『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.19(通算第69回)(3)

2020-02-14 21:12:09 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.19(通算第69回)(3)

 

【付属資料】


●第3節の表題

《経済学批判要綱》

 〈第2に、循環は、貨幣がただ尺度としても、交換手段としても、またその両者としても適用するだけでなく、第3の規定をもっていることをすでに含んでいる。ここでは貨幣は、第1に、自己目的として現われ、商品取引と交換とはただとの自己目的を実現するのに役立つにすぎない。第2に、ここでは循環が貨幣で終わるから、貨幣によってその等価物と交換された商品が流通から投げだされるように、貨幣は循環の外部に出ていく。貨幣が流通の作用因としてだけ規定されているかぎりでは、貨幣はいつも流通の循環のなかに閉じこめられたままであるということは、きわめて正しい。しかし、ここで示されているのは、貨幣はこの流通用具以外のなにか他のものであること、〔貨幣は〕また流通の外部で一つの自立した存在をもっており、この新しい規定においては、商品がたえず流通から最終的に引きぬかれなければならないのと同じように、流通から引きぬかれることができるということである。このようにしてわれわれは、貨幣をその第3規定で考察しなければならなくなる。この規定では、貨幣は最初の両規定を規定として自己のうちに含み、したがって尺度として役立つという規定も、一般的交換手段であり、それゆえ諸商品価格の実現であるという規定も、ともに含んでいるのである。〉(草稿集①214頁)
  〈G-W-W-G。ここでは、貨幣は、たんに手段として現われるだけではなく、また尺度として現われるだけでもなく、貨幣は自己目的として現われる。したがってまた流通から抜けだしてゆくのであるが、それは、その循環をまず完了して、商い物から消費物になってしまった特定の商品が、流通から抜けだしてゆくのと、同じことなのである。……
  貨幣の第3規定は、その完全な発展したかたちにおいては、初めの両規定を想定しており、両規定の統一である。したがって貨幣は流通の外で自立した存在をもっている。つまり貨幣は流通から抜けだしている。特殊的商品として、貨幣は、その貨幣という形態から奢侈品、つまり金銀装飾品の形態に転化されることがあり(たとえば英国の比較的古い時代のように、工芸がきわめて単純であるあいだは、銀貨幣から食器類〔plate〕への転化、またはその反対の転化が、たえず行なわれていた。テイラーを見よ)、あるときはまた、貨幣として蓄積され〔aufgehäuft〕、このようにして蓄蔵貨幣〔Schatz〕を形成することがある。貨幣がその自立的存在のかたちで流通から出てくるかぎりでは、貨幣の自立的存在それ自体が流通の結果として現われる。つまり貨幣は流通をつうじて自分自身と結合する。この規定性のうちに、資本としての貨幣の規定が、潜在的にはすでに含まれている。貨幣はたんに交換手段であるにすぎぬものとしては否定されている。それにもかかわらず、歴史的には、貨幣は交換手段として現われるまえに、尺度として措定されていることもありうるし、また、尺度として措定されるまえに、交換手段として現われることもありうるのだから--後者のばあいには、貨幣はただ特別に好まれる商品として存在するだけであろうが--、貨幣はまた、さきの両規定において措定されるまえに、歴史的に第3規定において現われることもありうるのである。しかし金および銀は、それらが両規定のどちらか一方の規定においてすでに現存しているばあいにかぎって、貨幣として蓄積されることができる、また、貨幣がさきの両規定において発展しているばあいにかぎって、貨幣は、第3規定においても発展したかたちで現われることができるのである。さもなければ、貨幣の蓄積はただ金と銀の蓄積であるにすぎず、貨幣の蓄積とはならない。……
  富の普遍的物質的代表物としての貨幣が流通から生じ、そしてそのようなものとしてそれ自体が流通の産物--流通とは同時により高い潜勢力〔Potenz〕をもった交換であり、交換の一つの特殊的形態でもある--であるかぎりでは、貨幣は、この第3規定においてもなお流通に関連している。つまり、貨幣は自立的なものとして流通に対立している、がしかし、このような貨幣の自立性は流通それ自身の過程にほかならない。貨幣は流通から出てくるとともに、ふたたび流通のなかにはいっていく。もしかりに流通にたいするあらゆる関連を貨幣からとり除いてしまうとすれば、貨幣は貨幣ではなくなり、一つの単純な自然対象、つまり金と銀であるにすぎない、ということになる。貨幣は、この〔第3〕規定においては、流通の前提でもあれば、またその結果でもある。貨幣の自立性とは、それ自体としては、流通への関連が停止してしまうことなのではなく、流通にたいする否定的関連のことなのである。〉(同235-238頁)
 〈貨幣を貨幣としてのその完全な規定性において把握することをとくに困難にしているもの--経済学は、貨幣の諸規定の一つを他の規定のために忘れたり、一つの規定に異論がつきつけられると他の規定に訴える、というやりかたで、これらの困難をまぬがれようとする--は、一つの社会関係、つまり諸個人相互間の一つの規定された関連が、ここではある金属として、ある石として、すなわち彼らの外部にある純粋に物体的な物象として現われ、しかもこの物象は自然のうちにそのままの姿で見いだされ、またその自然的存在から区別されるような形態規定はもはやなに一つそこに残されていない、ということである。金や銀はそれ自体としては貨幣ではない。自然が為替相場や銀行家を生み出すわけではないのと同様、自然が貨幣を生み出しはしない。ぺルーやメキシコでは、金銀は、装飾品としては存在し、しかも完成した生産組織がそこには見いだされるのに、貨幣としては使われなかった。貨幣であるということは、金銀の自然的性質ではなく、したがって物理学者、化学者などは貨幣としての金銀などはまったく知らない。だが貨幣は、直接に金銀である。尺度としてみれば、貨幣はなお形態規定が主となっており、このことが外的にも貨幣の刻印をおびて現われている鋳貨としてみれば、いっそうそうである。しかし第3規定においては、すなわち尺度であり鋳貨であるということが貨幣の機能として現われるにすぎない貨幣の完成状態においては、あらゆる形態規定は消滅している、すなわちそれは貨幣の金属存在と直接に一致している。そこでは、貨幣であるという規定がただ社会的過程の結果にすぎないということは全然みえていない。その存在自体貨幣なのである〔en ist Geld〕。〉(同273-274頁)

《経済学批判》

  〈3 貨幣

  W-G-Wの形態の流通過程の結果である鋳貨と区別した貨幣は、G-W-G、すなわち商品を貨幣と交換するために貨幣を商品と交換するという形態の流通過程の出発点をなしている。W-G-W の形態では商品が、G-W-Gの形態では貨幣が、運動の出発点と終点とをなしている。はじめの形態では貨幣が商品交換を媒介し、あとの形態では貨幣が貨幣になるのを商品が媒介している。はじめの形態では流通の たんなる手段として現われる貨幣は、あとの形態では流通の終極目的として現われ、他方、はじめの形態で終極目的として現われる商品は、第二の形態ではたんなる手段として現われる。貨幣そのものがすでに流通W-G-Wの結果なのであるから、G-W-Gの形態では、流通の結果が同時にその出発点として現われる。W-G-Wでは物質代謝が現実的内容をなしているのに、この第一の過程から生じた商品の形態定在そのものが、第二の過程G-W-Gの現実的内容をなしている。〉(102頁)

《初版》

  〈C 貨幣〉(江夏訳124頁)

《フランス語版》

  〈第3節 貨幣<La monnaie ou l'argent>〉(江夏・上杉訳110頁)


●前文

《経済学批判要綱》

 〈さてこんどは、貨幣の第三規定にうつることにするが、この規定はさしあたり、流通の第二形態から生じる。すなわち、
  G-W-W-G。ここでは、貨幣は、たんに手段として現われるだけではなく、また尺度として現われるだけでもなく、貨幣は自己目的として現われる。したがってまた流通から抜けだしてゆくのであるが、それは、その循環をまず完了して、商い物から消費物になってしまった特定の商品が、流通から抜けだしてゆくのと、同じことなのである。〉(草稿集①235頁)
  〈それゆえ、流通から生じ、流通に対立して自立するものとしての、第三規定における貨幣は、鋳貨としての貨幣の性格をもまた否定するのである。貨幣が金銀に溶かし直されているか、またはただ金銀純分の量目にしたがって評価されるにすぎないかをとわず、貨幣は、ふたたび金と銀として現われる。貨幣はまたふたたび国民的性格を失い、諸国民のあいだの交換手段として、つまり普遍的な交換手段として役立つが、しかしそれは、もはや章標としてではなくて、一定の分量の金銀としてである。それゆえ、もっとも発展した国際的交換制度においては、金銀が最初の物物交換においてすでに一つの役割をはたしたさいの形態とまったく同一の形態で、ふたたび現われるのである。すでに指摘したように、金と銀とが現われるのは、交換そのものが現われるばあいと同様に、本源的には、一つの社会的共同団体の範域の内部においてではなくて、それがつきるところ、それの境界においてであり、つまりその共同団体が他の共同団体と接触する、あまり多くない地点においてである。こうして金銀は、いまや、商品そのものとして、すべての場所で商品としてのその性格を保ちつづける普遍的商品として措定されて現われる。金銀は、この形態規定からすれば、すべての場所で一様に通用する。このようなものとしてだけ、金銀は一般的富の物質的代表物なのである。〉(草稿集①250-251頁)
  〈さきに見たように、自立して流通からぬけ出し、流通に対立するものとしての貨幣は、流通手段および尺度としての貨幣の規定の否定(〔両規定の〕否定的統一である。……
  第1に。貨幣はそのものとしての流通手段の否定、鋳貨の否定である。しかし同時に、貨幣は、たえず鋳貨に転形されうることによって、否定的に、これをみずからの規定として含んでおり、また世界鋳貨としては肯定的に含んでいる。……
  第2に。貨幣は諸商品の諸価格のたんなる実現としての自己の否定であり、そのばあいには特殊的商品がつねにあくまでも本質的なものである。というよりもむしろ、貨幣は自分自身のうちで実現した価格となり、そのようなものとして貨幣は、富の特殊的諸実体にすぎないすべての商品に対立する、富の物質的代表物ならびに富の一般的形態となるのである。しかし、
  第3に。貨幣が諸交換価値の尺度であるにすぎないという規定においてもまた、貨幣は否定されている。富の一般的形態として、ならびに富の物質的代表物として、貨幣はもはや他者の、つまり諸交換価値の、観念的尺度ではない。なぜなら、貨幣はそれ自体が交換価値の適切な現実性であり、しかもその金属的定在のままの姿において交換価値の適切な現実性となっているからである。尺度規定は、ここでは、貨幣それ自体にそくして措定されなければならない。貨幣はそれ自身の単位であって、貨幣の価値の尺度、富としての、交換価値としての貨幣の尺度は、貨幣が自分自身によって表示するその量である。つまり単位として役立つところの、貨幣自身のある分量の集合数なのである。尺度としては貨幣の集合数はどうでもよかったし、流通手段としては貨幣の物質性、単位となるものの物質はどうでもよかった。この第3規定における貨幣としては、一定の物質的分量としての貨幣それ自体の集合数が本質的となる。一般的富としての貨幣の質が前提されれば、量的区別以外の区別は貨幣にはもはやないのである。貨幣はいまや、同じ貨幣の規定された分量として、それが所持される集合数の多いか少ないかにしたがって、一般的富の多いか少ないかを表わすのである。貨幣が一般的富であれば、人がそれを所持することが多ければ多いほど、その人は富裕であり、そして各個人にとっても、諸国民にとっても、唯一の重要な過程は貨幣の積み立て〔Anhäufen〕である。貨幣の規定にしたがって、ここでは貨幣は流通からぬけ出るものとして登場した。いまや、貨幣の流通からのこの引出しとその溜め込み〔Aufspeichern〕が、致富衝動の本質的対象として、致富の本質的過程として現われる。私は金銀というかたちで一般的富をその純粋な形態においてもっており、私がそれを積み立てれば積み立てるほど、ますます多くの一般的富を自分のものにすることになる。金銀が一般的富を代表するとしても、それが限定された諸量であるかぎりは、金銀は、限定された程度においてだけ一般的富を代表するにすぎないが、その程度は無際限に拡大することが可能である。金銀を流通からくり返して引揚げることとして示される、こうした金銀の蓄積〔Accumulation〕は、同時に流通にたいする一般的富の安全保障〔In-Sicherheit-Bringen〕でもある。流通においては、一般的富はつねに、特殊的な富と、最終的には消費されて消滅してゆく富と交換されて、失われてしまうのである。〉(草稿集①253-257頁)

《マルクスからエンゲルスへの書簡(1858年4月2日付け)》

  〈(c) 貨幣としての貨幣。これは形態G-W-W-Gの発展だ。流通にたいして独立な価値定在としての貨幣。抽象的な富の物質的な定在。それは、ただ流通手段として現われるだけでなくて価値を実現するものとして現われるかぎりでは、すでに流通において現われている。この(c)の属性では(a)〔「尺度としての貨幣」のこと--引用者〕も(b)〔「交換手段としての貨幣。または単純な流通」--同〕もただ諸機能として現われるだけだが、この(c)の属性にあっては、貨幣は、諸契約の一般的商品であり(ここでは貨幣の価値の、すなわち労働時間によって規定された価値の、可変性が重要になる)、蓄蔵の対象である。(この機能は、アジアでは今日なお重要なものとして現われ、また古代世界や中世では一般にそうだった。今日ではただ銀行業で従属的に存在するにすぎない。恐慌時にはふたたびこの形態での貨幣の重要性が現われる。この形態にある貨幣が、それの生み出す世界史的な幻想とともに考察される、等々。破壊的な諸属性、等々。)価値がそれにおいて現われるであろうところの、すべてのより高度な形態の実現として。いっさいの価値関係がそれにおいて外的に完結するところの、最終的な諸形態。だが、貨幣は、この形態に固定されれば、経済的関係ではなくなり、この形態は貨幣の物質的な担い手なる金銀において消滅する。他方、貨幣が流通にはいってふたたびWと交換されるかぎりでは、終結過程たる商品の消費はふたたび経済的関係から脱落する。単純な貨幣流通は、自己再生産の原理をそれ自身のうちにもっておらず、したがってそれ自身を越えて進むことを命ずる。貨幣において--その諸規定の発展が示すように--、流通にはいりこみ流通のなかで自己を維持すると同時に流通そのものを生み出す価値の要求が定立される--資本。この移行は同時に歴史的だ。資本の古い形態は商業資本であり、商業資本はつねに貨幣を発展させる。同時に、貨幣または商人資本からの、生産を掌握する現実の資本の発生。
  (d) この単純な流通はブルジョア社会の表面であって、それが出てくるところの、もっと深い所で行なわれる諸操作は、そこでは消え去っているのだが、このようなそれ自体として考察された単純な流通は、交換のいろいろな主体のあいだの相違を、ただ形態的で一時的な相違のほかには、なにも示していない。これこそは、自由と平等と「労働」にもとつく所有との国なのだ。ここで貨幣蓄蔵という形で現われる蓄積は、ただより大きな節約でしかない、等々。そこで、一方では、より発展した諸生産関係やそれらの諸敵対関係にたいしてこの最も表面的で最も抽象的なものをそれらの真実として主張するという、経済的調和論者や近代的自由貿易論者たち(バテティアやケアリなど) の愚劣さ。また、この等価物交換(またはそういうものと仮定されるもの) に対応する平等やその他の諸観念を、この交換がそこに帰着するとかそこから出てくるとかいう不平等にたいする反対論として主張するプルドン主義者や類似の社会主義者たちの愚劣さ。この部面での取得の法則として現われるのは、労働による取得、等価物交換だから、交換はただ同じ価値を別の具体物で返すだけだ。要するに、ここではいっさいが「美しい」。だが、すぐにどぎもを抜かれるような結末になるだろう。しかも等価の法則にしたがって。そこでわれわれは次のものに到達する。〉(全集第29巻248-249頁)

《経済学批判》

  〈金、すなわち価値の尺度として、また流通手段として役だつ独特な商品は、社会のそれ以上の助けがなくても貨幣となる。銀が価値の尺度でもなく支配的な流通手段でもないイギリスで、銀が貨幣にならないのは、オランダで金が価値尺度としての地位を奪われるとたちまち貨幣でなくなったのと、まったく同様である。だからある商品は、まず価値尺度と流通手段との統一として貨幣となる。言いかえるならば、価値尺度と流通手段との統一が貨幣である。だが、そのような統一としては、金はさらに、これら二つの機能におけるその定在とは異なった独立の実在をもつ。価値の尺度としては、金はただ観念的な貨幣であり、観念的な金であるにすぎない。たんなる流通手段としては、金は象徴的な貨幣であり、象徴的な金である。しかしその単純な金属の現身では金は貨幣である。言いかえれぽ、貨幣は現実の金である。
  さてしばらくのあいだ、われわれは、貨幣である休止している商品の金を、他の諸商品との関係で考察しよう。すべての商品は、その価格では一定額の金を代表しており、したがってただ表象された金ないし表象された貨幣にすぎず、金の代理者にすぎない。それは逆に価値章標では、貨幣が商品価格のたんなる代理者として現われたのと同様である。このようにすべての商品はただ表象された貨幣にすぎないから、貨幣は唯一の現実的な商品である。交換価値、一般的社会的労働、抽象的富の独立の定在をただ表象しているにすぎない諸商品とは反対に、金は抽象的富の物質的定在である。使用価値の面から言えば、どの商品も特殊な欲望にたいするるその関係をつうじてただ素材的富の一契機を表現するにすぎず、富のただ個別化された一面だけを表現するにすぎない。しかし貨幣は、どんな欲望の対象にも直接に転化されうるかぎりで、どんな欲望をもみたす。貨幣自身の使用価値は、その等価物をなす諸使用価値の無限の系列のうちに実現されている。貨幣はそのまじりけのない金属性のなかに、商品世界でくりひろげられているいっさいの素材的富を未展開のままふくんでいる。だから諸商品がそれらの価格で一般的等価物、つまり抽象的富、金を代表しているとすれば、金はその使用価値ですべての商品の使用価値を代表しているのである。金は、したがって素材的富の物質的代理者である。それは「すべてのものの要約」〔préxis de toutes les choses〕(ボアギユベール)であり、社会的富の概括である。それは、形態から言えば一般的労働の直接的化身であると同時に、内容から言えばすべての現実的労働の総括である。それは個体としての一般的富である。流通の媒介者としてのその姿では、金はありとあらゆる冷遇をこうむり、けずりとられて、あげくのはてにはただの象徴的な紙切れにまで薄くされた。だが貨幣としては、金にはその金色の栄光が返上される。それは奴僕から主人になる。それはただの手伝いから諸商品の神となる。〉(全集第13巻103-104頁)

《初版》

  〈価値尺度として機能し、したがってまた自分自身かまたは代理者によって流通手段として機能する商品が、貨幣である。だから金(または銀)は貨幣である。金(または銀)が貨幣として機能するのは、一方では、それが金の(または銀の)生身のままで、したがって貨幣商品として、現われていなければならないばあい、つまり、価値尺度のばあいのようにたんに観念的にでもなく流通手段のばあいのように代理可能としてでもなく、現われていなければならないばあいであり、他方では、それの機能がよしんば金自身によって果たされようと代理者によって果たされようとそのいずれを問わず、それの機能が、金を、唯一の価値姿態あるいは交換価値の唯一の適当な存在として、単なる使用価値としての他のすべての商品にたいして、固定させるばあいである。〉(124頁)

《フランス語版》

  〈これまでわれわれは、貴金属を、価値尺度と流通手段という二重の姿態のもとで考察してきた。貴金属は、観念的な貨幣として第一の機能を果たし、第二の機能では象徴によって代表されることができる。だが、貴金属がその金属体のままで、商品の実在の等価物すなわち貨幣商品として現われねばならない機能が、存在する。もう一つの機能、すなわち、貴金属が、あるいはみずからあるいは代理人によって果たしえても、日用商品の価値の唯一無二の的確な化身としてこの商品につねに対面する機能も、存在する。どちらのばあいも、貴金属が厳密な意味での貨幣として、価値尺度や鋳貨としての機能と対照的に機能する、とわれわれは言うのである。〉(江夏・上杉訳110頁)

   久留間鮫造篇『マルクス経済学レキシコン』貨幣IIIでは同じフランス語版として次のような翻訳が紹介されている。
  〈〔〔フランス語版では,この個所が次のように更改されている。〕〕
  「これまでわれわれは,貴金属を価値尺度および流通手段という二重の属性から考察してきた。貴金属は,第1の機能を表象された観念的貨幣として果たし,第2の機能においては貨幣章標によって代理されうる。ところが,貴金属がその金の(または銀の)肉体のままで,それゆえ,価値尺度の場合のようにたんに観念的にでもなければ,流通手段の場合のように代理可能にでもなく貨幣商品として,現われねばならぬような諸機能がある。さらに,貴金属が自身ででも代用物によってでも果たすことができるが,しかしそこでは貴金属がたんなる使用価値としての他のすべての商品にたいして,それら諸商品の交換価値の唯一十全な定在として,すなわちただ1つの価値姿態として立ち現われる機能もある。すべてこれらの場合においては,われわれは,貴金属は価値尺度または鋳貨というその機能に対立して,本来の意味での貨幣〔フランス語では,monnaieあるいはargent〕として機能する,という。」〔〔ドイツ語訳はカウツキー。カウツキー版『資本論』第1巻,88ページ。〕〕〉(31頁)


●a 貨幣蓄蔵(表題)

《経済学批判》

  〈a 貨幣蓄蔵〉(全集第13巻105頁)

《初版》

  〈(a) 貨幣蓄蔵〉(江夏訳124頁)

《フランス語版》

  〈(a) 貨幣蓄蔵〉(江夏他訳110頁)


●第1パラグラフ

《経済学批判要綱》

  〈……鋳貨は,そのものとして,すなわちたんなる価値章標として孤立化されると,ただ流通を通じてだけ,そして流通のなかにだけあるのである。蓄積される場合でさえ,それはただ鋳貨として蓄積されうるにすぎない。なぜならその力は,国の境界でなくなるからである。流通の過程自体から生じ,本来は流通の休止点であるにすぎないところの,すなわち流通のための一定の鋳貨準備としての,ないしは国内鋳貨自体で行なわなければならない支払準備金としての貨幣蓄蔵の諸形態以外には,ここで貨幣蓄蔵一般は,したがって本来の貨幣蓄蔵は問題になりえない。なぜなら,価値章標としての鋳貨には,たんなる象徴的価値ではなくて,その社会的機能のほか価値そのものの直接的定在であるがゆえに,一定の社会的関係から独立した富であるという,貨幣蓄蔵の本質的要素が欠けているからである。だから,価値章標がそのような章標であることのためにそれを制約している諸法則は,金属貨幣を制約するものではない。なぜなら金属貨幣は,鋳貨の機能に閉じこめられてはいないからである。
  なおまた貨幣蓄蔵,すなわち流通からの貨幣の引きあげと一定の場所でのその集積は、多様なものであるということが明らかである。--〔〔1〕〕購買と販売との分離という単純な事実から,すなわち単純な流通そのものの直接的な機構から生じる一時的な蓄積,〔〔2〕〕貨幣の支払手段としての機能から生じる貨幣の蓄積。〔〔3〕〕最後に抽象的富としての貨幣を堅持し保管しようと欲する本来の貨幣蓄蔵,あるいはまた,直接的欲望をこえる現存する富の余剰としての,また将来への保障ないしは流通の不可抗的な梗塞の頻発する場合への保障としての貨幣蓄蔵。交換価値の自立化,その妥当な定在が,もはや金としての直接の物的な形態でしかながめられないこの後の方の諸形態は,ブルジョア社会ではしだいに消滅する。反対に,流通の機構そのものから生じ,その機能を遂行する条件となる貨幣蓄蔵の他の諸形態は,大いに発展する。もっともその形態はさまざまであるが,こうした形態は銀行制度で考察すべきである。〉(レキシコン 貨幣III 33-35頁)

《経済学批判》

  〈商品がその変態の過程を中断して、金の蛹(サナギ)となったままでいることによって、金はまず貨幣として流通手段から分離した。このことは、販売が購買に転化しないときにはいつでも生じる。だから貨幣としての金の独立化は、なによりもまず流通過程または商品の変態が、二つの分離した、無関係に並存する行為に分裂したことの明白な表現である。鋳貨そのものが、その進路が中断されると、貨幣となる。鋳貨は、商品と引き換えにそれを回収する売り手の手中では、貨幣であって鋳貨ではなく、彼の手を離れるとたちまちいまいちど鋳貨となる。だれもが彼が生産する一面的な商品の売り手であるが、しかし彼が社会的生存のために必要とする他のすぺての商品の買い手である。売り手としての彼の登場は、彼の商品の生産のために必要とする労働時間に依存するのに、買い手としての彼の登場は、生活上の必要がたえず更新されることによって制約される。売らないで買うことができるためには、彼は買わないで売っていなければならない。じっさい、流通W-G-Wは、それが同時に販売と購買との分離の不断の過程であるかぎりで、販売と購買との過程的統一であるにすぎない。貨幣が鋳貨としてたえず流れるためには、鋳貨はたえず貨幣となって凝固しなけれぽならない。鋳貨のたえまない流通の条件は、鋳貨の大なり小なりの部分がたえず停滞して、鋳貨準備金--流通内部でいたるところに発生するとともに、この流通を制約するところの--をつくることであって、この準備金の形成、配分、解消、再形成はつねに交替し、その定在はたえず消滅し、その消滅はたえず定在する。アダム・スミスは、鋳貨の貨幣への、貨幣の鋳貨へのこの間断ない転化を次のように表現している。すなわち、どの商品所有者も、彼の売る特殊な商品とならんで、彼が買うための手段である一定額の一般的商品をつねに貯えておかなければならない、と。すでにみたように、流通W-G-Wでは、第二の環G-Wは、一度におこなわれないで時間的にあいついでおこなわれる一系列の購買に分裂するから、Gの一部分は鋳貨として流通するのに他の部分は貨幣として休止する。この場合、貨幣は実際には停止させられた鋳貨にほかならず、流通している鋳貨量の個々の構成部分は、たえず交互にあるいは一方の、あるいは他方の形態で現われる。だから、流通手段の貨幣への第一の転化は、貨幣流通そのもののたんに技術的な一契機をあらわしているのである*。
  ボアギユベールは、永久機関〔perpetuum mobile〕の最初の停止、すなわち流通手段としての貨幣の機能上の定在の否定のうちに、ただちに諸商品にたいする貨幣の独立化を感づいている。彼は言う。貨幣は「たえず運動して」いなければならない、「それは貨幣が動くことができるかぎりでのみ可能なことであり、それが動くことができなくなると、たちまち万事休すである。」(『フランス詳説』、213ページ)彼が見のがしていることは、この静止が貨幣の運動の条件だということである。彼が実際に言いたかったのは、諸商品の交換価値*はそれらの物質代謝のただ瞬時的な形態として現われ、けっして自己目的として固定するものではない、ということである。
  * 諸商品の価値形態、と言うべきである。〔自用本の注〕 〉(全集第13巻105-106頁)

《初版》

  〈二つの対立する商品変態の連続的な循環、すなわち販売と購買との涜動的な転換は、貨幣の絶え間ない流通のうちに、すなわち、流通の永久自動機関としての貨幣の機能のうちに、現われている。変態系列が中断され、販売がそれに続く購買によって補われなくなるやいなや、貨幣は動かなくなり、または、ボァギュベールが言うように、可動なものから不動なものに、鋳貨から貨幣に、転化する。〉(江夏訳124頁)

《フランス語版》

  〈二つの相反する商品変態の循環運動、すなわち販売と購買との不断の交替は、貨幣の倦むことを知らぬ流通によって現われる、すなわち、流通の永久自動機関<perpetuum mobile>としての貨幣の機能のなかに現われる。変態系列が中断するやいなや、販売のあとに購買が続かなくなるやいなや、貨幣は動かなくなる、すなわち、ボアギュベールの言うように、可動なものから不動なものに、鋳貨から貨幣に転化される。〉(江夏・小杉訳110頁)


●第2パラグラフ

《経済学批判要綱》

 〈「商業は肉体から影を引きはなし、両者を別々に保持する可能性をもたらしたのである。」(シスモンディ。) したがって貨幣は、いまでは、その一般的形態において自立化した交換価値(交換手段としての貨幣がそのような自立化した交換価値として現われるにしても、それは、つねに、消滅してゆくものであるにすぎない)である。貨幣は、たしかに、一つの特殊的な有体性〔Körperlichkeit〕、すなわち金と銀という実体〔Substanz〕をもっており、しかもこのことがまさしく、貨幣にその自立性をあたえているのである。なぜなら、ただ他のものに付随して、他のものの規定または関連として存在するにすぎないものは、自立的なものではないからである。他方では、金と銀としてのこのような有体的自立性のかたちで、貨幣は一方の商品の交換価値を他方の商品にたいして代表するばかりでなく、すべての商品にたいしてその交換価値を代表している。しかも貨幣それ自体が一つの実体をもちつつも、貨幣は、金と銀としてのその特殊的な存在のかたちで、同時に他の諸商品の一般的交換価値として現われるのである。一方では、貨幣が所持されるのは、諸商品の交換価値としてであり、他方では、諸商品は、諸商品の数と同数の、交換価値の特殊的諸実体として存在している。そうであるからこそ、交換価値は、諸実体のもつ規定性や特殊性には無関心であり、またそれらのうえに超越していればいるだけ、これらの諸実体のいずれにでも交換をとおして転化してゆくことができるのである。それゆえ諸商品は偶然的な存在にすぎない。貨幣は「すべての物の概括〔Pteéis de toutes les choses〕」であり、そこでは商品のもつ特殊的性格は消えうせている。つまり、貨幣とは、商品世界において富が拡散し分散していることとは対照的な、筒潔な要約〔kurzgefaßtes Compendium〕としての一般的富なのである。特殊的商品においては、富は商品の一契機として現われる、いいかえれば商品が富の特殊的な一契機として現われるが、これにたいして、金と銀においては、一般的な富それ自体が特殊的物質に集約されたものとして現われる。特殊的商品はいずれも、それが交換価値であり、価格をもつかぎりでは、それ自体としては、ただ一定の分量の貨幣をある不完全な形態で表現しているにすぎない。なぜなら商品は、実現されるために、まず流通に投じられなければならず、しかもそれが実現されるか、されないかは、その商品のもつ特殊性のゆえに、あくまでも偶然的なものにとどまるからである。しかし商品が、価格としてあるのではなく、その自然的規定性においてあるかぎりでは、その商品が満たす特殊的な欲求にたいするその商品の関連によって富の契機であるにすぎない。そして〔欲求にたいする〕この関連においては、商品は、(1)使用上の富〔Gsbrauchsreichthum〕だけを、(2)この富のまったく特殊的な一側面だけを表現しているにすぎない。反対に貨幣は、価値をもつ商品としてのその特殊的な有用性を別とすれば、(1)実現された価格であり、(2)どんな特殊性にたいしてもまったく無関心に、どんな欲求の対象とでも交換されるかぎりでは、どんな欲求をも満たすのである。商品は、貨幣を媒介とすることによってのみ、このような性質をもつにすぎない。貨幣はすべての商品にたいして、したがって富の全世界にたいして、富そのものにたいして、直接に、このような性質をもっている。貨幣においては、一般的富は一つの形態であるばかりでなく、同時に内容それ自体でもある。富の概念は、〔貨幣においては〕いわば特殊的な対象に実現され、個体化されて〔indivisualisirt〕いる。特殊的商品においては、商品が価格であるかぎりでは、富は、まだ実現されていない、観念的形態として措定されているにすぎない。商品が一定の使用価値をもっているかぎりでは、商品は使用価値のまったく個別化された一側面を表現しているにすぎない。反対に、貨幣においては、価格は実現されており、貨幣の実体は、それが富の特殊的な存在諸様式を抽象されているという点からみても、またそれが富の総体性〔Totakität〕であるという点からみても、富そのものである。交換価値は貨幣の実体をなしており、交換価値は富である。したがって他方では、貨幣は、富を構成している特殊的な諸実体のすべてにたいして、富の有体化された形態でもある。だから、一方では、貨幣が対自的に〔für sich--それだけを別個にとりだして〕考察されるかぎりでは、富の形態と内容とは貨幣においては同一的であるが、他方では、他のすべての商品との対立において〔貨幣が考察されるかぎりでは〕、これらの商品にたいしては--これらの諸特殊性の総体が富の実体をなしているにもかかわらず--富の一般的形態なのである。貨幣は、前者の規定からすれば、富そのものであるとすれば、後者の規定からすれば、富の一般的物質的代表物なのである。貨幣それ自体においては、この〔富の〕総体性が諸商品の表象された総括〔vorgestellter Inbegriff〕として存在している。したがって富(総体性としての、また抽象としての交換価値)は、他のすべての商品を排除することによって初めて、そのものとして金および銀という姿に個体化されて、手につかめる一つの個別的な対象〔ein einzelner hndgreiflicher Gegenstand〕として存在するのである。それゆえ貨幣は諸商品のなかの神である。〉(草稿集①239-241頁)
 〈それゆえ貨幣は、手につかめる個別化された対象としては、偶然的に探し求め、見つけだし、盗み、発見することができるものであり、しかも一般的富は、手につかめるかたちで個々の個人の占有〔Besitz〕のもとにおくことができる。貨幣はたんなる流通手段としては、僕(シモベ)の姿〔Knechtsgestalt〕をもって現われたものだが、この僕の姿から、突然に、貨幣は、諸商品の世界の支配者および神〔Herrscher und Gott〕になる。貨幣は諸商品の天国的存在を表わしており、これにたいして諸商品は貨幣の現世的存在を表わしている。〉(草稿集①242頁)

《経済学批判》

  〈対象化された労働時間としては、金はそれ自身の価値の大きさを保証している。そして金は一般的労働時間の物質化したものであるから、金が交換価値としていつでも作用することを、流通過程が金にたいして保証する。商品所有者は商品を交換価値としての姿で、あるいは交換価値そのものを商品として、しっかりにぎっていることができるという事実そのものによって、商品を金という転化された姿でとりもどすための商品の交換が流通の本来の動機となる。商品の変態W-Gは、商品の変態そのもののために、すなわち商品を特殊な自然的富から一般的社会的富に転化するためにおこなわれる。物質代謝に代わって形態転換が自己目的となる。交換価値は、運動のたんなる形式からその内容に一変する。商品が富として、商品として自己を保つのは、ただそれが流通の領域内にとどまっているかぎりにおいてだけであり、それがこういう流動状態にとどまっているのは、ただそれが銀や金に硬化するかぎりだけのことである。それは、流通過程の結晶として流動状態にとどまるのである。ところが、金や銀は流通手段でないかぎりでだけ、貨幣として固定する。金銀は非流通手段として貨幣となる。だから商品を金の形態で流通から引き揚げることは、商品をたえず流通の内部にとどめておく唯一の手段である。〉(全集第13巻107頁)
  〈しかし実際には、貨幣のための貨幣の貯めこみは、生産のための生産の、すなわち伝来の欲望の制限を越えた社会的労働の生産力の発展の未開な形態である。商品生産が未発展であればあるほど、交換価値の貨幣としての最初の独立化、つまり貨幣蓄蔵はますます重要である。だから貨幣蓄蔵は古代諸民族にあっては大きな役割を演じており、アジアではいまにいたるまでそうであり、交換価値がまだすべての生産諸関係をとらえるにいたっていない近代の農業諸民族にあってもそうである。〉(全集第13巻113頁)

《初版》

  〈商品流通そのものの最初の発展につれて、第一変態の産物、すなわち、商品の転化された姿態あるいは商品の金蛹(サナギ)を、固持するということ(69)の必要と情熱とが、発展する。商品が、商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態に置き換えるために、売られる。この形態変換は、物質代謝の単なる媒介からぬけ出て自己目的になる。商品の脱ぎ捨てられた姿態は、商品の絶対に譲渡可能な姿態あるいはほんの束の間の貨幣形態として機能することを、阻止される。こうして、貨幣が蓄蔵貨幣に石化し、商品の売り手が貨幣蓄蔵者になる。〉(江夏訳124頁)

《フランス語版》

  〈商品流通が発展するやいなや、第一変態の産物、金または銀の蛹に変わった商品を、固定し保持しようとする必要と欲求もまた、発展する(36)。そうなると、他の商品を買うためばかりでなく、商品形態を貨幣形態で置き換えるためにも、蒔品が売られる。貨幣流通のなかで故意に足をとめられた貨幣は、蓄蔵貨幣になることによって、いわば石化し、売り手は貨幣蓄蔵者に変わる。〉(江夏・上杉訳110-111頁)


●原注86

《初版》

  〈(69)「貨幣状態の富は、貨幣に変えられた生産物状態の富……にほかならな。」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、前掲書、557ページ。)「生産物状態の価値は、形態を変えただけのことである。」(同上、486ページ。)〉(江夏訳125頁)

《フランス語版》

  〈(36) 「貨幣状態の富は、貨幣に変えられた生産物状態の富……にほかならない」(メルシエ・ド・ラ・リヴィエール、前掲書、573ページ)。「生産物状態の価値は、形態を変えただけのことである」(同上、486ページ)。〉(江夏・上杉訳111頁)


●第3パラグラフ

《経済学批判》

  〈富の最初の原生的な形態は過剰または余剰という形態であり、生産物のうち使用価値としては直接に必要とされない部分であり、あるいはまたその使用価値がたんなる必需品の範囲をこえるような生産物の所有である。商品から貨幣への移行を考察したさいに見たように、生産物のこういう過剃または余剰が、未発達の生産段階では、商品交換の本来の領域をなしている。過剰な生産物は、交換できる生産物すなわち商品となる。この過剰の十全な存在形態が金と銀であり、金銀は富が抽象的社会的富としてとらえられる最初の形態である。諸商品が金または銀の形態で、すなわち貨幣の材料で保存されうるというだけではなく、金銀は保蔵された形態の富である。使用価値はどれも消費されることによって、すなわち消滅させられることによって使用価値として役にたつ。しかし貨幣としての金の使用価値は、交換価値の担い手であることであり、形態のない素材として一般的労働時間の物質化したものであることである。形態のない金属として、交換価値は不滅の形態をもつ。このように貨幣として不動化された金または銀が、蓄蔵貨幣である。古代人の場合のように、純粋な金属流通をもっていた民族にあっては、貨幣蓄蔵は個々人から国家にいたるまでの全面的な過程として現われるのであって、国家はその国有蓄蔵貨幣を保管するのである。もっと古い時代には、アジアやエジプトでは、国王や僧侶が保管していたこういう蓄蔵貨幣は、むしろ彼らの権力の証拠として現われる。ギリシアやローマでは、余剰のいつでも確実な、いつでも利用できる形態として国有蓄蔵貨幣をつくることが政策となっている。こういう蓄蔵貨幣が征服者によって一国から他国へ急速に輸送されること、その一部分が突然流通のなかへ流れ入ることは、古代経済の一つの特徴をなしている。〉(106-107頁)

《初版》

  〈商品流通が始まったばかりのときには、使用価値の余剰分だけが貨幣に転化する。こうして、金銀はおのずから、余剰分または富の社会的表現になる。貨幣蓄蔵のこういった素朴な形態が永久化されているのは、固く閉ざされた必要範囲が伝統的な自給自足的生産様式に対応している、といったような諸民族のばあいである。アジア人ことにインド人のばあいは、そうである。ヴアンダリントは、商品価格は一国内にある金銀の量によって規定される、と妄信しているが、彼は、なぜインドの商品はあれほど安いのか? と自問して、インド人は貨幣を埋蔵するからだ、と答えている。彼が述べるところによると、1602-1734年に、インド人は、もともとアメリカからヨーロッパに流れてきた1億5000万ポンド・スターリングの銀を埋蔵した(70)。1856-1866年に、つまり10年間に、イギリスは、インドとシナに(シナに輸出された金属は大部分再びインドに流れてくる)、以前にオーストラリアの金と交換された1億2000万ポンド・スターリングの銀を輸出した。〉(江夏訳125頁)

《フランス語版》

  〈とりわけ流通の端初では、使用価値の余剰分だけが貨幣商品と交換される。金や銀はこうしておのずから、余剰分と富との社会的な表現になる。伝統的な生産様式が狭い範囲の停滞的な必要を直接にみたしている諸国民のあいだでは、この素朴な貨幣蓄蔵形態が永遠化する。わずかな流通と多くの蓄蔵貨幣とが存在する。このことはアジア人のあいだで、殊にインド人のあいだで行なわれている。価格は一国内にある貴金属がどれだけ多量であるかに依存する、と思いこんでいる老ヴァンダリントは、インドの商品がなぜあれほど安いのか? と自問している。彼は、インド人は貨幣を地中に埋めるからだ、と言う。彼が述べるところでは、インド人はこうして、1602年から1734年までに、当初アメリカからヨーロッパにやってきた1億5000万ポンド・スターリングの銀を地中に埋めた(37)。1856年から1866年までに、つまり10年間に、イギリスは、以前にオーストラリアの金と交換された1億2000万ポンド・スターリングの銀を、インドとシナに輸出した(シナに輸入された金属は大部分がインドに逆流する)。〉(江夏・上杉訳111頁)


●原注87

《初版》

  〈(70) 「こうした操作で、彼らは自分たちの全財貨と金製品とをこうも低い値段に保っている。」(ヴアンダリント、前掲書、95、96ページ。)〉(江夏訳125頁)

《フランス語版》

  〈(37) 「このような慣行によって、彼らは自分たちの物品と製品とをあれほど安い値段に保っている」(ヴァンダリント、前掲書、95、96ぺージ)。〉(江夏・上杉訳111頁)


●第4パラグラフ

《経済学批判要綱》

  〈それゆえ貨幣は、手につかめる個別化された対象としては、偶然的に探し求め、見つけだし、盗み、発見することができるものであり、しかも一般的富は、手につかめるかたちで個々の個人の占有〔Besitz〕のもとにおくことができる。貨幣はたんなる流通手段としては、僕(シモベ)の姿〔Knechtsgestalt〕をもって現われたものだが、この僕の姿から、突然に、貨幣は、諸商品の世界の支配者および神〔Herrscher und Gott〕になる。貨幣は諸商品の天国的存在を表わしており、これにたいして諸商品は貨幣の現世的存在を表わしている。〉(草稿集①242頁)
  〈自然的富のどんな形態でも、富が交換価値によってとってかわられる以前には、それは、対象にたいする個人の一つの本質的な関連を想定しているのであって、その結果、個人は、彼の一つの側面にかんして、自身が物象というかたちで対象化されており、そして、個人による物象の占有は、同時に、彼の個体性の一つの規定された発展として現われるのである。つまり羊での富は、牧人としての個人の発展であり、穀物での富は、耕人としての個人の発展である、等々、これとは反対に貨幣は、一般的富の個体として、それ自身流通に由来して、ただ一般的なものだけを代表するにすぎぬものとして、ただ社会的結果にすぎないものとして、その占有者にたいする個人的関連をまったく想定していないのである。つまり貨幣を占有することは、貨幣の占有者の個体性の本質的諸側面のなんらかのものの発展ではなく、それは、むしろ、もろもろの没個体性〔Individualitätslose〕の占有なのである。なぜなら、この社会的〔関係〕が、同時に、一つの感性的、外的な対象としても存在しており、この対象を機械的にわがものとすることもできれば、同じくまた機械的にそれを喪失することもありうるからである。したがって貨幣の個人にたいする関連は、純粋に偶然的な関連として現われる。ところが、個人の個体性とはまったく関連していない物象にたいするこの関連こそが、同時に、この物象という性格によって、社会にたいする、つまり享楽、労働などの全世界にたいする一般的支配をその個人にあたえるのである。ちょうどそれは、たとえば一つの石を発見しさえすれば、私の個体性とはまったくかかわりなく、あらゆる科学の知識が私にあたえられることになったかのように思えるばあいと、同じことになる。貨幣の占有が、富(社会的富)にたいする関係において、私をはいりこませる関係は、賢者の石が、科学にかんして、私をはいりこませる関係と、まったく同一なのである。〉(草稿集①242-243頁)
  〈それゆえ、貨幣は致富欲〔Bereichetungssucht〕の一つの対象〔ein Gegenstand〕であるばかりでなく、致富欲のほかならぬその対象〔der Gegenstand〕なのである。致富欲は本質的にのろうべき黄金渇望〔auri sacrafames〕である。そのものとしての、衝動の特殊的形態としての致富欲、すなわち特殊的な富にたいする欲癖、したがってたとえば衣服、武器、装飾品、女、酒などにたいする欲癖、とは区別されたものとしての致富欲は、一般的富、そのものとしての富が一つの特殊的な物の姿をとって個体化されるようになったときに、はじめて可能となる。すなわち貨幣がその第三規定において措定されるようになったときに、はじめて可能となる。〉(草稿集①243-244頁)
  〈したがって貨幣は致富欲の対象であるばかりでなく、同時に致富欲の源泉でもある。所有欲〔Habsucht〕は貨幣がなくとも可能である。致富欲は、それ自身一定の社会的発展の産物であり、歴史的なものと対立した自然的〔なもの〕ではない。以上のことから、いっさいの悪の源泉は貨幣であるとする古典古代人〔Alten〕の悲嘆が生じたのである。〉(草稿集①244頁)

《経済学批判》

  〈社会的物質代謝が動揺させられる時期には、発展したブルジョア社会においてさえも、貨幣の蓄蔵貨幣としての埋蔵がおこなわれる。凝縮した形態での社会的関連--商品所有者にとってはこの関連は商品のうちにあり、そして、商品の十全な定在は貨幣である--は、社会的運動から救いだされる。社会的な事物の神経〔nervus rerum〕は、それを自分の神経とする肉体のかたわらに埋葬される。〉(全集第13巻111頁)

《初版》  初版では現行版の第4パラグラフと次の挿入文と第5パラグラフが一つのパラグラフになっている(現行版の原注の付けかたをみても、本来はこの初版の構成が正しいように思える)。全体を抜粋しておく。

  〈商品生産がなおいっそう発展するにつれて、どの商品生産者も、<nexus reum>「社会的質ぐさ」を確保しておかなければならない(71)。彼の必要は、絶えず更新され、他人の商品を絶えず買うようにと命令するが、他方、彼自身の商品の生産と販売とは、時間がかかり、偶然に左右されている。売ることなしに買うためには、彼はまえもって、買うことなしに売っていなければならない。こういった操作は、もしも一般的な規模で行なわれれば、自家撞着(ドウチャク)をきたすように見える。ところが、貴金属は、その原産地では他の諸商品と直接に交換しあう。ここでは、販売(商品所有者の側での)が購買(金銀所有者の側での)ぬきに行われる(72)。そして、これ以後の、あとに購買の続かない販売は、すべての商品所持者のあいだでの貴金属のいっそう広範な配分を、媒介するだけである。こうして、交易のすべての点に、大小さまざまな金銀蓄蔵が生ずる。商品を交換価値として、あるいは交換価値を商品として、固持する可能性とともに、黄金欲が目ざめてくる。商品流通の拡大につれて、貨幣の力が、すなわち、いつでも使える・絶対に社会的な・形態をもっところの富の力が、増大してくる。「金は驚嘆すべき物だ! それをもっている者は、自分が欲するすべての物の主人公だ。おまけに、金によって魂を天国に送り届けることもできる。」(コロンブス『ジャマイカからの手紙』、1503年)。貨幣を見てもなにがそれに転化したかはわからないから、商品であってもなくても、なんでも貨幣に転化する。なんでも売買できるものになる。流通は、なんでもそこに飛び込んできてそこから貨幣結晶として再び出てゆく大きな社会的レトルトになる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのであって、もっときゃしゃな、人々の取引の外にある、聖なる物にいたっては、なおさらそうである(73)。諸商品のいっさいの質的な差違が貨幣では消え去っているように、貨幣は貨幣でまた、急進的な平等主義者として、いっさいの差違を消し去ってしまう(74)。だが、貨幣はそれ自身、商品、すなわち誰の私有物にもなりうる外的な物である。こうして、社会的な力が私人の私的な力になる。だから、古代社会は、貨幣を、この社会の経済的および道徳的秩序の代用貨幣であると言って非難する(75)。すでにその幼年期にプルートーンの神〔ギリシア神話での富の神〕の髪をつかんで大地の底から引きずり出した(76)近代社会は、黄金の聖杯のうちに、自己自身の生活原理の絢爛(ケンラン)たる化身を謳歌している。〉(江夏訳125-126頁)

《フランス語版》 フランス語版ではコロンブスからの引用文は改行されず、第4パラグラフの一部になっている。そして第4パラグラフにつけられた原注はそのあとにつけられ、そのあとに第5パラグラフが続くようになっている(これはマルクス自身の編集であろうから、最終的なマルクスの考えとしてはこうした構成に帰着したといえるのかも知れない)。

  〈商品生産がある程度の発展に到達するやいなや、それぞれの生産者は貨幣を貯えておかねばならない。そのばあい、貨幣は「社会的質ぐさ」、すなわち、物の神経<nervus reum>である(38)。実際に、生産者がもつ必要は、絶えず更新され、他人の商品を買うことを絶えず彼に押しつけるが、他方、彼の商品の生産と販売は、長短の差はあれ時間を要し、数知れぬ偶然に左右される。売らないで買うためには、彼はまず買わないで売り終わっていなければならない。この操作が一般的に遂行されうるということは、矛盾のように見える。しかしながら、貴金属はその原産地で、他の商品と物物交換される。ここでは、販売(商品所有者の側での)が、購買(金銀の所有者の側での)なしに行なわれる(39)。そして、後続の購買によって補足されることのない、これより後の販売は、貴金属をすべての交換者のあいだに配分するだけである。このようにして、取引関係のすべての点で、金銀の貯蔵がきわめて多様な割合で形成される。商品を交換価値として、または交換価値を商品として、保持しておく可能性が、黄金への情熱を目ざめさせる。商品流通が拡大するにつれて、社会的富のつねに処分可能な絶対的形態である貨幣の力もまた増大する。「金は驚嘆すべぎ物だ! 金をもつ者は、自分の欲するすべてのものの主人公だ。金によって、霊魂に天国のとびらを開くことさえできる」(コロンブス『ジャマイカからの手紙』、1503年)。〉(江夏・上杉訳111-112頁)


●引用文

《経済学批判》

  〈(*) 「金は不思議なものである! それをもつ者は、彼の望むすべてのものの主人である。金をもってすれば、魂を天国にゆかせることができる。」(コロンブスのジャマイカからの手紙、1503年) 〔自用本の注〕〉(全集第13巻136頁)

《初版》   第4パラグラフに関連して紹介。

《フランス語版》 フランス語版では第4パラグラフの一部になっている。

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