては、ただ観察の視点の転換だけが問題なのでしょうか。〈全体的な、または展開された価値形態〉を、それまでリンネルの側から見ていたのを、ひっくり返して、それまで等価形態に置かれていた諸商品の側から見て、それらの相対的な価値の表現として見ただけなのでしょうか。そうではなく、やはり第二形態から第三形態への移行にも、商品形態の発展が対応しているのでしょうか、それが問題です。
 大谷氏はこの点で、先のマルクスの『入門』の説明は、〈やや舌足らずで、誤解を招く可能性がある〉と指摘しています。確かにそういう面がないとはいえませんが、しかし『入門』の説明でも、商品形態の発展を物語っているようにも思えます(それは後に紹介します)。しかし、とりあえず、この点では大谷氏の説明が参考になるので、紹介しておくことにしましょう。
 大谷氏は『価値形態』(『経済志林』61巻2号)で次のように述べています。

 〈じっさい,ある人が自分のリンネルを他の多くの商品と交換し,したがってまたリンネルの価値をそれらの商品で表現するならば,必然的に,他の多くの商品所持者もそれぞれ自分の商品をリンネルと交換しなければならず,したがってまたそれぞれ自分の商品の価値を,みな同じ商品,リンネルで表現しなければならないわけである。
 すでに述べたように,これらの他商品が相互にまったく無関係に存在して,相互にまったく無関係にリンネルと交換するのであれば,それらの商品がもつ価値形態は単純な価値形態でしかない。けれども,ここで生じる交換関係の発展の方向は,リンネルばかりでなく,これら他商品のほうでも他の多くの諸商品と交換関係を結び,したがってこれらの諸商品がみな同一の場で交換されるようになっていく,というものであるほかはない。その行き着くところは,リンネルの開展された価値形態を潜めている交換関係のなかで,リンネルにたいする多くの他商品の側でも,互いに商品として関わりをもち,同じ商品世界を形成しているということ,どの他商品もリンネルと交換しようとしているということである。そして,一方の側に開展された価値形態を含む交換関係は,他方の側にそのような多くの商品が立っことを排除するものではないのである。〉(212頁)

 つまりこういうことです。モストの『入門』の例を参考に考えてみましょう。シベリアの狩猟種族が彼らの獲物である毛皮を、狩りの旅の途中で出会うさまざまな種族と、それらの種族の生産した武器や火酒、塩等々と交換していく場合、毛皮は展開された価値形態を獲得します。しかし、毛皮と交換される武器や火酒、塩等々の側から見ると、それらの交換はいまだそれらの生産者にとっては偶然的なものにすぎません。だからそれらの商品から見た場合は、それらはいまだ単純な価値形態に過ぎないわけです。
 しかしそうした交換がさらに発展して行くと、武器や火酒や塩等々を生産する種族たちにとっても、商品の交換はますます偶然的なものではなくなり、彼らの間でも互いに商品を交換し合う関係が発展してくるわけです。そうした場合に、彼らは互いの商品交換において、それぞれの価値をまずは毛皮で表現して、彼らの商品の価値を比較しあうようになります。その上で、彼らは互いの商品を交換し合うわけです。そして、これがすなわち一般的な価値形態なのです。だから第二形態から第三形態への発展にも、商品交換の、よってまた商品形態の発展が対応していると考えられるわけです。先の『入門』を丁寧に読めば、マルクスは、こうした商品交換の歴史的な発展を描いていることが読み取ることができると思います。

【付属資料】は(その3)に掲載します。)

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