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自縄自縛日記

大田昌秀『沖縄の帝王 高等弁務官』

2011-09-28 23:23:09 | 沖縄

大田昌秀『沖縄の帝王 高等弁務官』(朝日文庫、1996年)を読む。

日本敗戦から施政権返還(1972年)までの米軍政下の後半、沖縄に帝王として君臨したのは高等弁務官であった。本書は6代にわたる高等弁務官の施政とその歴史的な位置について、丁寧に追ったものになっている。

琉球列島米国民政府米国防長官の下に置かれ、高等弁務官はそのトップである。米国民政府の下に琉球政府が位置づけられ、従って、琉球政府の行政主席(施政権返還後、知事)の権限はかなり限定されていた。また、歴代高等弁務官の人柄や性格によって政策が変わるような印象が強く、すなわち「法による政治」ではなく「人による政治」と受け取られがちであった。その背景には、米軍において「沖縄人はナイーブで、まったく自治能力がない」とみる風潮があった。実際に、当時、「軍政府は猫であり、沖縄民政府は鼠である」とする「猫と鼠」論があったという。

著者は、米軍政のパターナリズム(俺たちはお前たちの保護者であり、俺たちのお陰で食っている)も、「基地産業論」も、その延長として考えることができるとする。興味深い観点である。

また、本書によれば、米国の戦時中の沖縄研究はかなり進んでいた。沖縄人が日本人から受けた蔑視と差別的処遇を前提として、それを沖縄戦の遂行に際して心理作戦としていかに活用できるか、といった点にまで論久していたというのである。さらには、1945年5月3日の米軍司令のなかには、次のようなものがある。それは日本軍内部と比較などできない(現在に至るまでの米軍の実態については置いておくとしても)。

「軍政要員は、住民にたいし厳正確固たる態度で対処しなければならない。しかし、残酷・無慈悲に振る舞ってみずからを日本軍のレベルに引きおろしてはならない。」

■ムーア(1957-)
軍用地強制接取に関して、土地料の一括払いに住民から猛反対が起きた。ムーアは住民の土地への愛着を理解せず、安易に共産主義と結びつけてしまった。挙句、正当に選出された那覇市長・瀬長亀次郎を追放した。ムーアと地元指導者の間にはもたれ合いがあった。

■ブース(1958-)
土地料の一括払いを全廃。しかしそれは、沖縄側が対共産圏としての基地利用を承認した見返りに、国務省が国防省を制したからであったともいう(高価につきすぎた代償)。また、ドルへの切り替えは、米国資本ではなく、実は日本本土の資本投下が狙いだった可能性があるという。すなわち、岸とアイゼンハワーは沖縄に関しても結託をはじめていた。

■キャラウェイ(1961-)
厳格な政策により「キャラウェイ旋風」を起こした。このときケネディ政権は、沖縄が日本の一部であり、同時に沖縄の米軍基地の重要性についても確認していた。キャラウェイは、琉球政府には責任も能力もなく、権力だけを求める自治などあり得ないとする「自治神話」を論じた。

■ワトソン(1964-)
ベトナム戦争の勃発もあり、沖縄基地の重要性が強調された。このとき、日本政府からはじめて「基地と施政権の分離返還論」が出ている。米国民政府の支配の構図は変わらず、反対されても主席任命が続けられた。

■アンガー(1966-)
日本と沖縄との一体化が進められ、佐藤とジョンソンとの間で施政権返還の協議が行われた。はじめての主席公選が導入され、屋良朝苗が選出された。

■ランパート(1969-)
米軍基地の毒ガス漏れ問題と移送問題、佐藤・ニクソンによる沖縄返還の共同声明、コザ暴動など、あまりにも多くの事件や事故が噴出した。また、「復帰」の中身が住民の希望とあまりにも違うことが露呈してきた。

以上の6人である。歴史として見れば短いようだが、きっと、住民にとってはひたすらに長い期間だったのだろう。

本書「付章」には、日本の敗戦前になされていた沖縄の処遇について整理してあり、これが興味深いものだ。米国にも中国にも、沖縄が日本による他国侵略の足場になったとの認識が共有されていたのだという。そして、1943年のカイロ会談においては、ルーズベルトは蒋介石に対し、沖縄を中国に割譲する意向を示している(蒋介石は、米中共同での占領と国際機関による信託統治による共同管理が望ましいと回答)。丸川哲史『台湾ナショナリズム』により、この蒋介石の回答は当時の中国の一般的な沖縄認識を示したものだと思っていたのだが、事はそう簡単でもなかったようだ。

●参照
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』
大田昌秀講演会「戦争体験から沖縄のいま・未来を語る」
鹿野政直『沖縄の戦後思想を考える』
丸川哲史『台湾ナショナリズム』