Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

今日の贅沢

2013年07月24日 22時55分29秒 | 料理関連&お酒
      

 対馬で購入した焼酎が1本、壱岐で購入した焼酎が2本、我が家にある。これを早く飲みたいのだが、最近の暑さでビールやチュウハイばかりを晩酌にしていた。
 その上妻が山形の庄内地方に出かけ、日本酒を購入してきた。とてもありがたいお土産で、冷蔵庫に大事に保管していたが、ようやく少し気温が下がってきたので本日からこれを夕食前に飲むことにした。
 妻はお酒にはまったく詳しくない。私が吟醸酒がどうもダメだというのは理解しているので、目についたこの「出羽の雪」を購入してくれた。
 このお酒、かなり昔に購入して飲んだことがある。三倍醸造酒などが横行していた時期から、この醸造元ではそのようなお酒をつくらないということで、盛んに取り上げられていた。今でも当時の姿勢でお酒を造り続けていると評価されているのを見聞きしている。
 味がわからない私でも、そのような話を聞くと、大事にありがたくいただくことにしている。

「夏目漱石の美術世界」展 「文芸と芸術」から(4)

2013年07月24日 00時24分58秒 | 読書
 「文芸と芸術」という評論の冒頭で漱石は「芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終るものである」と宣言した。漱石の芸術論の根幹を言い表したような断定的ないいようである。
 第六回の文展についての批評文なのだが、前半部分は有名な芸術論になっているという。私はこの評論の存在についてはまったく知らなかったのだが、この冒頭のことばは有名な表現ということだ。この総論部分についてまずは概略漱石の論旨を辿ってみる。
 この最初の連載第1回掲載分の末尾は同じように「徹頭徹尾自己と終始し得ない芸術は自己に取って空虚な芸術である」とまで言い切っている。
 連載第3回では、「文展は、既に法外な暴威を挟んで、間接ながら画家彫刻家を威圧している‥。実際近頃のように文展及落が彼ら間の大問題になる以上は、ゆくゆくは御上の御眼鏡に叶って仕合せよく入選した作品でなければ画として社会から取り扱われなくなる」「天の命ずるままに第一義の活動を忠実に尽さしめる代わりに、ひたすら審査員の評価や俗衆の気受を目安に置きたがる風の薄い飢えた作品を陳列せしむるようになっては、芸術のために由々しき大事である」
 ただし批評というものの存在する根拠はあるとして「文展の審査員は政府という要らざる後盾を背負う点において不都合ではあるが、この始末をしてくれる道具としして、一般の芸術家(ことに青年芸術家)に取って有益にならないとは限らない。自分はこの第二義において審査に賛成しても好い」と批評・審査というものの存立を一応認めている。
 批評というものが成立する根拠については、漱石も随分とこの限られた連載物のなかで苦労をして論を進めているように感ずる。
 「(製作)活動が終結を告げると共に、‥、初めて作物に対して客観的態度が取れるようになるのてある。既に他人として、幾分でもわが製作に対する批判が起こる以上は、‥、自己対製作なる彼我の関係を、(己の信ずる)具現者対製作の関係に拡大するのはやむをえざる自然の順序である。」「余はこの意味において、堕落とは知りながら、具現者の批判に信頼する芸術家の心事を諒とする。そうして具現者として期待されつつある文展の審査員諸氏に向って、たとい一人たりとも助かるべきはずの芸術的生命を、自己の粗忽と放漫と没鑑識とによって殺さざらん事を切望してやまぬのである。」
 更に「自己から見て、具現の批評家というのは、自己の製作が遺憾なく鑑賞出来る人より外にあるべきはずがない。‥自己が取りも直さす自己の製作に対する最良最善の批評家であるというに過ぎない。ただ自己は自己に対して不公平に篤く同情し過ぎる懸念があるから、厭々ながら評価の権利を他人に託するのである」
 ここまで来て、批評というものが客観的に存在する根拠が示された。同時にこの批評が存在する根拠とともにその批評の陥る先も見通している。
 「同派同流の名の下に、類を以て集まり得るような、通俗な人間の一員として、芸術家が存在するならば、その芸術家は、毫も評家に不自由を感じない訳である。しかしされを裏から見ると、‥、(自らを)卑しむ所以になる。」
 ようやく漱石は自己の批評を語る位置にたどり着いた。
 「余ははじめから個人としての芸術を論じているのである。そうして芸術は自己の表現に始まって自己の表現に終るというのである。取も直さず、「特色ある己れ」を忠実に発揮する芸術についてのみ余は思索を費やして来たのである。団体が瓦解して個人だけが存在し、流派が破壊されて個性だけが輝く時期に即して、芸術を云々するのが余の目的である。」
 ここまでくれば結論が近い。批評家の果すべき役割について、文展の審査ということを通して手厳しく持論を展開する。
 「個人主義に傾きつつ発展するのが文明の大勢である。‥個性を発揮すべき芸術を批評するのに、自分の圏内に跼蹐して、同臭同気のものばかり撰択するという精神では審査などの出来る道理が無い。具現者ならば、己れに似寄ったものの換わりに、己れに遠きもの、己れに反したもの、少なくとも己け以外の天地を開拓しているものに意を注いで、貧弱なる自己の趣味性に刺激を与え、爛熟せる自己の芸術観を啓発すべきである。」
 これがこの連載の結論であろう。この文章にたどり着いた時点で私の言うべきことはいわれてしまったように感じた。

 現代の私の問題意識に沿って述べるとすると、漱石が述べていることは私が20歳の時に現代文学や政治や批評について学んだことでもある。あらゆる芸術について、国家や党派的思考からの脱却が、この漱石の文章ですでに語られている。漱石という文学者の偉大さがあらためて実感させられた。
 同時に漱石のいう「個人主義」の観点からこの文展の諸作品に対する漱石の辛らつな批評はなかなか鋭いと思うようになった。
 日本画で漱石が語った辛らつな評は、「同流同派という日本の画壇、芸術団体の持つ弊害に対する警鐘」という観点から出たものであることがわかる。漱石には「京都画壇」という存在そのものが、新しい日本画の展開の桎梏と映っていたようだ。その流派の作品、あるいは審査員の作品に対してはとても手厳しい。その流派の流儀にとらわれない作品に好意ある批評をしていたのである。
 これは新しい洋画の世界に対しても、流派的な傾向を嗅ぎ取った作品、審査員の作品には手厳しい。特に重鎮とされ、自らの作品の展開に新鮮なものが感じられないと判断した人に対する評は手厳しいものがある。その筆頭が黒田清輝だったような気がする。
 あの肩を露わにした黒田の和服姿の女性像など酷評された作品を見ると、私は画家と画家が描こうとしている対象である人物との関係が希薄だと感じた。画家があの女性のどのようなところに注目して、何を描きたかったか、漱石には理解できなかったのだと思う。私にはあの女性が息をして存在感を放っているのか、それははっきりはわからない。当時の女性について私はよくわからないこともある。
 それに較べて坂本繁二郎の牛は、新鮮な表現であると同時に、画家が牛を通してあの背景の自然と会話しているような生気を感ずるのは私だけだろうか。漱石は「考えている」と表現したが、私はあの牛は分解された光のひとつひとつと会話しているように感ずる。西洋の画にもない、これまでの日本画にもないと思われる牛と牛を取り巻く光が新鮮なのではないだろうか。牛はあの御宿の自然の中で間違いなく息をして生きている。そんな力を放っている。それは私が18歳の時にこのような知識が無いまま感じたものが、今でも新鮮に持続している。
 画家が対象との距離感を曖昧として、表現意識を希薄にすれば、それは新しい表現様式への挑戦も希薄となる。すぐれた表現による表現の様式化という発展形態もあることは認めるが、それは表現領域の拡大に繋がらなければ、停滞してしまう。大御所といわれる画家が、あるいは、画壇の「権威」が、国家という組織を背景としてそこに安住して「審査」という評をしてしまえば、それは「流派」あるいは党派的思考で固まった集団を作り上げてしまう方向へどんどん傾いていってしまう、と私は20歳のころ教わった。

 漱石は留学して英国の絵画を目の当たりにした。その絵画が貪欲に変化しながら新しい表現を獲得し変容していくのを学んだと思う。帰国後もその情報は得ていたようだ。また新しいアール・ヌーボーなどの潮流も取り入れている。日本の画壇が国家主導であることに異を唱えさらにその画壇が表現様式で停滞しようとしていることに、大いなる不満・危機を感じたのであろう。表現様式の停滞は芸術家にとっては致命傷である。

 話は飛躍するが、1960年代末の反乱というのはそのような、党派的な思考に安住した文化状況・社会状況・思想状況に対する「否」の氾濫でもあった。そういえばあの頃も、確かに夏目漱石が盛んに再評価されていたように思う。
 夏目漱石が今の時代に再び取り上げられるとしたら、この漱石の地平が再評価され、再度社会を振り返る契機となれば、これはうれしい。

 まとまりはないが、こんなことを考えながら、漱石の「文展と芸術」を読んだ。