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自縄自縛日記

高橋哲哉・徐京植編著『奪われた野にも春は来るか 鄭周河写真展の記録』

2015-08-09 23:40:14 | 東北・中部

高橋哲哉・徐京植編著『奪われた野にも春は来るか 鄭周河写真展の記録』(高文研、2015年)を読む。

「3・11」のあと、鄭周河(チョン・ジュハ)という韓国の写真家が、福島の被災地に入った。もとより、韓国においても多く稼働している原発のある街において、その風景や人びとのたたずまいから、抑圧された不安や「徴候」のようなものを撮っていた写真家である。したがって、「3・11」の直後には、事故そのものを取材・報道するスタンスではないために、福島に行くことについてのためらいがあったようだ。

写真家が撮ったものは、主に、福島の美しい風景であった。もちろん、事故を明に暗に示すものは写し込まれている。もぎ取られないまま凍り付いた柿。グラウンドの一角に積み上げられた土(それは朝鮮学校であるがために当初除染の予算がまったく出なかったという)。しかし、美しい風景も、原発事故の傷跡も、原発事故そのもののことを知らされなければ、ただの風景写真の要素となってしまう。

本書は、2013年から14年にかけて、日本を巡回した写真展の各地において行われたトークショーの記録である(わたしは写真展を、沖縄の佐喜眞美術館で観た)。その場においても、テキストがアートの解釈を方向付けることについての議論が多くなされている。写真家は、写真の一葉一葉にテキストが付されることを、写真の力を削ぐものだとして否定する。このアート論に関する答えはない。人間はことばそのものであり、印刷されたテキストという単なることばの一形態を特別視して、それがアートに重なることの意味を論じることはあまり意味のあることとは、わたしには思えない。ことばと、ことばを超える存在との往還こそがアートだと考えてよいのではないか。

写真群に冠されたタイトルは、「奪われた野にも春は来るか」。日本に侵略されていた時代の朝鮮の詩人・李相和(イ・サンファ)の有名な詩である(朝鮮族の友人に訊いたところ、誰もが知っている詩だといって諳んじてくれた)。かつて日本が外部に行った植民地支配と、原発立地、さらには基地建設という内的な植民地主義とを同列に位置づけることは可能なのかということが、トークショーの別のテーマでもあった。そこでの語りの中から見えてきたことは、構造が一見似ているからといって別々のことであること、「苦痛の連帯」などと美しいことばを軽々しく言うことなどできないこと、それらを前提としつつも、われわれは「比喩しなければならない」ということ、マジョリティが発することばはマジョリティのものでしかありえないこと。

そして歴史を知らなければ、思考に限界を設けてしまうであろうこと。福島についていえば、かつて、南相馬市に200mの無線塔があったという。関東大震災(1923年)の2年前に完成し、非常に建設の難しい鉄筋コンクリート造りであった。その危険な作業には、死刑囚と朝鮮人が使われた。あるいはまた、戦時中、原爆に用いるためのウラン採掘の試みが、石川町で行われていた(保阪正康『日本原爆開発秘録』に詳しい)。単純な物語はそうした多くの史実によって、絶えず解体しなければならないということである。

●参照
鄭周河写真展『奪われた野にも春は来るか』
鄭周河写真集『奪われた野にも春は来るか』、「こころの時代」
徐京植、高橋哲哉、韓洪九『フクシマ以後の思想をもとめて』
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』
高橋哲哉『デリダ』
高橋哲哉『記憶のエチカ』
徐京植のフクシマ
徐京植『ディアスポラ紀行』
岡村幸宣『非核芸術案内』


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