Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

神大フェスタ

2014年11月01日 23時31分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はお昼ごろに近くにある神奈川大学の「第16回神大フェスタ」に行って見ることにした。特に行きたい理由は無いのだが、お昼ご飯のかわりになるものがないか、という単純な思いつきであった。
 大学祭などというものは、1971年の時以来まるで縁がない。もう43年も昔のことである。
 神奈川大学でも、大学祭というのは以前からやっていたと思うが、「第16回」というのがどうも回数が少ないと思う。しかしあまり詮索してもしょうがないので、特に大学関係者に聞く気にはならない。

 本日は学生食堂も、高級感のある1号館の食堂も営業していなかったが、生協の営業らしいラウンジ横の喫茶店のようなところでサンドイッチなどを食べて来た。
 展示は特に興味を惹きそうなものは無かったので、ジャズ演奏を30分ほど聞いて帰ってきた。

 そういえば私の学生時代は、1970年、71年の2年間は大学祭にかかわった。二つのサークルに所属していたので、結構忙しかった。また政治の季節でもあり、政治的な、あるいは社会に対する発信の場としてさまざまな企画があり、いろいろな意味で刺激的でもあった。
 しかし留年した年の3年目以降の3年間は大学祭についてはまったく記憶にない。3年目は紛争のあおりで開催したかどうか、怪しい気もする。

 あとでパンフレットをもらって見たら、いくつかの展示はちょっと惹かれるものがあった。
 さて明日それらを見に行く気分になるだろうか。


「菱田春草」展(東京国立近代美術館)

2014年11月01日 20時12分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 なかなか頭の中で「菱田春草」という画家の像がうまく描けない。好き嫌いで云えば同時期に岡倉天心と五浦で共同制作をして研鑽しあった、横山大観・下村観山・木村武山に比べると好みの画風である。実に細かい描写であるとともに、構図の取り方も好みだ。人物の描き方もずっといい。しかし人物画はやはり好みではない。私は風景画に惹かれる。
 春草という画家がうまく私の中で像を結ばないので、今回は気に入った作品と、今日まで心にひかかったり、他の画家と比べる材料とした作品を並べてみることにした。
 もう少し私の頭の中が整理できた段階で再度挑戦してみたい。

好きな作品

(梅に雀 1911 遺作)


(春秋 1910)


(春日 1902)


(黒き猫 1910)


(落葉 1909 右双)


(落葉 1909 左双)



(秋草 1902) 左:横山大観、右:菱田春草


(暮色 1901)


(月下狐 1899)


(武蔵野 1898)


考えるのに参考にした作品、および気になった作品

(賢首菩薩 1907)


(寒山拾得 1903)


(竹林月 左:春草、右:大観)


(王昭君 1902)


(蘇李決別 1901)


(水鏡 1907)



三陸鉄道、大船渡、陸前高田

2014年11月01日 12時52分42秒 | 山行・旅行・散策


 10月28日は花巻温泉を出発して、三陸鉄道南リアス線の吉浜駅に向かった。朝から晴れたり降ったりを繰り返すとても寒い日であった。朝旅館を出るときは晴れて虹が出ていたが、時々雪交じりのような雨がパラついた。しかし吉浜駅までは紅葉がきれいであった。

          
  

 吉浜駅はコスモスが咲いて美しい花に囲まれた駅。駅舎は大船渡市役所吉浜地域新港出張所を兼ねている。この駅舎に入ると被災地にやってきたということが実感できる。駅舎の中には震災当時と復興に至る写真や全国からの激励のメッセージなどが貼ってある。



 また出張所では「その時私は‥大船渡市三陸町吉浜の人々の記録」(発行:吉浜地区公民館、1000円)が販売されている。この地については私は、報道やさまざまな講座などでは耳にしていないが、地元の方の生の声が多数掲載されている。これは是非目をとおしたいと思って購入した。

         

 列車はデラックス仕様の車両に乗った。すでに釜石方面からの団体客で席はほとんど埋まっていた。わずか35分ほどの乗車であったが、車窓からは復旧工事中の海岸・漁港等が見えた。
 終点の盛(さかり)駅で下車。ここで自治労岩手県本部退職者会の気仙支部の正副支部長と、元大船渡市議会議員の平田さんが出迎えてくれた。碁石海岸での昼食会を挟んで陸前高田市まで約4時間にわたり車内で案内をしていただいた。
 バスの経路にしたがって大船渡市の中心部の被災状況や当日の避難の様子、三陸地形での津波災害の複雑な様相、避難所運営にかかわるエピソード等々語ってもらった。参加者は皆自治体行政の第一線に長年携わっていたため、観察する視点もうなづけるものが多かった。



 昼食会場では、退職者会として集めたカンパを手渡すことができた。ここで様々なおみやげを購入する参加者もいた。昼食会場の碁石海岸は断崖の上から太平洋が望める眺望ず素晴らしい。多くの観光客がさらに戻ってくることを祈りたい。

   

 陸前高田市内では、市内の地盤嵩上げ工事で土砂運搬のためのベルトコンベアが上空に縦横にめぐらされている景色をはじめて目にした。高さが20mを超えるような巨大なベルトコンベアが山一つを削っているところから伸びてきている。下から見上げるとどこか月かどこかの宇宙ステーションを眺めているような錯覚に陥る。その下を大型トラックが行きかい、工事従事者のための食道・コンビニなどが繁盛している。



 すっかり有名になった一本松はその巨大なベルトコンベアの向こうに小さく見える。
 テレビなどでこの巨大なパイプラインと一本松はともに見ていたが、実際に目にするは初めてである。テレビなどではそれぞれが別々に映されているが、現実はベルトコンベアの影に隠れるように松が一本立っている。
 このベルトコンベアの評価はいろいろあるが、現実に現地で見ながら、地元の人の復興に対する判断を踏まえないと、外からの評価を一方的に下してしまってはいけないとあらためて感じた。

 ここで案内してくれた退職者会の方や平田さんとわかれ、宮城県へ向かう。石巻市・東松島市に差し掛かる頃にはすっかり暗くなってしまって、野蒜海岸で私の用意した被災地の紹介は残念ながら資料説明だけで終わらせて、松島海岸駅の傍にあるホテルに向かった。


本島等元長崎市長死去

2014年11月01日 10時46分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 NHK長崎放送局の報道はツイッターで取り上げたが、ここでは長崎新聞と米人新聞の報道を取り上げてみる。

★長崎新聞の報道(11.1)

 昭和天皇の戦争責任発言で右翼から銃撃され、全国に論争を巻き起こした元長崎市長の本島等(もとしま・ひとし)氏が31日午後5時27分、肺炎のため、長崎市内で死去した。92歳。旧五島北魚目村(現在の新上五島町)出身のカトリック信徒。自宅は長崎市下西山町7の1。葬儀は密葬で執り行い、お別れ会を後日、長崎市内で開く。
 長崎市長に初当選したのは1979年。市長3期目の88年12月、昭和天皇が重篤な状態にある中、定例市議会一般質問に答え「昭和天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、全国から抗議や称賛が殺到。当時顧問を務めていた自民党県連などは発言の撤回を要求したが、本島氏は「(撤回は)政治家の死を意味する」として応じなかった。発言から1年余り後の90年1月、市役所前で右翼団体幹部に銃撃されて瀕死(ひんし)の重傷を負い、その名が「平和市長」として国内外に知れ渡った。
 この事件以降、過去の侵略戦争に対する反省とアジア諸国への戦後処理の不十分さを「平和宣言」などを通じて鮮明に主張。核兵器廃絶と同時に、アジアへの真の謝罪と和解の必要性を一貫して訴え、外国人被爆者への日本人と同等の援護も日本政府に求めた。5期目を目指した95年の選挙で、新人の伊藤一長氏(2007年に死去)に大差で敗れた。
 かくれキリシタンの子孫として生まれ、受洗。貧しい子ども時代を過ごし、戦時中は陸軍に入隊、熊本県で終戦を迎えた。京都大工学部卒業後、長崎南山高教諭などを経て59年から県議に連続5期当選。自民党県連幹事長も務めた。市長時代には故秋月辰一郎氏らと長崎平和推進協会の設立に貢献し、初代会長に。市長退任後の97年、広島・原爆ドームの世界遺産登録に異議を唱えた論文「広島よ、おごるなかれ」で被爆者の被害者意識を批判。以降、原爆投下を「侵略と加害の帰結であり、仕方なかった」と言い続け、物議を醸した。
 02年、日本の原爆・戦争被害だけでなく加害の立場も認めた平和政策が評価され、ドイツ政府の功労勲章一等功労十字章を受章。韓国の被爆者団体などが同年に創設した「韓日平和交流功労賞」も受賞した。03年に結成された「長崎の中国人強制連行裁判を支援する会」の代表としても活動をけん引した。
 09年春、平戸市沖で沈没した巻き網漁船「第11大栄丸」の船体引き揚げを求める県民有志の代表として尽力。平和団体の各種行事に積極的に参加し、独特のユーモアと庶民派のイメージが市民に親しまれた。今年7月から体調を崩していた。


★毎日新聞の報道(10.31)から

 長崎市長在任中の1988年に「(昭和)天皇に戦争責任はあると思う」と発言し国内外で議論を呼び、右翼団体幹部から銃撃された本島等(もとしま・ひとし)さんが31日、肺炎のため亡くなった。92歳だった。自宅は長崎市下西山町7の1。葬儀は近く密葬を執り行い、後日「お別れ会」を開く予定。
 1922年、長崎県・五島列島の北魚目村(現・新上五島町)で生まれた。旧制高校在学中に徴兵され、陸軍の西部軍管区教育隊(現・熊本県合志市)で終戦を迎えた。戦後は京大工学部を卒業後、高校教師、衆院議員秘書や県議5期、自民党県連幹事長などを経て、79年4月に長崎市長に初当選し95年まで連続4期務めた。
 天皇の戦争責任を巡る発言は3期目の88年12月7日。市議会の答弁で、自身の1年4カ月間の軍隊体験なども踏まえ「天皇の戦争責任はあると私は思います」と述べた。議会後の記者会見でも「戦争終結を早く決断していれば沖縄、広島、長崎はなかったと思う」と語った。
 当時は昭和天皇が重病だったこともあり、発言には賛同、批判両方の立場から議論が起きた。撤回の要求に本島さんは「天皇についての自由な発言ができずして、日本の民主主義の発展は期待できない」などと自身の立場を貫いた。90年1月18日、発言に反発した右翼団体幹部に長崎市役所前で銃撃され、左胸貫通の重傷を負ったが、命をとりとめた。
 5選を目指した市長選(95年)で落選後も、表現の自由や原爆投下などについて発言を続けた。長崎市の平和公園にある中国人原爆犠牲者追悼碑の設置・維持や、反核・平和を訴えようと市民団体が平和公園で1月1日に行う「正月座り込み」にも今年1月まで参加するなど、平和への活動に晩年まで取り組んだ。【小畑英介】
31日、92歳で亡くなった元長崎市長、本島等(もとしま・ひとし)さんは銃撃事件に屈することなく1995年の市長退任後も戦後の残された課題について発言を続け、最期まで反核・平和運動に尽力した。本島さんを知る人たちからは悼む声が聞かれた。
 本島さんの市長時代、被爆者援護などについて何度も意見を交わした長崎原爆被災者協議会の山田拓民・事務局長(83)は「差別について非常に鋭い目を向けていた。懐が深く誰とでも話ができる人だった」と振り返り「もっと話をしたかった。本当に残念」と死を悼んだ。
また、川野浩一・長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会議長(74)は「教員時代、公衆浴場で教え子の背中を流しながら人生について語っていた。市長になっても庶民性は最後まで変わらなかった。市長をやめた後も座り込みに参加するなど反戦平和のシンボル的存在として運動を支えていた。亡くなったのは運動にとって大きな打撃だ」と語った。
 反核や平和を訴える市民団体が毎年1月1日に長崎市の平和公園で開く「正月座り込み」に本島さんと参加していた同市の被爆者、山川剛さん(78)は、昭和天皇の戦争責任発言について「言うよりも撤回しなかったことがまれな出来事で、彼でなければ堅持できなかった」と語り「権力と対極にある人に注ぐ目は温かかった。長崎の顔がまた一つ失われた」と声を落とした。
 強制連行され、被爆死した中国人32人を悼む碑が2008年、長崎市の平和公園に設置された。本島さんは、その碑の建立委員会代表を務めた。追悼式には毎年出席し今年7月もつえをつきながら碑に献花した。尖閣諸島などを巡り緊張する中で「日中友好のため、中国人強制連行問題の解決は最優先の課題だ」とあいさつした。
 昭和天皇の戦争責任を巡る発言に端を発した銃撃事件から20年となった2010年1月には長崎市での集会で元衆院議員、野中広務氏と対談。本島さんは「戦争を起こしたのは日本人で、その結果が原爆。(戦争被害に遭ったすべての国や人に対し)心から謝罪しないと今後の日本の生きる道はない」と懸念を語っていた。【小畑英介、大場伸也】