25日のお昼頃、東北線塩釜駅で下車後、15分ほど歩いて鹽竈神社参道の階段下に到着。この階段下の信号のところにあるお寿司屋さんで昼食休憩。一森寿司、値段も安価でとてもおいしかった。若い板前さんにはお酒の醸造元の情報や本塩釜駅までの旧道沿いの商店の情報などいろいろ教えてもらった。ついお酒をいただいてしまった。
ここから急な階段を登って本殿にたどり着くのだが、実はこの鹽竈神社は学生の頃に一度来ている。ほとんど周囲の景色やどのような道をたどってきたか記憶にない。仙石線の本塩釜駅歩いて境内にたどり着いたことと、林子平ゆかりの日時計だけは記憶している。
たどりついてすぐに大きな銅と鉄でできた灯篭に圧倒される。伊達藩が蝦夷地警護を命ぜられその凱旋記念に9代藩主が奉納したらしいが、精巧な作りである。日時計は昔と変わらずそのままあったが、あまりの簡単な構造にビックリする。
本殿は新しくきらびやかである。中では結婚式が執り行われていた。
この鹽竈神社は、同一敷地内に志波彦神社がある。こちらにも寄ったが時間が無く写真は撮っていない。鹽竈神社は陸奥一宮といわれているが、この鹽竈神社は式外社で、志波彦神社が式内社である。昔の岩切、今の仙台市宮城野区岩切にあったらしいが、衰微していたものを明治時代に再建するのに敷地が無く、こちらの敷地に入ったらしい。もともとは鹽竈神社のみがあったところとのことである。
そして私は地理的にずっと誤解していたのだが、この鹽竈神社名前の割に海から遠いところにあると思い込んでいた。塩釜港からかなり遠いと思っていた。仙台に戻ってから地図を見てみたら、多賀城の外港としてあった「千賀の浦」というのが現塩釜港になり、そこに突き出た岬のようなところがこの鹽竈神社であったとのことが、地図で確かめられた。誤解というか、思い込みというのはなかなかいろいろな情報があっても自分の中で訂正できずにいるものである。今回初めて気が付いた。
多賀城というのが、海にごく近くに位置していたこと、その港として塩釜という土地があったということ、キチンと記憶しておかなければならない。陸奥という国の海上交通の重要なポイントだったことがようやく理解できた。
実はこの海に近いところというのを実感したのは、志波彦神社から山道のようなつづら折りの旧参道を降りたところから、現在の階段の参道までは100メートルほどなのだが、戻る途中に味噌の醸造元があり、そのわきに3.11の津波の到達点を示す関票が目についた。
高架の仙石線の下を超えて津波がこの参道のすぐ下まで来たということは、近世の埋め立て等で昔は今より海が内陸に入っていたという情報と合わせると、この神社は先ほども書いた通りかなり海に近かったことになる。
そして仙石線の本塩釜駅に向かって歩いていくと、ごく小さな登りを超えて塩釜市役所前をとおり本塩釜駅にたどり着く。翌日の地図の情報とあわせて考えてみるとこれが多賀城の外港「千賀の浦」に突き出ていた岬の名残りのような気がした。
しかし現在の位置から考えると、港の風景が見にくい地点でもあり、かなり内陸に入ったところまで津波が来たように思えてしまう。
そして、旧道を本塩釜駅に向かって歩くと、製塩のための釜を祀ったという釜神社があり、横浜でもよく口にする「浦霞」を醸造している株式会社佐浦、そしてめったに口にできない「阿部勘」「於茂多加」の阿部勘酒造まえを通って本塩釜駅にたどり着いた。
ここからは本日の集合駅である松島海岸駅まで三つである。
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