Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。体力作り、俳句、山行、美術館・博物館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。

煩悩の数、ルドンの青、渾身の怒涛

2018年05月16日 11時18分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★煩悩の数ほど真竹皮を脱ぐ        福本 博
★底抜けるルドンの青も五月の陽      菅原 涼
★渾身の怒涛ありけり朱夏の画布      山本 雪


 第1句、タケノコがその皮を脱ぐようにして伸びていくのが、竹林に入るとわかる。時間差のある竹が、ストップモーションのようにたくさん生えている。地面から顔を出したばかりのタケノコから、伸びるに従い脱皮のように皮がめくれて、小さくなっていく。先端にはそれでも若い葉がついて先導をしているように見える。一年経ったものには、小さな枝が出てそこに葉がついている。この皮の数を煩悩と捉えた。竹の成長を煩悩を脱していく様に見立てた。すると竹は成長の果てに解脱した覚者に、菩薩に、仏になるのであろうか。ここで私の見解は分かれる。
 竹が皮を脱ぐのは解脱した証ではない。煩悩をのり越えたわけではない。煩悩こそは成長の糧である。煩悩を脱いで捨ててしまっては生きている意味がなくなってしまうのだ。無限とも思える煩悩の皮を前もって身に着けているのである。それをくぐり抜けてこその生き様である。

 第2句、あのルドンの明るい底抜けの青をはじめとする色彩は、長い間の黒の造形の果てに、それこそ爆発するようにはじけ飛んだ色彩である、といつも思う。蝉が長い地中の生活をよりよく生きた分だけ美しい翅と喧しい鳴き声を発するように、その潜伏期間を豊かな黒を駆使したからこその色彩と思えばよい。少しありきたりの脾兪ではあるが、句にすると何となく頷けてしまう。

 第3句、懇親の怒涛が描かれた画布、自分の絵か、他人が描いているのをのぞき込んでいるのか、そこらへんがあいまいな句であるが、その怒涛は夏の明るい陽射しを受けて輝いているのであろう。動きと光の乱舞と、そして自然の驚異を示す怒涛を描くのは画家にとっては大きな朝鮮なのかもしれない。描いた人の満足感が伝わる。
 ここまで記載してみると、この句は、怒涛を描いた画家本人の作のように思えてきた。
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