Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

便所の清掃

2018年05月16日 22時02分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 いつも気になっていることがある。駅や商業施設、公共施設などの公衆便所や、旅館やホテルなどの浴室の清掃はほとんどが女性である。男用の便所、男性用の脱衣所や浴室の清掃も女性がだいたい行っている。
 韓国旅行に行ったときに、日本から同行してきた女性の添乗員が「韓国では基本は男性用の便所は男が、女性用の便所は女が清掃する。それが当たり前ではないか」といっていたのがとても印象に残っている。欧米でもそうだったように記憶している。

 日本では便所の清掃は人の利用を止めずに清掃する。そのために男が小便器を利用している隣りの小便器を女性が清掃している。女性が清掃している小便器の脇で、なんのためらいもなく男性が小便器を利用する。私はこれがどうしても馴染めない。
 ゆとりのある時は清掃中の標示の無い別の場所に変えることにしている。どうしても利用せざるを得ないときでも、隣の小便器を清掃していると、それが女性がしていようが、男性が清掃していようが、利用はしない。小便器の清掃中は囲いのある大便器のところに入って座って用を足すことにしている。それも一声「利用してもいいですか」と最低限声をかけることにしている。用が住んだら「申し訳なかった」と誤ってから出て行く。それが最低限のマナーと思っている。だが現実は「邪魔」とばかりに舌打ちをして待っている利用者もいる。清掃員もまた清掃することを謝罪しながら、平身低頭して清掃している。何とも不思議な光景ではないか。

 こういうのを無くすことから始めなければ「セクハラ」は無くならないのではないかとすら思う。便所掃除は誰もが好きではない。自分の家の便所の掃除すら「主婦の仕事」とされる。便所の清掃は「女がするもの」という観念がなくならない限り、すべての公衆便所の清掃は女性の仕事にいつまでも位置付けられる。
 温泉旅館や最近多くなったスーパー銭湯でも男性用の脱衣場、男性用の浴室もほとんどは女性が清掃し、タオルなどの片づけ、石鹸類の補充などを行っている。

 こんなことをいうと「女性の職場を奪うのか」という議論が出てくる。しかし逆である。男女別々にそれぞれ雇用をすることから構造を変えるしかないと私には思える。逆を考えてみれば不思議なことはすぐにわかる。女性用の便所や脱衣場、浴室の清掃に男性が入って行くことはかなりの抵抗があるはずだ。常に逆になったときの状態を考えることも必要である。そして汚いところの清掃は男も女もそれぞれがするのが当たり前になっていかなければ、日本は世界でも孤立するのではないか。観光立国に逆行している。

風に乗ってやってくるもの

2018年05月16日 20時23分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜市域の本日の最高気温は13時過ぎに記録した27℃。いつものことながら都内に較べると若干低いものの、とても暑く感じた。しかし風もあり、真夏の空気が動かず、そして極端に高い湿度をともなった暑さとはまるで違う。
 昼からは少し足を伸ばしてかなり汗をかいた。横浜駅傍の家電量販店で、ベッド脇の小さな照明用のスポットライトを購入。これで若干の読書ができる。

 さて、これより若干の「仕事」をして、早めに寝たい。外では三ツ沢競技場でサッカーの試合が行われたいるようで、強い風に乗って応援の音がここまで響いてくる。遠い歓声と太鼓の音がする。これよりも近いと煩い音に聞こえると思う。私にとってはあまり好ましい音ではない。

煩悩の数、ルドンの青、渾身の怒涛

2018年05月16日 11時18分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★煩悩の数ほど真竹皮を脱ぐ        福本 博
★底抜けるルドンの青も五月の陽      菅原 涼
★渾身の怒涛ありけり朱夏の画布      山本 雪


 第1句、タケノコがその皮を脱ぐようにして伸びていくのが、竹林に入るとわかる。時間差のある竹が、ストップモーションのようにたくさん生えている。地面から顔を出したばかりのタケノコから、伸びるに従い脱皮のように皮がめくれて、小さくなっていく。先端にはそれでも若い葉がついて先導をしているように見える。一年経ったものには、小さな枝が出てそこに葉がついている。この皮の数を煩悩と捉えた。竹の成長を煩悩を脱していく様に見立てた。すると竹は成長の果てに解脱した覚者に、菩薩に、仏になるのであろうか。ここで私の見解は分かれる。
 竹が皮を脱ぐのは解脱した証ではない。煩悩をのり越えたわけではない。煩悩こそは成長の糧である。煩悩を脱いで捨ててしまっては生きている意味がなくなってしまうのだ。無限とも思える煩悩の皮を前もって身に着けているのである。それをくぐり抜けてこその生き様である。

 第2句、あのルドンの明るい底抜けの青をはじめとする色彩は、長い間の黒の造形の果てに、それこそ爆発するようにはじけ飛んだ色彩である、といつも思う。蝉が長い地中の生活をよりよく生きた分だけ美しい翅と喧しい鳴き声を発するように、その潜伏期間を豊かな黒を駆使したからこその色彩と思えばよい。少しありきたりの脾兪ではあるが、句にすると何となく頷けてしまう。

 第3句、懇親の怒涛が描かれた画布、自分の絵か、他人が描いているのをのぞき込んでいるのか、そこらへんがあいまいな句であるが、その怒涛は夏の明るい陽射しを受けて輝いているのであろう。動きと光の乱舞と、そして自然の驚異を示す怒涛を描くのは画家にとっては大きな朝鮮なのかもしれない。描いた人の満足感が伝わる。
 ここまで記載してみると、この句は、怒涛を描いた画家本人の作のように思えてきた。