『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第44回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2012-03-22 04:01:09 | 『資本論』

第44回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

◎教育労働者への不当な思想弾圧を許すな!

 大阪府教育委員会は、9日、卒業式での君が代斉唱時に起立しなかったのは、職務命令違反であるとして、17名の教師に対して戒告処分を言い渡したということです。特に一人の教師は勤務日では無かったのに、当日、校門前で保護者と生徒に日の丸・君が代の強制に反対するビラを配布し、そのあと式場に参列して、斉唱時に起立しなかったとして処分されたと新聞は報じています。

 教育労働者は、どうして卒業式や入学式において、日の丸・君が代の強制に反対しているのでしょうか。

 その理由は、その配布されたビラの内容をみれば分かります。そのビラには、まず「卒業おめでとう」と生徒や保護者に呼びかけながら、次のようにその理由について書かれています。

 「私たちがこうした強制や命令に反対する理由は、第二次世界大戦前の学校教育の中で日の丸や君が代が果たしていた役割を思い出すからです。戦前は『お国のために』『天皇陛下のために』といった愛国主義教育が行われ、多くの若者を戦場へ送り出したのです。そして、戦後、こうした経験を反省し、『二度と子供たちを戦場に送らない』『二度と戦争を起こさない』ことを私たちは教職員は誓ったのです」

 そして次のようにも述べています。

 「民主主義のもとになっている憲法の第12条には『この憲法が国民に保障する自由及び権利は.国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない』とあります。つまり憲法で保障されている『表現の自由』や『思想・信条の自由』も、私たちが自分たちの努力で、その権利を主張し、守っていかなければならないのです。だから私たちは、納得できないことに黙っているのは良くないと考えます。」

 そして最後に、『戦死せる教え子よ』と題する竹本源元の詩が掲載されています。

逝(い)いて還(かえ)らぬ教え児(ご)よ
わたしの手は血まみれだー
君をくびったその綱の
端(はし)を私も持っていた
しかも人の子の師の名において
鳴呼(ああ)ー
「お互いにだまされていた」の言い訳が何でできよう
慚愧(ざんき) 悔恨(かいこん) 懺悔(ざんげ)を重ねても
それがなんの償いになろう
逝(い)った君はもう還(かえ)らない
今ぞわたしは汚濁の手をすすぎ
涙をはらって君の墓標に誓う
「繰り返さぬぞ絶対に!」

 こうした教育労働者は、いわば日本の労働者階級の“良心”ともいうべき存在ではないでしょうか。時の権力が反動化して行くときに、真っ先に攻撃の対象になるのが、教育です。というのは将来の世代を担う子供たちを、まず思想的に改造することが、国民全体を反動的な思想に染め上げていくための端緒になるからです。だからこそ、今まさに、戦前と同じような反動的な思想統制が、まず教育の場で行われているのです。もしこうした事態を、ただ教育の職場や一部の教師だけの問題だとして放置すれば、やがてはそれは国民全体に広まり、私たちがその危険性に気づいたときは、もはや手遅れということにもなりかねません。

 だからこうした教育労働者を孤立させてはなりません。彼らは、全国の労働者全体の“良心”を代表して、声を上げ、起ち上がっているのです。自分の良心を大切に思うなら、労働者はこうした労働者を包み込み、支援し、その闘いを労働全体の闘いにしてゆく必要があるのではないでしょうか。

◎第20パラグラフ

 さて、教育労働者は厳しい闘いを強いられているのですが、だからこそ私たちも彼らの闘いを見守り、支援できるところは支援しながら、一層身を入れて『資本論』の学習をやらなければと考えています。

 第44回「『資本論』を読む会」は、第1章第4節の第20~22パラグラフの学習を行い、これでようやく、「第1章 商品」を最後まで終えたことになります。2008年4月13日に第1回を開催して、実に4年間、44回の学習会を重ねて、ようやく乗り越えることが出来たわけです。あまりにも長い時間をかけすぎではないか、と思われる方もあるかも知れませんが、しかし、この第1章は、マルクス自身がその理解が難しいと認めている部分なのです。しかもこの部分の理解が、『資本論』全3巻の理解にとって決定的に重要でもあるのです。だからそれを十分に理解するためには、決して長くはない時間ではなかったかと考えています。

 そういうことで、第20パラグラフから、学習会の報告を行いたいと思います。まず最初は本文を紹介し、各文節ごとに記号を付して、それぞれを平易に書き下しながら、議論の内容を紹介し、吟味して行くことにしましょう。

【20】〈(イ)しかし、先まわりしないために、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例で満足することにしよう。(ロ)諸商品がものを言えるとすれば、こう言うであろう。(ハ)われわれの使用価値は人間の関心を引くかもしれない。(ニ)それは物としてのわれわれには属さない。(ホ)そうではなくて、われわれに物的に属しているものは、われわれの価値である。(ヘ)商品物としてのわれわれ自身の付きあいがそのことを証明している。(ト)われわれは、ただ交換価値としてのみ自分たちをたがいに関係させあうのだ、と。(チ)では、経済学者が、この商品の心をどのように伝えるかを聞いてみよう。〉

 (イ)(ロ)
 しかし、先回りを止めて、ここでは商品形態そのものについてのもう一つの例を挙げることにしましょう。諸商品がものを言えるとすれば、こういうでしょう。

 この部分は、初版本文では、次のようにもう少し長い説明が付いています。

 〈しかし、先走りをしないためには、ここでは、商品形態そのものについてのもう一つの例をあげれば充分である。すでに見たように、商品にたいする商品の関係、たとえば脱靴器にたいする長靴の関係にあっては、脱靴器の使用価値、したがって脱靴器の現実の物的な諸属性の有用性は、長靴にとっては全くどうでもよい。長靴商品は、それ自身の価値の現象形態としてのみ、脱靴器に関心をもっている。したがって、諸商品がものを言うことができれば、こう言うであろう。〉(江夏訳68頁)

 マルクスはここで長靴と脱靴器という使用価値としては密接に関連しているものを例に挙げて、しかしそれらが商品としてある限り、あるいは商品として関係する限りは、それらの使用価値は問題にはならないのだ、と述べています。つまり長靴にとって、脱靴器の有用性そのものはまったくどうでもよいのだというのです。もちろん、長靴を脱ごうする人にとって、脱靴器の有用性はどうでもよいどころか極めて関心のあるものです。上手く長靴が脱げるかどうかが、脱靴器の善し悪しを決めるでしょうから。しかし、ここで、マルクスが問題にしているのは、そういうことではなくて、商品としての長靴と商品としての脱靴器との間の関係が問題なのだ、ということです。商品自身が互いに商品として交わる関係、商品が主体となって関係し合う、そういう関係から見るなら、商品は自分の関係する他の商品の有用性には何の関心もないのだ、ただ長靴という商品にとっては、自分の価値を表現するものとしての脱靴器に関心を持っているだけで、脱靴器自身がもつ有用性そのものには何の関心も持っていない、脱靴器の使用価値は、ただ長靴の価値の表現する材料、すなわち価値の現象形態としてのみ意義があるだけなのだ、ということです。だから、諸商品がものを言うことができるすれば、次のように言うだろう、という形で、マルクスは商品自身に語らせているわけです。商品自身が語るわけですから、これは以前出てきた、「商品語」ということでもあります(「商品語」については、別途検討します)。

 (ハ)(ニ)(ホ)(ヘ)(ト)
 われわれの使用価値は人間の関心を引くかも知れません。しかし、それは物としてのわれわれには属さないのです。そうではなくて、われわれに物的に属しているものは、われわれの価値なのです。商品物としてのわれわれ自身の付き合い(あなた方が「交換」と言っているものですが)が、そのことを証明しています。われわれは、ただ交換価値としてのみ自分たちを互いに関係させあうのです、と。

 これは商品自身が語っている内容です。使用価値は人間の関心を引くかもしれないが、物としての商品に属しているのは使用価値ではなくて、価値だと述べています。しかしそれにしても、使用価値は〈物としてのわれわれには属さない〉、〈われわれに物的に属しているものは、われわれの価値である〉というのは、一体、どういうことでしょうか。商品は直接には使用価値であると共に価値です。しかし使用価値は労働生産物が商品にならなくても、備わっている属性です。だから労働生産物が商品であるということは、そこに価値があるからだということになります。つまり物としての商品にだけ属しているのは、使用価値ではなくて、価値なのだというのです。そしてそれは物が互いに商品として関係し合うその仕方(すなわち人間が「交換」といっている関係)を見れば、それを証明しているとも述べています。というのは、物が互いに商品として関係し合うのは、それらが交換価値として関係し合う限りにおいてのみだからだ、というわけです。

 つまり商品という物象的な関係をおびた物は、客観的に互いにこうした関係を取り結んでいるとマルクスは述べているのです。なぜ、マルクスは、こうした商品自身が主体的に互いの関係を取り結ぶというようなものとして問題を論じているのでしょうか。商品はそれらが交換価値として関係するのは、当然、人間がそれらを交換するから、そうした関係を結ぶことは明らかなのに、あたかも商品自身が自分で互いの関係を取り結び、そうしたなかで商品自身が自分たちのそうした関係を語るというような説明をしているわけです。どうしてマルクスは、こうした説明をしているのでしょうか。

 それは商品の交換関係が、一つの客観的な法則として人間を外的に拘束するものとして現れているからです。商品生産者は、自分が売ろうとする商品の市況に一喜一憂して、何時、自分の商品を売るべきかタイミングを考えています。つまり商品同士の交換関係は、あたかも人間自身の意識や行動とは独立した過程、客観的な物象的関係として存在し、それによって、人間は拘束され、それに引き回されるような転倒した関係が生じているのです。

 だからこそ、マルクスはあたかも商品自身が主体的に自分たちで互いの関係を取り結ぶような自立したものであり、またそうした自分たちの関係を自分自身の言葉で語るようなものとして説明しているのです。こうした物象的な関係というのは、それ自身、人間の労働の社会的な関係を反映したものであるにも関わらず、それが人間の意識や意志からは直接には独立したものとして立ち現れてきて、人間を支配し、拘束し、引き回すような転倒した関係にあることを、マルクスはこうした商品自身の主体的な行動や関係、言葉や話として説明しているのだと思います。

 (チ)では、経済学者たちが、この商品の心をどのように伝えているのかを聞いてみることにしましょう。

●商品語について

 ここでは〈諸商品がものを言えるとすれば、こう言うであろう〉という形で商品の語りが取り上げられています。私たちは「第3節 価値形態または交換価値」、「A 簡単な、個別的な、または偶然的な価値形態」、「2 相対的価値形態」、「a 相対的価値形態の内実」の第10パラグラフで、〈上述のように、商品価値の分析がさきにわれわれに語ったいっさいのことを、リンネルが他の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。ただ、リンネルは、自分だけに通じる言葉で、商品語で、その思いを打ちあける〉というように書かれていたことを思い出します。ここで出てくる「商品語」というのは、何なのか、ということについては、第18回の報告のなかで、次のように説明しました。

 〈それはある商品と別のある商品が互いに関連し合うときに、特定の商品の立場から両商品の反省関係を一方の商品自身の《語り》として述べているものと考えることができるように思えます。つまりこの場合、リンネルは上着を自身に対する等置関係に置き、自分から二商品の反省関係を展開しているわけです。それが《商品語》です。上着が自分と等しいものと置かれ、通用する限りは、二つは同質であり、だから上着は価値でなければならない、そうであるなら、上着という姿そのものは、リンネルと同じ労働からから成り立っている。つまり人間労働一般から成り立っている。これがリンネルが上着に対して一方的に述べていることだ、とマルクスはいうわけです。
 このような反省関係というのは、例えば初版本文の次のような一文を読めばよく分かります。

 《リンネルは、他の商品を自分に価値として等置することによって、自分を価値としての自分自身に関係させる。リンネルは、自分を価値としての自分自身に関係させることによって、同時に自分を使用価値としての自分自身から区別する。》(国民文庫版45頁、訳文を若干変えています)。

 マルクスのいう《商品語》は、こうした商品自身が交わす反省関係を、一商品の《語り》として述べているものと考えることができます。〉

 またこうした〈商品語〉という形での説明の意義について、次のように解説しています。

 〈われわれが第1節で諸商品の交換関係から商品の価値を分析し抽象したのは、われわれの思惟による理論的営為であり、われわれの意志的な行為でした。そしてその分析の結果は、われわれの分析そのものからわれわれに語られた(明らかになった)のでした。
 しかしそうしたいっさいのことは、実際には、われわれが意識的に分析して認識する以前に、商品自身が他の商品との交わりのなかで客観的に商品自身が語っている内容なのだ、というのがマルクスが言いたいことなのです。つまりそうした反省規定は、何かわれわれが外的に商品の交換関係を分析して、われわれの頭脳を使ってやっていることだけではなくて、商品自身が他の商品との関係のなかで社会的に行なっている客観的な過程なのだというのです。だからそれらは商品という物象と物象との社会的関係そのものにある客観的な過程なのであり、それはわれわれの認識から独立した過程であって、むしろわれわれの意識や行為はそうした物象的関係に規制され拘束されるという転倒した関係こそがそこにはあるのだ、というのがマルクスがこの《商品語》として語っている内容ではないだろうかと思います。つまりこのパラグラフの内容は、第4節で問題になる物象化の内容を先取りしてその示唆を,あるいはその基礎を与えたものと言えるでしょう。〉

 こうした物象的な関係を取り上げているのは、だからこの第4節「商品の物神的性格とその秘密」なのですから、ここでも商品自身の語りが出てきたのは、その意味では当然だと言えるかもしれません。

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