『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第4回「『資本論』を読む会」の報告

2008-07-31 12:23:14 | マルクス

◎夏真っ盛り、とにかく暑い!(@_@)

 関西地方も梅雨が明け、第4回「『資本論』を読む会」が開催された20日も、お日さんがカンカンと照りつける好天日だった。こんな日には、若い者なら海や山に、あるいはプールへと、老人たちは静かに家でクーラーの効いた部屋で昼寝でもやりたいものではある。何が因果かこのクソ暑い中、昼日中にノコノコと出かけなければならないのか、などと愚痴をこぼしながら、とにかく出かける羽目に相成った。

 泉が丘駅から会場の図書館までほんの2~300m歩道橋を歩いていくのだが、途中から日差しを避けるものが何もなく、私は持っていた汗ふきタオルを頭に乗せて、照り返しの強い歩道橋を汗をタラタラ流しながら歩いた。

 しかしこんなに暑くても、ありがたい事に会場はクーラーが効いていた。私たちは第2集会室を利用したのだが、この部屋も4~50人規模の大きな部屋。それを私たちはたった4人で利用した。こんな大きな部屋をたった4人で、しかもクーラーを効かせて、タダで使用するのは何となく気が引けるというか、後ろめたい気持ちが否めない。私たちはもっと小さな部屋があればそれで十分なのだが、あいにく図書館に併設されている集会室にはそうした適当な大きさのものがない。もっとも私たちの隣の第1集会室(これも4~50人規模の大きな部屋だが)を利用しているグループもたったの3人ほどのようだったので、まあ何とかその後ろめたさがやや和らいだというか、私たちだけが罪深いことをしているのではないという安堵感のようなものがあったことは確かである。

 こんな大きな集会室だが、部屋を借りてくれているピースさんの話では、案外に土日は空いているのだそうである。平日の夜はさまざまなサークルで一杯のようだが、土日は誰もが休みたいのか、利用者は少ないという。それに図書館に併設されていることから、その利用目的が制限されている(「読書会」や「読み聞かせ会」、「お話し会」等々のグループの利用が多いようです)ことも、会場が案外空いている理由のように思える。いずれにせよ、とにかくありがたい事ではある。

 ◎「価値」を導き出すややこしい論理

 さて、いよいよ私たちの『資本論』を読む会も佳境に入り、これまで多くの人達が議論し、論争してきた部分にさしかかってきた。まずその部分を全文引用しておこう。

 《使用価値としては、諸商品は、何よりもまず、相異なる質であるが、交換価値としては、相異なる量でしかありえず、したがって、一原子の使用価値も含まない。

 そこで、諸商品体の使用価値を度外視すれば、諸商品体にまだ残っているのは、ただ一つの属性、すなわち労働生産物という属性だけである。しかし、労働生産物もまたすでにわれわれの手で変えられている。もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消しさられている。それはまた、もはや、指物(サシモノ)労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。

 そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。 諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現れた。そこで今、実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、今まさに規定された通りのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表している共通物とは、商品の価値である。……》(全集版51-2頁)

 何とも複雑な論理で、頭がこんがらがってしまいそうである。

 ピースさんは、「どうして、マルクスはこんなに回りくどい説明をしているのかなあ、“諸商品を互いに質的に区別している諸使用価値を捨象したら、あとに残るそれらの共通物がすなわち価値である”とスッキリ説明したらどうしてアカンのやろ」と疑問を出した。

 実際、マルクスも引用文の最後のパラグラフでは《実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、……それらの価値が得られる》とスッキリ説明している。

 もっともこれだと価値の実体が説明されたことにはならないのだが、だからマルクスはそれを説明するために色々と工夫したのではないか、ということになった。

 そこで初版ではここはどのように説明していたのかを見てみた。次のようになっている。

  《交換価値の実体が商品の物理的な手でつかある存在または使用価値としての商品の定在とはまったく違ったものであり独立なものであるということは、商品の交換関係がひと目でこれを示している。この交換関係は、まさに使用価値の捨象によって特徴づけられているのである。すなわち、交換価値から見れば、ある一つの商品は、それがただ正しい割合でそこにありさえすれば、どのほかの商品ともまったく同じなのである。

 それゆえ、諸商品は、それらの交換関係からは独立に、またはそれらが諸交換-価値として現われる場合の形態からは独立に、まず第一に、単なる諸価値として考察されるべきなのである。

 諸使用対象または諸財貨としては、諸商品は物体的に違っている諸物である。これに反して、諸商品の価値存在は諸商品の統一性をなしている。この統一性は、自然から生ずるのではなくて、社会から生ずるのである。いろいろに違う諸使用価値においてただ違って表わされるだけの、共通な社会的な実体、それは--労働である。 諸価値としては諸商品は結晶した労働よりほかのなにものでもない。(以下、価値の量の考察に移っている)》(岡崎訳・国民文庫24-5頁)

  なるほど、初版では全体に簡潔だし、ここにはまだ「抽象的人間労働」といったタームもでて来ない。ただ「共通な社会的実体」としての「労働」が指摘されているのみである。そして論理としてはむしろスッキリしているような印象を与える。

 しかしこれが第二版のための「補足と改訂」(1871年12月-1872年2月執筆)だと次のようになってくる。

 《そこで,諸商品体の使用価値を度外視すれば,諸商品体にまだ残っているのは,一つの属性,労働生産物という属性だけである。しかし,労働生産物もまたすでにわれわれの手によって変えられている。もしわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば,われわれは,労働生産物を有用にしている,すなわち使用価値にしている肉体的諸成分と形態をも捨象しているのである。それはもはや,テーブル,家,糸,等その他なんらかの使用対象ではない。その感性的性状はすべて消し去られている。したがって,それはまた,もはや,指物労働,建築労働,紡績労働,あるいはその他何かある一定の有用的生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格とともに,労働生産物に含まれている労働の有用的性格も消えうせ,したがってまた,ある労働がなにかある一つの使用対象を生産するときの,一定の具体的形態も消えうせる。

 そこで,これらの労働生産物にのこっているものを考察しよう。いま,一つの商品は他の商品と同しようにみえる。それらはすべて,何かあるものの同じまぼろしのような対象性以外の物ではない。何のか? 区別のない,人間的労働の,すなわち,その支出の特殊な,有用的な,規定された形態にかかわりのない人間的労働力の支出の対象性である。これらの物が現わしているのは,それらの生産に人間的労働力が支出されており,人間的労働が堆積されている,ということ以外のなにものでもない。それらに共通な,この社会的実体の結晶として--これらの物は価値である。

 われわれは次のことを見てきた。--諸商品の交換関係あるいはそれらの交換価値の形態そのものは,交換価値を使用価値の抽象と,特徴づけた。使用価値の抽象が現実に行われ,いままさに規定されたとおりのそれらの価値が得られる。(以下、略)》(小黒正夫訳『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』第5・7号56頁)

 これは現行版にかなり近くなっているが、まだ「抽象的人間労働」というタームそのものはこの範囲では出て来ない。しかしこの『補足と改訂』にはそのすぐあとに次のような注目すべき言及がある。

 《労働生産物を,それらの非常に多様な使用対象性とは異なる,同し種類の価値対象性に還元するさいに,一つの状況を見過ごしてはならない。すなわち,諸労働生産物が価値対象性を持つ,あるいは価値つまり単なる労働凝固であるのは,それらのなかに実現されているさまざまな具体的諸労働が,すべて抽象的人間的労働に還元されているからに他ならない,ということである。》(同)

  第二版ではこの二つが合わさって現行のような敍述になったと考えられるであろう。

  さて、この部分について、戦前から今日に至るまで多くの議論がなされてきたのだが、それについては次回の報告の時にでも検討することにして、今回はこのぐらいにしよう。

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