『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第23回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2010-04-21 11:51:50 | 『資本論』

第23回「『資本論』を読む会」の報告(その1)


◎散り際が潔くない桜

 軍歌の「同期の桜」を持ち出すまでもなく、桜花はその散り際の見事さが、昔からよく言われるのですが、今年の桜はぐずぐずと何時までたっても木々に残っています。
 会場の図書館の三階から見えるソメイヨシノも、すでに4月も半ばを過ぎているというのに、かなりのものが残って咲いていました。その健気な姿も称賛に値しないこともありません。
 ところで、私たちの読書会も、そろそろ“散り所”ではないかという噂がちらほら聞こえなくもないのですが、今年の桜と同様、しつこく続けようとしているかに見えます。窓際に見える残り花を横目に、今回は、比較的短時間に等価形態の最後まで終えました。その報告を“しつこく”しておきしょう。

◎最後に展開された等価形態の二つの特色とは?

 今回は、等価形態の第三の特色が終わったあとに続くもので、第13パラグラフから始まりました。いつものように、まずパラグラフ全文を紹介し、文節ごとに内容を確認して行きましょう。

【13】

 《(イ)最後に展開された等価形態の二つの特色は、価値形態を他の多くの思考形態や社会形態や自然形態とともにはじめて分析したあの偉大な探究者にさかのぼってみれば、もっと理解しやすいものになる。(ロ)その人は、アリストテレスである。》

 (イ)(ロ)
 ここで〈最後に展開された等価形態の二つの特色〉とは何かが問題になりました。これはいうまでもなく、等価形態の第二の特色(〈具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということ〉)と第三の特色(〈私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということ〉)のことを指すのだろう、ということが確認されました。そして、この二つの特色は、等価形態の第一の特色(〈使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということ〉)と較べてみると、共通しているのは、等価形態の特色が価値の実体である人間労働の次元にまで掘り下げて論じられているということです。だからそうした問題がアリストテレスの価値形態の分析を振り返ってみると〈もっと理解しやすいものになる〉ということではないかということです。

◎『経済学批判』におけるアリストテレスへの言及

 また今回問題になるアリストテレスについては、『経済学批判』でも言及されていることが指摘されました。そして学習会の一連の議論のなかでは、『批判』における一文も併せて検討されましたので、まず、『批判』の文章を紹介しておくことにしましょう。

 それは《労働時間が金と商品とのあいだの尺度であり、そして金はすべての商品が金で測られるかぎりでだけ価値の尺度となるものであるから、あたかも貨幣が諸商品を通約可能なものとするように見えるのは、流通過程のたんなる外見にすぎない〔*〕。むしろ対象化された労働時間としての諸商品の通約性こそが、金を貨幣とするのである。》という本文の中にある〔*〕印部分の注としてある、次のような一文です。

 《〔*〕アリストテレスは、たしかに商品の交換価値が商品価格の前提となっていることを見ぬいている。「……貨幣があるまえに交換があったことは、明らかである。なぜならば、五台の寝台が一軒の家と交換されようと、また五台の寝台の値うちにあたる貨幣と交換されようと、すこしも区別はないからだ。」他方、商品は価格においてはじめて互いに交換価値の形態をもつのであるから、彼は、商品は貨幣によって通約可能となると考えた。「すべてのものは価格をもたなければならない。なぜなら、そうしてこそともかくも交換がおこなわれ、したがって社会が存在するであろうからだ。貨幣はものさしと同様に、実際にものを通約可能〔ου´μμετρα〕にし、ついでそれらを互いに等置する。なぜなら、交換なしには社会はありえず、しかし同等性なしには交換はありえず、通約性なしには同等性はありえないからである。」彼は、貨幣で測られるこれらのいろいろなものが、まったく通約できない大きさであることを見おとしはしなかった。彼の求めたものは、交換価値としての諸商品の単一性であるが、古代ギリシア人である彼は、これを見いだすことができなかった。彼は、それ自体で通約できないものを、実践的な要求にとって必要なかぎりで貨幣によって通約できるものとすることによって、この困難からまぬがれた。「たしかにこのようにさまざまなものが通約できるということは、ほんとうはありえないことだが、けれども実践上の要求におうじてそれがおこなわれるのである。」(アリストテレス『ニコマコス倫理学』第五巻、第八章、ベッカー編、オックスフォード、一八三七年)》(全集13巻50-1頁)

 つまり『経済学批判』では、アリストテレスの主張は、貨幣があたかも諸商品を通約可能なものにするかのように見える、流通過程の外見に捕らわれた見解の一つとして紹介されているのです。だからアリストテレスの主張は、通約可能になる背景にある尺度としての労働時間を見ていない例として上げられているわけです。ところが『資本論』では、反対にアリストテレスの見解は、通約可能の中に質的同一性を見ている積極的な例として上げられており、ただその質的同一性が何であるかは歴史的制約のなかでアリストテレスには理解できなかったのだ、ということになっているわけです。

◎アリストテレスは単純な価値形態(交換価値)が貨幣形態(商品価格)の前提であることを見抜いている

【14】

 《(イ)アリストテレスがまず第一に明言しているのは、商品の貨幣形態は、ただ、単純な価値形態のいっそう発展した姿、すなわちある商品の価値を任意の他の一商品で表現したもののいっそう発展した姿でしかないということである。(ロ)というのは、彼は次のように言っているからである。
   
(ハ)「5台の寝台=1軒の家」
   ("Κλιναι πεντε αντι οικιαζ")
ということは、
   「5台の寝台=これこれの額の貨幣」
   ("Κλιναι πεντε αντι...οσου αι πεντε κλιναι")
というのと「違わない」と。》

 (イ)(ロ)(ハ)
 ここでは、アリストテレスの〈言っている〉こととして、二つの等式が紹介されていますが、『経済学批判』では先に見たように、アリストテレス自身の言葉として、「……貨幣があるまえに交換があったことは、明らかである。なぜならば、五台の寝台が一軒の家と交換されようと、また五台の寝台の値うちにあたる貨幣と交換されようと、すこしも区別はないからだ」という一文が紹介されています。
 アリストテレスが「5台の寝台=1軒の家」ということは「5台の寝台=これこれの貨幣」というのと「違わない」と述べているように、彼は商品の貨幣形態は、単純な価値形態のいっそう発展した姿だ、つまりある商品の価値を任意の他の一商品で表現したもののいっそう発展した姿でしかないと明言しているわけです。『経済学批判』でも〈アリストテレスは、たしかに商品の交換価値が商品価格の前提となっていることを見ぬいている〉とも指摘されています。つまり〈商品の交換価値〉、すなわち商品の単純な価値形態は、〈商品価格〉、すなわち商品の貨幣形態の〈前提〉であることを見抜いているというのです。

◎アリストテレスの論理

【15】

 《(イ)彼は、さらに、この価値表現がひそんでいる価値関係はまた、家が寝台に質的に等置されることを条件とするということ、そして、これらの感覚的に違った諸物は、このような本質の同等性なしには、通約可能な量として互いに関係することはできないであろうということを見ぬいている。(ロ)彼は言う、「交換は同等性なしにはありえないが、同等性はまた通約可能性なしにはありえない」("ουτ ισοτηζ μη ουσηζ συμμετριαζ")と。(ハ)ところが、ここでにわかに彼は立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。(ニ)「しかしこのように種類の違う諸物が通約可能だということ」すなわち、質的に等しいということは、「ほんとうは不可能なのだ」("τη μεν ουν αληθεια αδυνατον")と。(ホ)このような等置は、ただ、諸物の真の性質には無縁なものでしかありえない、つまり、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである〔24〕。》

 (イ)ここでは、マルクスはアリストテレスは、価値関係のなかに価値表現を見いだしており、そしてそのためには、家=寝台という質的等置を条件としていること、だから家や寝台といった感覚的に異なる諸物は、本質的な同質性を持たない限り、通約可能な量として互いに関係することはできないことを見抜いているのだと指摘されています。
 ところが、その実例として(ロ)で紹介されているアリストテレスの文章は、すでに見た『批判』の次の文章の一部(下線部分)です。

 「すべてのものは価格をもたなければならない。なぜなら、そうしてこそともかくも交換がおこなわれ、したがって社会が存在するであろうからだ。貨幣はものさしと同様に、実際にものを通約可能〔ου´μμετρα〕にし、ついでそれらを互いに等置する。なぜなら、交換なしには社会はありえず、しかし同等性なしには交換はありえず、通約性なしには同等性はありえないからである。」

 この一文に対して、マルクスは『批判』では、〈他方、商品は価格においてはじめて互いに交換価値の形態をもつのであるから、彼は、商品は貨幣によって通約可能となると考えた〉と指摘しており、その実例として紹介されているのです。つまりこれはアリストテレスの分析の不十分さ、間違いを指摘しているのです。そもそもすでに紹介したように、『批判』でのアリストテレスへの言及は、〈労働時間が金と商品とのあいだの尺度であり、そして金はすべての商品が金で測られるかぎりでだけ価値の尺度となるものであるから、あたかも貨幣が諸商品を通約可能なものとするように見えるのは、流通過程のたんなる外見にすぎない〔*〕。むしろ対象化された労働時間としての諸商品の通約性こそが、金を貨幣とするのである〉という本文中の〔*〕印部分の注として書かれており、アリストテレスの価値形態の分析は、〈あたかも貨幣が諸商品を通約可能なものとするように見える〉〈流通過程のたんなる外見〉に捕らわれた一例なのです。
 ところが『資本論』では、通約可能性のなかに〈本質の同等性〉を見抜いている、積極的な見解として紹介されているわけです。
 上記の『批判』に紹介されているアリストテレスの主張の論理を詳細に検討してみると、確かにそれは次のようになっていることが分かります。
 まずアリストテレスにとっては、社会の存続が第一の前提としてあり、そのためにはとにもかくにも交換が行われなければならないということがあります。そして交換が行われるためには、すべてのものは価格を持たなければならないというわけです。すべての物が価格をもつということは、貨幣で通約可能にされることであり、通約性なしに、同等性はなく、同等性なしには交換はない、と続いています。つまり交換の前提には貨幣によるすべてのものの通約性があり、通約性によってそれらははじめて同等性をもち、それによって交換が可能になるのだと考えているわけです。確かにこうしたアリストテレスの論理には転倒があります。なぜなら、これだと諸物は貨幣によって通約可能になり、それによってはじめて同等性を持ち、よって交換可能になるのですが、しかし、実際には、すべてのものが同等性を持っているから、貨幣によって通約可能になるのだからです。
 しかし、ではアリストテレスはこうした関係を見抜いていないのかというとそうではありません。というのは、よくみると、彼は貨幣を「ものさし」と「同様」だと考えているからです。さまざまな物を「ものさし」で計って互いに較べることができるのは、さまざまな物に「長さ」という質的な同等性があるからであり、だからこそ「ものさし」はさまざまな物を同じ質である長さという属性だけで、比較可能なものに、つまり通約可能なものにすることができるわけです。さまざまな物は「ものさし」によって初めて「長さ」を持つわけではなく、もともと「長さ」という共通の属性を持っているからこそ、「ものさし」でそれらが量的に比較可能な状態に置かれるわけです。アリストテレスはこうした「ものさし」とさまざまな物の通約可能性との関係を明確に掴んでいます。にも関わらず、アリストテレスが諸商品の交換のなかに転倒した関係しか見なかったのは、彼には貨幣によって通約可能になるすべてのものに共通な「本質の同等性」なるものを見いだすことはできなかったからなのです。だから--

 (ハ)〈ここでにわかに彼は立ちどまって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう〉わけです。

 また(ニ)と(ホ)で紹介されているアリストテレスの一文も、やはり『批判』では次のように紹介されています。

 〈「たしかにこのようにさまざまなものが通約できるということは、ほんとうはありえないことだが、けれども実践上の要求におうじてそれがおこなわれるのである。」〉

 つまりアリストテレスには、(イ)で指摘されているように、感覚的に異なる諸物が貨幣によって通約可能になるためには、それらに〈本質の同等性〉がなければならないことは、見抜いているのですが、しかし諸商品に内在するそうした同等性を見いだすことができず、だからそれらを通約することも「ほんとうはありえない」のだが、ただ〈実践上の要求におうじてそれがおこなわれる〉だけだと考えたわけです。だから、アリストテレスの上記の文章は、流通過程の外見に捕らわれた主張であるかのような展開になっているわけです。

◎「価値概念」とは?

【16】

 《(イ)つまり、アリストテレスは、彼のそれからさきの分析がどこで挫折したかを、すなわち、それは価値概念がなかったからだということを、自分でわれわれに語っているのである。(ロ)この同等なもの、すなわち、寝台の価値表現のなかで家が寝台のために表わしている共通な実体は、なんであるか? (ハ)そのようなものは「ほんとうは存在しえないのだ」とアリストテレスは言う。(ニ)なぜか? (ホ)家が寝台にたいして或る同等なものを表わしているのは、この両方のもの、寝台と家とのうちにある現実に同等なものを、家が表わしているかぎりでのことである。(ヘ)そしてこの同等なものは――人間労働なのである。》

 (イ)アリストテレスには、価値概念が無かったことが、彼が価値形態の分析を先に進めることができなかった理由であることを、われわれに語っているわけです。
 ここで価値概念という言葉が出てきますが、これは何かということが議論になりました。これは初版本文にある次の一文が参考になると思います。

 《決定的に重要なことは、価値形態と価値実態と価値の大きさとの関係を発見するということ、すなわち、観念的に表現すれば、価値形態とは価値概念から発していることを論証することだったのである。》(国民文庫版77頁)

 つまり価値概念というのは、諸商品の価値はその商品に対象化され結晶した抽象的人間労働であるということ(価値実態)とその大きさかが商品に対象化された社会的に必要な労働時間によって規定される(価値の大きさ)ということです。

 (ロ)(ハ)寝台の価値を家によって表現されているなかでの共通の実態は、何か、ということに、アリストテレスはそんなものは本当は存在しないと言います。

 (ニ)(ホ)(ヘ)家が寝台に対して表す同等なもの、両者に共通なものというのは、人間労働だからです。それがアリストテレスには分からなかったわけです。

◎「価値表現の秘密」とは?

【17】

 《(イ)しかし、商品価値の形態では、すべての労働が同等な人間労働として、したがって同等と認められるものとして表現されているということを、アリストテレスは価値形態そのものから読みとることができなかったのであって、それは、ギリシアの社会が奴隷労働を基礎とし、したがって人間やその労働力の不等性を自然的基礎としていたからである。(ロ)価値表現の秘密、すなわち人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。(ハ)しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間の相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである。(ニ)アリストテレスの天才は、まさに、彼が諸商品の価値表現のうちに一つの同等性関係を発見しているということのうちに、光り輝いている。(ホ)ただ、彼の生きていた社会の歴史的な限界が、ではこの同等性関係は「ほんとうは」なんであるのか、を彼が見つけだすことを妨げているだけである。》

 (イ)アリストテレスが商品の価値形態のなかに、共通の実態を見いだすことができなかったのは、ギリシアの社会が奴隷労働を基礎としていたからです。つまり人間や労働力の不平等を自然的基礎にしていたからです。
 
 (ロ)すべての人間が平等であり、同等であるという観念が民衆の先入見として強固になったときに、はじめて人間労働一般やすべての労働の同等性や同等な妥当性という、価値表現の秘密は解きあかされ、その謎が解明され得るのです。

 ここで「価値表現の秘密」という言葉が出てきますが、これは何かが問題になりました。そしてそれと関連して、そもそもこの(ロ)の一文はどのように解釈したらよいのかが問題になり、いろいろ議論した結果、最終的には、次のように理解すべきだろうということになりました。
 まずこの文章は、〈価値表現の秘密〉で一旦区切り、それを〈すなわち〉で受け、〈人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性は〉と続いています。だから〈価値表現の秘密〉というのは〈人間労働一般であるがゆえの、またそのかぎりでの、すべての労働の同等性および同等な妥当性〉ということだろうということになりました。そして、それが主語になっていて、〈人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さをもつようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである〉と続いていると解釈できるということになりました。

 (ハ)しかしすべての人間が平等であり、同等であるというような観念は、商品形態が労働生産物の一般的な形態になり、すべての人々が商品所有者として互いに人格として認め合う社会、つまり資本主義社会においてこそ、初めて可能なのです。

 (ニ)アリストテレスの天才は、彼が諸商品の価値表現のなかに一つの質的同等性を見いだしているところにあると言えます。

 (ホ)ただ彼が生きた奴隷制社会という歴史的な限界が、彼が諸商品の同等性を見いだすことを不可能にしたのであり、だから彼はそうしたものは「ほんとうは」あり得ないのだが、社会が存続する上での実践上における必要がそれを可能にしているのだと、便宜的に解釈したのです。

 さて、このアリストテレスの例は、等価形態の第二と第三の特色を理解しやすくするものと説明されているのですが、もう一つ第二の特色と第三の特色との関連が、よく分かりません。もちろん、人間労働一般としての同等性、同等な妥当性がこれらの特色に関連しているといえば言えますが、しかし第二の特色(〈具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということ〉)とや第三の特色(〈私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということ〉)のそれぞれの内容が、このアリストテレスの例を見たあと〈もっと理解しやすいものにな〉ったかというと、なかなかそのようには思えません。しかしそれは私だけかも知れません。

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