『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(1)

2019-12-23 13:11:37 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.18(通算第68回)(1)

 

 

◎生産手段の価値の移転問題(大谷新著の紹介の続き) 

 前回は、大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」のなかの「第10章 商品および商品生産に関するいくつかの問題について」の〈論点2 価値の「論証」という偽問題について〉を取り上げました。今回はその次の〈論点3 社会的必要労働時間による生産手段からの移転価値の規定について--置塩信雄氏の見解の検討--〉からです。ここで取り上げられている問題は、私が以前所属していた組織内でも大きな論争になった問題でもありますので、少し詳しく論じたいと思います。若干、長くなりますが、ご了解ください。 

  まず大谷氏は置塩氏の問題提起を次のように紹介しています。

  〈「だれでも知っているように,1つの商品の生産には生産財と労働の投入が必要である。その商品への投下労働は,直接に投下される労働だけでなく,生産財を生産するのに投下される労働をも加算されなくてはならない。ところが,生産財を生産するのにも,労働だけでなく生産財の投入が必要である,等々。こうして,議論は堂々めぐりをはじめる。/この「難問」をどう解決するか。これが解決しないがぎり,マルクスの体系は,私にとっては,砂上の楼閣であった。」(同書,4-5ページ。)   氏は,この「難問」は,「つぎつぎに過去にさかのぼってゆき,最後に労働だけで生産財(人間の生産物である生産手段)の投入を必要としない原始的場面まで戻って,こんどは逆に労働を加算する方法」では解決できないとされる。なぜなら,氏の考えでは,「マルクスの体系の基礎としての投下労働量は,過去にさかのぼっていかほどの労働が投下されたかではなく,現存の生産技術のもとでその商品を生産するのにどれだけの労働が投下されねばならないかが問題」なのだからである。〉 (454頁) 

  ここには二つの問題があるように思えます。
    (1)生産手段に投下された労働はそれを生産する生産手段に投下された労働を一部分含むというように、どんどん遡って計算される必要があるのかどうか、という問題。
    (2)生産手段に投下された労働量というのは、それを使って生産する時点の生産力に規定された投下労働量なのかどうか、という問題です。
    置塩氏は(2)の理由から(1)のようにどんどん遡っていくことは出来ないとします。そしてどうしても数学的方法が必要として数式を提示するのですが、その数式はここでは紹介は省きます。
    大谷氏の批判は、まず(2)に対するものです。それは次のようなものです。 

 原料の小麦の価値は,原料の小麦の播種以前に規定されていたのであって,それが生産に入り,生産物の小麦のなかに移転したのだからである。今年の生産に使われる原料の小麦の価値は,この小麦を生産した昨年の生産における社会的必要労働時間によって規定されているのである。〉 (456頁、太字は大谷氏による強調箇所)
 〈つまり生産手段の価値はそれが生産に入る以前に,それ以前の生産での社会的必要労働時間によって規定されているのだ,〉 (457頁)
   〈ただ,商品生産の場合には,価値とは労働生産物に,つまり人間の外部に存在する物に対象化したものであって,それは社会的必要労働時間によって決定されるということから,生産手段の価値も,それが生産過程に入るときの(それが生産物を生産し終えたときの,ではなく)社会的必要労働時間によって決定されるのであって,それが実際に生産されたときの社会的必要労働時間によって決定されるのではない,という独自の事情が付け加わるというわけである。この事情は,たとえば,充用されてきている機械が現在では社会的平均的にかつてよりもはるかに安価に生産されるために,いまでは,それから生産物のなかに移転する価値もわずかになってしまう,といったかたちで大きな問題をもたらすのであるが,だからと言って,生産手段からの移転価値も,新価値が創造される時点での社会的必要労働時間によって規定されると考えなければならないのだ,などということになるわけではない。〉 (458頁)
   〈このように見てくると,置塩氏のさきの「問題」そのものが,問題であることがわかる。すなわち,氏は,「マルクスの体系の基礎としての投下労働量は,過去にさかのぼっていかほどの労働が投下されたかではなく,現存の生産技術のもとでその商品を生産するのにどれだけの労働が投下されねばならないかが問題なのである」,と言われていたのであるが,「現存の生産技術のもとでその商品を生産するのにどれだけの労働が投下されねばならないか」というのは,まさに生きた労働の量について言われるべきことで,生産手段の価値については,これと区別して,「生産手段をその商品の生産に充用する前の時点での生産技術のもとでその生産手段を生産するのにどれだけの労働が投下されねばならないか」が問題なのである。この二つの時点がどんなに接近したものであったとしても,その先後関係は明確にされなければならないのであって,そうだとすれば,置塩氏の言われる「商品の投下労働量の決定」の式は,さきに見たように,t1=α1t1 +τ1 ではなくて,t1=α1t'1 +τ1 でなければならないということになり,氏の立論は意味をなさないものとなるのである。〉 (460頁) 

  出てくる数式は、これだけでは意味不明かも知れませんが、それはまあ問わないとして、以上が大体、(2)に対する大谷氏の主張です。最後の要約も同じ問題を論じていますので、前後しますがそれもついでに抜粋しておきましょう。 

  〈要約しよう。ある生産の生産物が他の生産に生産手段として入っていくという関係が,社会的にどんなに複雑に絡み合ったかたちで存在するとしても,生産手段が生産に入るときには,その価値はすでに与えられたものであって,その生産以前の時点で社会的必要労働時間によって規定されている。だから,生産手段の価値減価などの問題を考えるときには,その生産手段によって生産される生産物の完成の時点とほとんど同時的にそれの現在の価値を考えなければならないとしても,理論的には,それの生産が開始されるときにはすでにその生産手段の価値は決まっていたと考えなければならず,したがって,その時点は生産物の完成の時点よりも以前でなければならない。そうでなければ,生産物の完成の時点でようやく,生産物自身の価値ばかりでなく,生産手段の価値までも確定される,という奇妙なことになるのだからである。置塩氏の t1=α1t1 +τ1 とは,まさにこのような,生産物の価値と生産手段の価値との同時決定,あるいは相互依存的決定を表わす式である。この式は「商品の投下労働量の決定」の式ではあっても,商品の価値の規定を表わすものではありえない。〉 (460-461頁) 

  では(1)の問題についてはどうかというと、それについては大谷氏は次のように述べています(出てくる数式の説明はやりだすと大変になことになるので省略します)。 

 〈しかし,そうだとすれば,このt'1も,これに使用された小麦はその前年の小麦の価値によって規定されることになり,結局,「つぎつぎに過去にさかのぼってゆき,最後に労働だけで生産財(人間の生産物である生産手段)の投入を必要としない原始的場面まで戻って,こんどは逆に労働を加算する方法」(置塩氏)をとらざるをえないことにならないであろうか。そのとおりなのである。「原始的場面」であるかどうかはともかくとして,この小麦の事例では,生産物である小麦を原料に使用するかぎりは,まさにそのようにして,価値が決定されているということにならざるをえない。しかし,このことは,小麦の生産者が毎年こういう計算をしていることを意味するのではまったくない。彼は,年々,自分の小麦の価値を価格の形態ではっきりとつかんでいるのであって,翌年はそれにもとついて原料価格を考えればいいのだからである。〉 (457頁)

   このように大谷氏は生産手段の価値をどんどん遡って、生産手段の投入を必要としない原始的場面まで遡らざるを得ないということを、〈そのとおりなのである〉と肯定しています。同じ問題を論じている部分をさらに抜粋しておきましょう。 

  〈だが,一歩立ち止まって,置塩氏が言われる,「最後に労働だけで生産財(人間の生産物である生産手段)の投入を必要としない原始的場面まで戻る」ことがおかしいかどうかを見ておこう。
  およそ,生産物の生産費用としての抽象的労働を考えるかぎり,それのなかには生産手段の生産費用も含められなければならない。そうだとすれば,計算可能であるかどうかは別として--そしてじっさい計算できるかどうか,そのような計算が意味をもつかどうかはまったく別の問題である--,生産手段が労働生産物であり,それがまた労働生産物である生産手段を消費して生産されたものであるかぎり,生産物の生産費用には,それらの生産手段の生産に必要であった抽象的労働のすべてが入ると言わなければならない。それでは,その遡及はどこまでいってもきりがないか。いや,置塩氏が「最後に労働だけで生産財(人間の生産物である生産手段)の投入を必要としない原始的場面」なるものが,「原始的」であるかどうかはともかく,確実にあるはずである。なぜなら「道具をつくる動物」である人間も,どこかではじめて道具をつくるようになったのであって,そのときから,道具の生産に抽象的労働を,つまり費用をかけはじめたのだからである。にもかかわらず,それからあとも,人間はつねに生産のなかで人間の労働生産物ではない生産手段,つまりなんの生産費用もかかっていない生産手段を充用してきたし,現在でもそうである。すなわち,人間にとっての「天然の武器庫」である大地が供給する労働対象である。人間の最初の生産は,この大地が供給するがままの労働手段によって大地が与える労働対象を変形加工することであったはずである。そうだとすると,生産物を生産するどんな過去の労働も,結局は,生きた労働に帰着することにならざるをえない(第10.6図)。 (図は省略)
   これを価値について言えば,一切の旧価値が結局のところ,新価値の創造以前のどこかで創造された価値に帰着する,ということになる。ただし,その旧価値の大きさは,それを含んでいる生産手段が生産過程に入る前の時点での社会的必要労働時間によって決定されるのである。
 
  念のために言っておかなければならないが,ここで述べたことは,いわゆる「アダム・スミスのⅴ+mのドグマ」,つまり社会の総生産物の価値は全部収入に分解するという考え方が正しいということではない。むしろ逆に,これまで述べてきたように,さきの「原始的場面」を除けば(そして資本主義的生産では,およそそのような「場面」は問題になりようがない),どんな生産に用いられる生産手段も,その生産以前に生産されたものであり,それ以前に形成された価値を含んだ生産手段を前提する,ということである。そうだとすれば,年間の総生産物の再生産がどのように行なわれるか,ということを考察しようとするときは,前年度に生産されてすでに価値が規定されている総生産物を前提しなければならない。そしてこの生産物の一部が今年度生産手段として充用されるのである。だから,社会の総生産物が不変資本価値(c)--つまり生産手段の移転価値--を含んでいなければならないのであり,この点でスミスのドグマは誤っているのである。〉 (458-460頁) 

   私はこの問題を将来の社会では生産手段はその使用価値、そしてその物質的生産力(だからそれが生きた労働と結合する場合の技術的構成)だけが問題になり、それに過去に如何なる労働が支出されたか、ということは問題になり得ないと論じたことがあります(「林理論批判」という連載のなかで)。それを今すぐに思い出すことは出来ませんが、大谷氏は結局、生産手段に投下された労働量というものはどんどん遡らざるを得ないという結論らしいのですが、果たしてそれが正しいのかどうかが問題だと思います。
  ただこの問題は確かに"難問"なのであって、マルクスが書いた『資本論』の最後の草稿である第2部第8草稿のなかで(エンゲルス版では第20章第10節「資本と収入 可変資本と労賃」に該当する部分です。この部分は草稿では「単純再生産」の一番最後にあるのですが、エンゲルスがここに移したのです)、最初にわざわざ部門Ⅰ(生産手段の生産部門)のc(不変資本)を問題にすると断っておきながら(草稿にあるこの冒頭の文章はエンゲルスによって削除されていますが)、結局、途中から問題意識が逸れてⅠ 1000v(可変資本)とII(生活手段生産部門) 1000cの関係の問題に問題意識をそらしてしまった(あるいはそこからさらに展開する予定だったのかも知れませんが、それを途中で打ち切ってしまった)ことの、あるいは隠された理由ではないかと私は勘繰っているほどなのです。しかし大谷氏は大谷氏らしくそれについて真面目に回答しようとしているかのようです。しかしそれが果たして正しいのかどうかについては私は疑問を持っています。
 そもそも生産手段に対象化された過去の労働(つまりその価値)が、なぜ問題になるのかを考えてみる必要があります。それはそれらの労働が直接には私的労働として支出されたものであり、直接には社会的関係を持ったものとして支出されたものではないがために、それらの社会的関係が価値として(そしてその移転として)現われているものなのです。もし生産手段が前もって社会的に結びついた労働によって生産されたものなら、その生産手段にどれだけの労働が過去に支出されたのか(そしてそれが今日の生産物の中にどのように引き継がれるのか)というようことは問題にもならず、それらの使用価値だけが問題になり、それらを使って生産する過程での、生きた労働と結合するときの技術的条件(原料や機械等の生産手段の使用価値量と生きた労働量、だからその生産に割り当てられる労働力の数との割合)だけが問題になるだけなのです。
 このように考えたときに、生産手段の価値がどこまでいま現在の生産において問題になるのかということは、それらに支出された過去の労働と現在の生きた形で支出されるものとの社会的関係がどこまで問われるのかということと関連していることが分かります。確かに抽象的に考えるなら、生産手段の生産手段、さらにその生産手段の生産のための生産手段といくらでも無限に支出された労働を過去に遡ることは可能でしょう。そして究極的には大谷氏のいうように、最終的に生産手段を必要としない生産に行き当たると考えることも可能です。しかしそれは問題を単に抽象的に考えているからそうなるのであって、現実の生産過程やその社会的関係としてはそうしたものではありません。
 社会全体をみれば、生産物として存在するものは、その使用価値の具体的形態によって、①一つは消費手段であり(衣服など)、②その消費手段を生産するための生産手段であり(布や糸など)、③さらには生産手段を生産するための生産手段(綿花や機械など)です。使用価値の具体的な形態から考えるなら社会的にはこの三つのものしか存在しないのです(もっとも現実にはこれらの両者にまたがるものや、中間的なものもありますがそれらは今は捨象しておきます)。そして社会はそれらを年々再生産して社会的生産と生活を維持しているのです。そう考えれば、問題はまず社会の構成員の年々の消費を考えて、その経験にもとづく数値として、①が年々どれだけのものが生産物として生産される必要があるかが問題になり、そしてそれを生産する過程で②がどれだけ年々消費されるか(よって再生産される必要があるか)が問題になります。そしてそれらを再生産する過程で③がどれだけ年々消費されるか(よってまたその再生産が必要か)が問題になるだけなのです。そしてこれらはすべてそれぞれの使用価値に固有の数量が問われているだけであり、しかもそれを生産するために年間に支出される生きた労働の量だけが問われているだけなのです。だから、ここには過去の労働など入る余地はまったくないのです。そしてこれらは決して計算・計測不可能なものではありません。それらは年々の経験によって数値として出てきます。それぞれの生産分野の生産力(すなわち技術的構成)が分かっていれば、どれだけの生きた労働をそれぞれの生産分野に一年間に配分すべきかも分かってきます。だから生産手段の価値の移転分がどうで、そこにはさらに年を遡った過去の労働分がどれだけあるか、などという計算はまったく不必要なのです。詳しくは以前書いたものを参照してください(上記ブログを参照)。 

  やや大谷氏の新著の紹介が長くなりすぎましたが、前回の続きに取りかかりましょう。今回は第6パラグラフから、「c 鋳貨。価値章標」の最後までです。

 

◎第6パラグラフ(紙幣流通の独自の法則)

 

【6】〈(イ)1ポンド・スターリングとか5ポンド・スターリングなどの貨幣名の印刷されてある紙券が、国家によって外から流通過程に投げこまれる。(ロ)それが現実に同名の金の額に代わって流通するかぎり、その運動にはただ貨幣流通そのものの諸法則が反映するだけである。(ハ)紙幣流通の独自な法則は、ただ金にたいする紙幣の代表関係から生じうるだけである。(ニ)そして、この法則は、簡単に言えば、次のようなことである。(ホ)すなわち、紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされる金(または銀)が現実に流通しなければならないであろう量に制限されるべきである、というのである。(ヘ)ところで、流通部面が吸収しうる金量は、たしかに、ある平均水準の上下に絶えず動揺している。(ト)とはいえ、与えられた一国における流通手段の量は、経験的に確認される一定の最小限より下にはけっして下がらない。(チ)この最小量が絶えずその成分を取り替えるということ、すなわち、つねに違った金片から成っているということは、もちろん、この最小量の大きさを少しも変えはしないし、それが流通部面を絶えず駆けまわっているということを少しも変えはしない。(リ)それだからこそ、この最小量は紙製の象徴によって置き替えられることができるのである。(ヌ)これに反して、もし今日すべての流通水路がその貨幣吸収能力の最大限度まで紙幣で満たされてしまうならば、これらの水路は、商品流通の変動のために明日はあふれてしまうかもしれない。(ル)およそ限度というものがなくなってしまうのである。(ヲ)しかし、紙幣がその限度、すなわち流通しうるであろう同じ名称の金鋳貨の量を越えても、それは、一般的な信用崩壊の危険は別として、商品世界のなかでは、やはり、この世界の内在的な諸法則によって規定されている金量、つまりちょうど代表されうるだけの金量を表わしているのである。(ワ)紙券の量が、たとえば1オンスずつの金のかわりに2オンスずつの金を表わすとすれば、事実上、たとえば1ポンド・スターリングは、たとえば1/4オンスの金のかわりに1/8オンスの金の貨幣名となる。(カ)結果は、ちょうど価格の尺度としての金の機能が変えられたようなものである。(ヨ)したがって、以前は1ポンドという価格で表わされていたのと同じ価値が、いまでは2ポンドという価格で表わされることになるのである。〉

 

 (イ)(ロ) 1ポンド・スターリングとか5ポンド・スターリングなどの貨幣名の印刷されてある紙券が、国家によって外から流通過程に投げこまれます。それが現実に同名の金の額に代わって流通しているかぎり、それの運動にはただ貨幣流通そのものの諸法則が反映しているだけです。 

  1ポンドとか5ポンドなどの名称が印刷されている紙券が、国家によって外から流通過程に投げ込まれたとします。それらが現実に度量標準によって決められた同じ額だけの金に代わって通用するのなら、それらの運動はただ貨幣の流通法則に則っているだけです。つまりそれらの流通量は、流通する商品の価格総額と貨幣の流通速度に規定されることになります。
  ここでマルクスは〈紙券が、国家によって外から流通過程に投げこまれ〉と書いています。これを読んでどんなイメージを持つでしょうか? 国家が流通に投げ込むというのは、一つの比喩であって、実際には、国家が紙券を発行して、それで何らかの商品を購入するということです。それは歴史的には国家財政の支出のために租税収入の不足を補う形で、国家紙幣を発行して、それでさまざまな国家に必要な諸商品を購入したり、国家のためにさまざまな事業を行なう資本にその費用を支払ったり、あるいは国家に雇われている役員の給与を支払うわけです。それが紙幣が国家によって流通の外から投げ込まれるということの内容なのです。(ここで国家が発行した紙幣で何らかの商品を購入するだけではなくて、直接、紙幣で金を購入する、つまり紙幣と金貨や金地金と交換するということはないのか、という意見がありましたが、これはやはり無いのではないかと思います。紙幣はあくまでも流通手段に特化したものですが、金地金や金貨はそれ自体価値を持つものであり、蓄蔵も可能なものですから、それらの所持者がその時点で流通手段を必要としているときであればともかく、そうでなければそれを紙幣と交換するということはないのではないでしょうか。)
  ここで〈外から流通過程に投げこまれ〉とありますが、金鋳貨の場合は、現実の商品流通の過程に存在している金地金を、政府が鋳造した金貨と交換することによって、それは流通に出て行きます。だからそれは〈外から〉ではないことになります。
  本来の貨幣としての金そのものは、金産源地において他の諸商品との直接的な交換によって流通過程に入ってきます。マルクスはこの金産源地における金と他商品との直接的な交換を流通過程にあいている「穴」だと述べていました。その意味ではあるいはこれも流通過程の〈外から〉金が投入されるといえるのかも知れません。しかしいうまでもなく、金の生産には一定の社会的に必要な労働が支出されており、価値を持っています。産源地における直接的な交換は等価交換なのです。
  しかし国家紙幣の場合、それはただ国家が印刷機を回して作ったものであり、それ自体にはほとんど価値のないものです。政府はそれを政府の支出として何らかの商品の購入や役員の雇用等のために支出することによって流通に投じることになるわけです。この場合、紙幣は、流通の外から入ってきますが、しかし商品との等価交換として入ってくるわけではありません。ただ本来的に流通過程にその存在が前提されている流通手段としての金鋳貨を代理するものとして流通過程に入ってくるわけです。しかしそれが流通手段であるなら、そのGはW-Gの過程を経たGでなければなりません。しかし政府が発行する紙幣はそうしたものではありません。だからそれは〈外から〉流通過程に入ってくるといえるのかもしれません。しかし内容から考えるなら、現実の流通過程そのものにとっては〈外から〉とはいえません。なぜなら、それは本来的に流通過程にある金片の代わりに、それを代理するものとして流通するのだからです。しかし形式的にはやはり〈外から〉であり、だからこそそれは流通過程が必要とする金鋳貨の量以上に流通過程に投げ込むことができるわけです。そうなればそれは内容からみてもそれは〈外から〉になるといえます。
  いずれにせよ、現実に流通する金貨に代わって流通する限りでは(つまり紙券の量が流通に必要な金量の枠内にある限りでは)、紙券は貨幣の流通法則に規制されて流通することになるわけです。

   (ハ)(ニ)(ホ) 紙幣流通の独自な法則は、ただ金にたいする紙幣の代表関係から生じうるだけです。そして、この法則とは、まさに次のことです。すなわち、紙幣の発行額は、紙幣によって象徴的に表わされる金(または銀)が現実に流通しなければならないはずの量に制限されるべきだ、ということです。 

   先の場合には、紙券の運動には、貨幣流通の諸法則が反映されているとありましたが、ここでは〈紙幣流通の独自な法則〉というものが問題になっています。つまり紙券の流通にはそれに固有の法則があるというのです。ではそれはどんなものでしょうか。
  それは〈ただ金にたいする紙幣の代表関係から生じうるだけで〉すが、〈紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされる金(または銀)が現実に流通しなければならないであろう量に制限されるべきである〉というものだそうです。
  しかしそもそも紙幣の発行量が紙幣が代理する金量の枠内に制限されているなら、それは貨幣流通の諸法則に規制されているということではなかったでしょうか。だからここで紙幣流通に独自なものとは、〈制限されるべきである〉というところにあるように思えます。つまり例え紙券がその制限を越えて発行されたとしても、それはその代理しなければならない貨幣量しか代理し得ないのだということです。それが紙幣流通の独自性なのです。例えば流通に必要な貨幣量が1000万ポンド・スターリングだった場合(この量は現実に流通する商品の価格総額と貨幣の平均的な流通速度によって決まってきます)、1ポンド券を例えば2000万枚発行したとしても、その紙券に書かれた額面では2000万ボンドになる紙券は、しかしただ1000万ボンド・スターリングの貨幣の代理として流通するだけだということなのです。つまり1ポンド券は実際には1ポンド金貨を代理していると言えず、その半分しか代理していないことになります。つまり1ポンド券は"減価"するのです。そしてそれによってその価格が実現される商品の価格が騰貴することでもあります。なぜなら商品の価値が同じなら、金鋳貨で1ポンドの商品は、1ポンドの紙券だと2枚必要になり、だから2ポンドと評価されることになるからです。これが紙幣流通の独自の法則なのです。 

  (ヘ)(ト)(チ)(リ) ところで、流通部面が吸収することのできる金量は、たしかに、ある平均水準の上下に絶えず動揺しています。けれども、ある与えられた国における流通する媒介物の量が、経験的に確認される一定の最小限よりも少なくなることはけっしてありません。この最小量が絶えずその成分を取り替えるということ、すなわち、つねに違った金片から成っているということは、もちろん、この最小量の大きさを少しも変えはしませんし、それが流通部面を絶えず駆けまわっているということをも少しも変えはしません。だからこそ、この最小量は紙製の象徴(シンボル)によって置き替えられることができるのです。 

  〈流通部面が吸収しうる金量〉というのは、流通する商品の価格総額と貨幣の平均的な流通速度によって決まってきますが、それは絶えず増減しています。しかしある国の流通する媒介物の量は、経験的には一定量よりも少なくなることはない最低限というものがあります。それはこの流通量がその社会の物質代謝の現実に規制されていることから出てきます。それはその社会が社会として維持して再生産されていくために必要最小限の量ということでもあるわけです。この必要最小限の金量というのは、それを構成するさまざまな金貨幣(金片)によって成り立っており、それらが絶えず入れ代わっていることも容易に想像できます。しかしそれを構成する諸部分がどんなに入れ替わっても、全体としての必要最小量というものは依然として存在しているというわけです。だからこの必要最小量のものについては、つねに流通手段としてだけ機能していることになりますから、紙製の象徴(ようするに紙券)と置き換えることできるということです。だからこの限りでは紙券の運動は貨幣の流通法則に規制されているといえます。 

  (ヌ)(ル) これとは反対に、もし今日すべての流通水路がその貨幣吸収能力の最大限度まで紙幣で満たされてしまったならば、これらの水路は明日、商品流通の変動〔すなわち流通に必要な貨幣総額の減少〕の結果、あふれてしまう、ということが起こりえます。およそ限度というものがなくなってしまうのです。 

  しかしもしその必要最小量の金量がすべて紙券によって置き換えられてしまった場合はどうなるでしょうか。そうなれば、必要最低金量の増減によっては、紙券がその枠を越えてしまうことにもなりかねません。必要最低金量が増大する場合は、紙券の不足分は金鋳貨が流通するでしょうが、減少する場合、紙券は流通必要金量より大きくなることになります。紙券の場合は金とは違って、流通に不要なものは流通から引き上げられるということがありませんから(なぜなら紙券には価値はほとんど無いですから、流通から引き上げられた紙券はただの紙屑になるからです)、相変わらず流通に留まり続け、結果として、流通に必要な金量より多い紙券が流通する事態が生じてきます。そうなると〈国家によって外から流通過程に投げこまれる〉ということから、歯止めが効かなくなります。つまり国家が紙幣を恣意的に流通必要最小限の金の量を越えて乱発することになりかねません。そうなると先に見た〈紙幣流通の独自な法則〉が問題になってくるわけです。 

  (ヲ) しかし、紙幣がその限度、すなわち流通できるはずの同じ名称の金鋳貨の量を越えても、それは、一般的な信用崩壊の危険が生じうるという危険を別とすれば、商品世界のなかでは、やはり、商品世界の内在的な諸法則によって規定されている金量、つまりそれが代表できるだけの金量を表わしているのです。 

   フランス語版ではここで改行しています。
   その〈紙幣流通の独自な法則〉というのは〈紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表わされる金(または銀)が現実に流通しなければならないであろう量に制限されるべきである〉というものでした。つまり紙幣の流通量が、例え流通に必要な最小の金量を越えたとしても、それは一般的な信用危機が生じる可能性を別にすれば、紙券はそのまま流通手段として流通しますが、しかしその代わりに商品世界で貫徹している法則が自己を貫徹するというわけです。つまり流通に必要な金量というのは、商品流通の法則そのものですから、結局、例え流通必要金量を越えて発行された紙券であっても、その必要量以上のものは代理できない、つまりその必要量しか代理できないということになるのです。 

  (ワ)(カ)(ヨ) 紙券の量が、たとえば金鋳貨であれば流通できるはずの総量の二倍になって、それぞれの紙券が本来のそれぞれ2オンスずつの金の代わってそれぞれ1オンスずつの金を表わすとすれば、事実上、たとえば1ポンド・スターリングは、おおよそ1/4オンスの金に代わっておおよそ1/8オンスの金の貨幣名となります。もたらされる結果は、金が価格の尺度としてのそれの機能において変更されたとした場合の結果と同じです。ですから、以前は1ポンドという価格で表わされていたのと同じ価値が、いまでは2ポンドという価格で表わされることになるのです。 

  だから例えば、金鋳貨であれば流通できるはずの総量の二倍の紙券が流通することになれば、それぞれの紙券が本来なら2オンスの金に代わって流通するものが、結局、それぞれが1オンスの金を代理して流通することになるわけです。ということは、事実上、1ポンド券は、1/4オンスの金に代わって、1/8オンスの金を代理していることになります。これは1ポンドが、1/4オンスの金の貨幣名ではなく、1/8オンスの金の貨幣名になるということと同じです。だから以前は1ポンドという価格で表されていた商品の価値が、いまでは2ポンドという価格で表されることになるのです。つまり商品の価格が騰貴するということです。
 『経済学批判』には次のような一文があります。 

 〈紙幣は正しい量で発行されるならば、価値章標としてのそれに固有でない運動をとげるのに、紙幣に固有な運動は、諸商品の変態からは直接に生じないで、金にたいするその正しい比率の侵害から生じる〉 (全集第13巻102頁) 

 つまり紙幣が正しい量、すなわち流通に必要な金量以上にならないような量で、発行されているならば、それは貨幣の流通法則に則っているだけですが、しかし商品変態に必要な金量を超えて発行されれば、紙幣に独自な運動が生じてくるということです。つまり“減価”する(それが代表する金量が減少する)ということです。

 

  (字数がブログの制限をオーバーしましたので、全体を3分割して掲載します。)

 

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