『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第22回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2010-04-01 01:32:38 | 『資本論』

第22回「『資本論』を読む会」の報告(その1)


◎春の嵐と黄砂

 第22回「『資本論』を読む会」が開催された3月21日はよい天気でしたが、前日からの突風と黄砂の名残がまだあり、時々なま温かい強風が吹いていました。
 私たちが学習会を開催している堺市立南図書館の3階会議室の窓から見える桜の木は、赤い蕾を膨らませていました。この桜もすぐにも開花を迎え、私たちの目を楽しませてくれることでしょう。
 花の季節が巡って来たのに、私たちの学習会はなかなか開花しそうになく、相変わらずの集まりでした。といっても学習会の内容そのものは充実したものだったのです。さっそく、その報告に移りましょう。今回は等価形態の第二の特性と第三の特性の途中まで進みました。

◎等価形態の第二の特色

 第9パラグラフから始まります。いつもの通り、まずパラグラフの本文を紹介し、文節ごとにイ)、ロ)、ハ)……の記号を打ち、それぞれの解読を順次行うことにします。

【9】

 (イ)等価物として役だつ商品の身体は、つねに抽象的人間労働の具体化として認められ、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。(ロ)つまり、この具体的な労働が抽象的人間労働の表現になるのである。(ハ)たとえば上着が抽象的人間労働の単なる実現として認められるならば、実際に上着に実現される裁縫は抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるのである。(ニ)リンネルの価値表現では、裁縫の有用性は、それが衣服をつくり、したがって人品をもつくるということにあるのではなく、それ自身が価値であると見られるような物体、つまりリンネル価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働の凝固であると見られるような物体をつくることにあるのである。(ホ)このような価値鏡をつくるためには、裁縫そのものは、人間労働であるというその抽象的属性のほかにはなにも反映してはならないのである。》

 今回から〈等価形態の第二の特色〉の説明です。初版付録や「補足と改定」、あるいはフランス語版では、パラグラフの前に表題として、〈β 等価形態の第二の特性具体的な労働がその反対物たる抽象的な人間労働になる〉(初版付録)とか、〈価値形態(「等価形態」の誤植?--引用者) 第二の独自性〉(「補足と改定」)、〈等価形態の第二の特色。具体的労働が、その対立物である抽象的人間労働の表示形態になる〉(フランス語版)と書かれていて、これから考察する課題がまず明らかにされていますが、現行版では、【9】パラグラフそのものには何もそれらしいものはなく、その代わりに【11】パラグラフで、それまでの考察の結論として表題と同じ内容が述べられています。とにかく文節ごとに、詳細に検討していくことにしましょう。

 (イ)等価形態として役立つ商品の身体、例えば上着の商品体は、価値体として認められす。すなわちその自然形態が価値の形態、価値が具体的な形をとって目に見える物として現れたものとして認められています。上着の具体的な現物形態が価値の形態として、だから無差別な人間労働が対象化したもの、抽象的人間労働がそこに具体的に凝固しているものとして、認められるのです。しかし他方で、上着という物的姿を形作っているのは、抽象的人間労働ではなくて、一定の有用な具体的な労働--裁縫労働なのです。

 (ロ)だからここでは、この具体的な有用労働が、抽象的人間労働が具体的な姿をとって現れているものになっているわけです。すなわちその表現になっているのです。

 (ハ)上着形態、上着の物的形態が、抽象的人間労働の単なる実現形態、抽象的人間労働がその物的姿をとって自らを現わし実現したものと認められるなら、実際には上着を形作っている裁縫労働が抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるわけです。

 学習会では、ここの〈単なる実現として認められるならば、……単なる実現形態として認められる〉という言い方のなかで〈単なる〉が二回出てくるのですが、どうしてここで〈単なる〉と言われているのか、これは何を意味しているのだろうか、という疑問が出されました。これは次のようなことではないか、という意見が出ました。上着が価値体として認められるということは、上着の自然形態が価値の形態として認められるということですが、価値というのは抽象的人間労働凝固であり、無差別な人間労働だけからなっています。しかし上着の自然形態というのは、決して、例えば裁縫労働という具体的な有用労働だけからなっているわけではありません。それは具体的な有用労働と物的素材との結合の産物であり、上着の目に見える物的姿は、それが形作られている物的素材(ウール生地等)と、それに支出された裁縫労働の産物であることが目に見えています(裁縫労働は痕跡として見えているだけですが)。しかし上着の自然形態が価値の形態として認められるということは、上着が純粋に無差別な労働だけからなっているとみなされるわけです。その結果、上着の物的姿を形作った裁縫労働だけが抽象的人間労働の表現形態になっているといわれているわけです。だから〈単なる〉というのは、上着が単に労働だけからなっているものと認められるという含意ではないかというわけです。

 (ニ)リンネルの価値表現では、上着の使用価値は、ただリンネルの価値を具体的に表すという役割だけが問われているだけで、上着の使用価値本来の有用性は何も問われていません。だから上着の使用価値を形作る裁縫労働の有用性も、上着の使用価値本来の有用性を形作る側面は何も問題にされずに、ただリンネルの価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働、つまり抽象的人間労働の凝固であるという物体をつくるという面だが問われているわけです。

 ここで〈裁縫の有用性は、それが衣服をつくり、したがって人品をもつくるということにあるのではなく〉と言われていますが、〈人品をもつくる〉というのは、新日本新書版では、〈「馬子にも衣装」を意味するというドイツの諺をもじっている〉との説明があります。そして実際、フランス語版では〈リンネルの価値を上衣において表現するばあい、仕立屋の労働の有用性は、この労働が上衣を作る、そしてまた、ドイツの諺によれば人を作る、という点にあるのではなく〉(江夏他訳30頁)となっています。

 (ホ)「相対的価値形態の内実」の最後の【11】パラグラフでは、それまでの考察の結論として〈価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態が商品Aの価値形態となる。言いかえれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる〉と言われていたように、リンネルの価値表現では、上着の身体がリンネルの価値鏡になります。そして価値鏡としての上着の身体を作るためには、裁縫労働そのものは、抽象的人間労働であるという属性以外の何も反映してはならないのだというのです。これは裁縫労働に抽象的人間労働がその内的契機として含まれているということではありません。裁縫労働という具体的な労働が抽象的人間労働そのものの反映なのだということなのです。つまり裁縫労働が抽象的人間労働という目に見えない内的なものが外的な物として現れた実現形態としてあるということなのです。

 ここで上着の身体がリンネルの〈価値鏡〉になる、とありますが、この鏡は「魔法の鏡」ではないか、という話が出ました。というのは普通の鏡なら、鏡の前に立ったものの外面を映し出すだけですが、この価値鏡の場合は、リンネルのゴワゴワした直接的な対象性に隠された内的本質である価値を映し出すからです。「魔法の鏡」の前に立つと、その人の美しい外面に隠された醜い本質が、悪魔の顔として映し出されるのと同じだというのですが、果たしてどうでしょうか。

◎等価形態の第二の特色の神秘性(転倒)

【10】

 (イ)裁縫の形態でも織布の形態でも、人間の労働力が支出される。(ロ)(それだから、どちらも人間労働という一般的な属性をもっているのであり、また、それだから、一定の場合には、たとえば価値生産の場合には、どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうるのである。(ハ)こういうことは、なにも神秘的なことではない。(ニ)ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまうのである。(ホ)たとえば、織布はその織布としての具体的形態においてではなく人間労働としての一般的属性においてリンネル価値を形成するのだということを表現するためには、織布にたいして、裁縫が、すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として対置されるのである。》

 〈等価形態の第一の特色〉を論じたところでも、【8】パラグラフで等価形態にある上着が直接的交換可能性という属性を、あたかも重さがあるとか、寒さを防ぐというような上着が持っている自然的な属性と同じように、生まれながらに持っているかのように見えるという〈等価形態の謎〔Raetselhafte〕〉について論じていましたが、今回のパラグラフは、それ対応させて、同じような等価形態の神秘的性が第二の特色に関連して論じられているように思えます。

 (イ)(ロ)(ハ)われわれは「第2節 商品に表される労働の二重性」の最後のパラグラフで、〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する〉と言われていたのを知っています。ここで言われていることはこのことです。すなわち、裁縫労働も織布労働も、人間労働力が支出され、だからどちらも人間労働という一般的な属性を持っている。だからある場合には、すなわち価値生産という場合には、労働の一般的な属性において考察され、使用価値生産の場合には、労働の具体的な属性から考察される。こういうことには神秘的なことは何一つないわけです。

 (ニ)(ホ)ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまいます。織布労働がその一般的属性、すなわち無差別な人間労働一般という属性においてリンネルの価値を形成するということを表現するために、この織布労働に対して、リンネルの等価物である上着を生産する裁縫労働が、その具体的な労働の形態のままで、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として現れ、対置されなければならないのです。裁縫という具体的な労働が抽象的人間労働が現実に目に見えるものとして現れ出てたものとみなされるのです。初版付録では次のように書かれています。

 〈価値関係およびそれに含まれている価値表現のなかでは、抽象的一般的なものが具体的なものの、感覚的現実的なものの、属性として認められるのではなくて、逆に、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として認められるのである。たとえば等価物たる上着のなかに含まれている裁縫労働は、リンネルの価値表現のなかで、人間労働でもあるという一般的な属性をもっているのではない。逆である。人間労働であるということ裁縫労働の本質として認められるのであり、裁縫労働であるということは、ただ、裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として認められるだけなのである。〉(国民文庫版142-3頁)

 これがどれほど奇妙なことであり、また価値表現の理解を困難にするかは、やはり初版付録では次のように説明されています。

 〈この転倒によってはただ感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として認められるだけであって、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として認められるのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づけているのである。それは同時に価値表現の理解を困難にする。もし私が、ローマ法とドイツ法とは両方とも法である、と言うならば、それは自明なことである。これに反して、もし私が、法というこの抽象物がローマ法においてとドイツ法においてと、すなわち、これらの具体的な法において実現される、と言うならば、その関速は不可解になるのである。〉(同上)

【11】

 《だから、具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということは、等価形態の第二の特色なのである。》

 これは初版付録や「補足と改定」、フランス語版では最初に表題として掲げられているものが、現行版では、最後に結論として述べられているわけです。

◎等価形態の第三の特色

【12】

 《(イ)しかし、この具体的労働、裁縫が、無差別な人間労働の単なる表現として認められるということによって、それは、他の労働との、すなわちリンネルに含まれている労働との、同等性の形態をもつのであり、したがってまた、それは、すべての他の商品生産労働と同じに私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態にある労働なのである。(ロ)それだからこそ、この労働は、他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。(ハ)だから、私的労働がその反対物の形態すなわち直接に社会的な形態にある労働になるということは、等価形態の第三の特色である。》

 初版付録や「補足と改定」、フランス語版では、やはり最初に表題がついています。すなわち〈γ 等価形態の第三の特性。私的労働がその反対物の形態たる直接的に社会的な形態 における労働になる。〉(初版付録)、〈第三の独自性。等〉(「補足と改定」)、〈等価形態の第三の特色 。〉(フランス語版)というようにです。

 (イ)上着の現物形態を作る具体的な裁縫労働が、無差別な人間労働、抽象的人間労働の表現として認められることによって、その労働は、他の労働との、つまりリンネルに含まれている労働、リンネルの価値を形成した労働と同等性の形態をもつのです。そしてそのことにみって、裁縫労働は、すべての他の商品を生産する労働と同じように私的労働でありながら、同時に直接に社会的な形態にある労働と認められるわけです。ここで「直接に社会的な形態にある労働」とありますが、「第二節 商品に表される労働の二重性」において、次のような一文がありました。

 〈いろいろに違った使用価値または商品体の総体のうちには、同様に多種多様な、属や種や科や亜種や変種を異にする有用労働の総体――社会的分業が現われている。社会的分業は商品生産の存在条件である。といっても、商品生産が逆に社会的分業の存在条件であるのではない。……ただ、独立に行なわれていて互いに依存し合っていない私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。

 また初版付録の〈γ 等価形態の第三の特性〉の冒頭には次のような一文があります。

 〈諸労働生産物は、もしそれらが互いに無関係に営まれる独立な諸私的労働の諸生産物でないならば、諸商品にはならないであろう。これらの私的労働の社会的関連素材的に存在するのは、それらが一つの自然発生的な社会的分業の諸分肢であり、したがってまた、それらの生産物によっていろいろな種類の欲望を充足するかぎりにおいてのことであって、これらの欲望の総体からはやはり社会的な諸欲望の自然発生的な体系が成り立っているのである。しかし、このような、互いに無関係に営まれる諸私的労働素材的な関連は、ただ、それらの諸生産物の交換によってのみ、媒介され、したがってまた実現されるのである。それゆえ、私的労働の生産物が社会的な形態をもっているのは、ただ、それが価値形態を、したがってまた他の諸労働生産物との交換可能性の形態を、もっているかぎりにおいてのみのことである。それが直接に社会的な形態をもっているのは、それ自身の物体形態または現物形態が同時に他の商品とのそれの交換可能性の形態であり、言い換えれば、他の商品にたいして価値形態として認められているかぎりにおいてのことである。しかし、われわれがすで見たように、こういうことがある労働生産物にとって生ずるのは、ただ、それが、それにたいする他の商品の価値関係によって、等価形態にある場合、すなわち、他の商品にたいして等価物の役割を演ずる場合だけである。〉(前掲144頁)

 つまり諸商品を生産する労働は直接には私的労働であり、だからこそそれらは商品として交換されなければならないわけです。しかしそれらが交換されるためには、それらを生産した労働が、社会的な形態を持たねばなりません。そしてそれがすなわち諸商品の価値形態なのです。諸商品は価値形態を持つことによって、他の商品との交換可能性の形態を持つことになるのです。しかしそのためには諸商品は他の商品を自身の等価物にし、等価物商品を生産する労働を私的労働でありながら、しかもなお直接に社会的な形態を持った労働にすることによって、そうした自身の価値形態を持つのだということです。だから等価物を生産する労働は私的労働でありながら、同時に直接に社会的な形態にある労働になっているのです。
 しかし、裁縫労働が直接に社会的な形態にある労働になっている、といっても、それはあくまでも上着という商品に対象化された労働についてのみ言いうることであって、決して、現実に支出された裁縫労働そのものがその流動的な状態において、そうした形態にあるということではありません。言い換えれば、裁縫労働者が直接に社会的な関係のなかにあってその労働を行ったのではないということです。裁縫労働者はあくまでも一私人として上着を生産し、彼の支出する労働は直接には私的労働なのです。ただその労働が私的に支出されて商品に対象化されあと、商品同士が互い関係し会う世界=商品世界において、すなわちその価値関係において、特定の商品上着が等価物という位置に置かれるかぎりにおいて、上着に対象化された労働がそうしたものと見做されるということなのです。だからこの場合、具体的な裁縫労働そのものが、抽象的人間労働の具体化として認められるように、私的労働そのものが、なおかつ直接に社会的な形態にある労働になっているわけです。

 (ロ)だからそのように、私的労働でありながら、なおかつ直接的に社会的な形態にある労働である裁縫労働の産物であるからこそ、上着は、等価形態の最初に考察したように、他の商品と直接に交換されうる生産物になっているわけです。

 初版付録からもう一つ紹介しておきましょう。

 〈裁縫労働というような、一定の、具体的な労働が、たとえばリンネルというような別種の商品に含まれている別種の労働との同等性の形態をもっていることができるのは、ただ、その特定の形態が、別種の諸労働の同等性を、またはそれらの労働における同等なものを、現実に形成しているあるものの表現として認められているかぎりにおいてのみのことである。しかし、別種の諸労働が同等であるのは、ただ、それらが人間労働一般、抽象的人間労働、すなわち人間労働力の支出であるかぎりにおいてのみのことである。だから、すでに明らかにしたように、等価物のなかに含まれている特定の具体的な労働抽象的人間労働の特定の実現形態または現象形態として認められているので、その労働は他の労働との同等性の形態をもっているのであり、したがってまた、すべての他の商品生産労働と同様に私的労働であるのに、しかもなお直接的に社会的な形態にある労働なのである。それだからこそ、その労働は他の商品と直接に交換されうる生産物となって現われるのである。〉(同上)

 (ニ)これは第二の特色の場合と一緒に、結論として第三の特色が定式化されているだけです。

 (付属資料は、「その2」に掲載します)。

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