住まいの安全 心の健康 住まい塾 21

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カラOK と 古本から

2016年08月22日 | 日記
 
  筆者の片想いの歴史は、ン~十年になるが、不思議な事に名前は、歌の文句に出て来る名前だけが、多い。  ヒロミ、ハルミ、アケミにミヨちゃん、タミちゃん、なのでカラオケでは選曲には困らないのだが、その当時は、一番男に必要な≪度胸≫と云う物を持ち合わせていなかった。 現在もかな・・・?  新築祝いの『建舞い』とかで職人連中が『一式』で飲み屋を占領した場合など歌い易いのだが、最近では職人チームも年嵩の進んだ人達ばかりで、そう云う儀式も少なくなり、かと言って、独りカラオケと云う所にも行き難い。  ちなみに、元妻の名前も≪ヨーコ≫、今は横浜辺りで生きているんだろうか・・。

  と云う理由でも無いが、PCキーボードを奏でているときは大抵バックには、カラオケのメロディーが流れている。  今現在は、コナン君でおなじみの下のURLのメロディーが流れている。  おーっと、これは唄が入っていますが・・・なにか・・。 https://www.youtube.com/watch?v=MP5lfp7hFxc


  カラオケの、年齢に有った唄と云われれば『杉本なんだら』と云う人の作曲した歌が、心の中にスッと、入って行くような気がしないでもない。



  する事も無しにネットを彷徨っていると、どうしても考えが偏ってしまう様な気もする。 それに落ち込んだ場合などは、俗に言う『マインドコントロール』状態と云うのだろう。  しかし、テレビでも「あなたは、大丈夫ですか~~」などと云うテレビ内容とか、朝から晩まで、『オリンピック番組』等を流し、あからさまに、国民の頭の中を『カラッポ』にしようと云う、作戦が見え隠れしている実情が無い訳でも無い。

  なので、居間の中で片隅に積んである、昔の本をパラパラとめくって現在の考えの偏りを歴史書の中で、補正しなければいけないことが良くある。
現在、国内であの≪パソナ≫のオエライサンであるあの方の、金、かね、カネ、の新自由主義が日本国内の10%ほどの支配層の中では、主流となっているし、国全体考えなければいけない、政治家や官僚の多くもそういう考え方に毒されている。


  次に引用する文章は、筆者が現代語風に一部書き換えた所も有りますので、ご了承いただきたいと思います。
   ***   以下引用   ・・・夜話 ***

  あなた方の様に、裕福でありながら、『充分』と云う事を知らずに、あくまでも『利』をむさぼり、不足を唱えるのは、 大人がこの湯舟の中に立って、かがまないで湯を肩に掛けて「湯舟が甚だ浅い、膝にも達しない」と罵るようなものだ。

  もし、湯を望むように深くすれば、 小人、童子は入浴できないだろう。
これは、湯舟が浅いのでは無くて、その者たちがかがまないのが、過ちであろう。  この過ちを良く知って屈めば、湯はたちまち肩まで達して、自ずから『十分」になる。 何も他に求めることも無かろう。

  世間で、裕福な者が不足を唱えるのは、こう云う事と何処か違うであろうか。 ・・・・・・・・・・・・・・

  湯舟は、大人が屈んで肩につき、小人は立って肩につくのが、≪中庸≫となる。
100億の収入者は50億に屈んで、50億の余裕を譲り、1000億の者は500億に屈んで、500億の余裕を譲る。 こう云う事が≪中庸≫であろう。

  もし、地域社会のうちのリーダー的一人が、こういう道を歩んだらば、人々は皆、分度を超える過ちを悟る事であろう。
人々がこの誤りを悟り、分度を守ってよく譲れば、地域社会は富み栄え、平和になる事は間違いない。

  
  湯舟の中で、お湯を自分の方に搔けば、湯は自分の方に来るようだが、みな向こうへ流れて帰る。 これを向こうに押せば、湯は向こうに行くようだが、又、自分の方へ帰る。 少し押せば少し帰り、強く押せば強く帰る。  これが≪天≫の理屈、(=真理)と云う事である。

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  鳥獣の手は、ただ自分の方に向いて引き寄せるのみで、人間の手は、おのれとは反対方向に向いている。  だから、人たるものは、他人の為に押す事が出来るのだ。
それを、自分自身の方へ手を向けて、自分の為に取る事ばかりを勤めて、 先の方へ手を向けて、他人の為に押すことを忘れるのは、人にして人ではない。 言ってみれば禽獣であろう。  恥ずかしい事ではないか・・・。    
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    ***  以上引用  終 中央公論/二宮翁夜話  ***


  ユダヤ人の様に、3000年の≪金貸し≫の歴史が有る民族と、≪義≫や≪仁≫に重きを置いてきた国民性のどちらが、天の意に沿う事に成るのか、今がその変遷期として重要な時期ではないのだろうか・・・。