住まいの安全 心の健康 住まい塾 21

住まいの安全性、食物の安全性、政治の危険性、感動の共有
心と体のリラクゼーション、誰かに秘密を話すストレス解消

日本古来の『恥の文化』

2010年03月12日 | 日記


 『恥の文化』は、後輩の心ある方達にしっかりと受け継いでもらいたい気がする。
自身も、そのように生きてきたつもりである。
グローバリズムに潜む、金銭万能主義にはその片鱗する見当たらない。 ホリエモンはその流れに乗った最たる人物であったのだろう。 『恥の文化』については前にも述べた気がするが、解りやすく説明してあるブログが有ったので、下記に引用する。


  *** 以下引用  ブログ博士の独り言より  ***
    http://specialnotes.blog77.fc2.com/

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「武士は食わねど高楊枝」、との謂(いわ)れをみなさまにはご存知のことかと思います。 武士たる者は、たとえ、生活に窮(きゅう)して食事を満足に出来ない状況にあったとしても、満腹を装って楊枝を使う、と。 この喩(たと)えは、よく「やせ我慢」を表す意味に用いられているようです。  しかし、そのより深い意味は、生活に窮しても不義、不行に手を染めず、との日本人の美徳を表すもので、そもそもの、大和の国の品位の高さを、武士の気位に約した喩えと謂えます。 どこぞの「恥」を知らない国の民とは、品位の上で格段の差が有ります。


 また、物事、事象を構造的にとらえ、諸事を関連付けて認識することを特長とする日本人にとっては、たとえば、空腹時に目の前に饅頭を出されても、手をつけずに、それが毒饅頭であった場合も含めて、その先に有り得るリスクを先ず考える。 それゆえの、「高楊枝」のスタンス、とも謂えます。
 ごく身近に、たとえば、国から「子ども手当」が出ると云われても、さぞ、有り難いことかも知れないが、日本人の美徳に照らしてみて、その「代金」は、果たして、先々で誰が支払うことになるのか、と。  そこで構造的にその先読みをする。


 大げさかもしれませんが、たとえ、乞食となっても恥に身を染めず、物事の筋道を違えたおかしな政党やカルトの世話にはならず、わが身には日本人の美徳に照らす誇りあり、と。 おそらく、この信条は、多くの国思うみなさまが、ごく当たり前に共有しておられる信条と拝察しております。 そこにまた、英邁に事象を見抜く日本人の特質を発揮できるものと思います。
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  ***  以上 引用 終  ***


 日本には、古来から伝わった慎ましやかな『DNA』が、日本人の体の隅々まで、行き渡っています。  少しづつなら、性格がグローバリズムに馴染んで行くでしょうが、海外で反日教育を受けた人々には、「そんなことは、あるはずが無い!」 と日本人の常識で図っては、「恥の文化」 は消滅の危険があります。

日本の常識は、世界の非常識。  言い得て妙。 まさに日本人では想像の付かないような方法で、日本人が日本から駆逐される怖れが有ります。 其れが、韓国人かアングロサクソンかは、読者のご想像にお任せしたいと思います。






参議院議員・尾辻秀久

2010年03月12日 | 日記
 前に上げたかも知れないが、

 ユーチューブ、故山本議員への追悼演説。

http://www.youtube.com/watch?v=Xg3dANg_RfM

本当の魂の座った人が、少なくなったことは、残念です。

時代を読んで、波頭をスイスイと、要領よく進むだけの人は御免こうむりたいものです。

政治は、血の通った政策で無ければなりません。 参議院は選挙に行こう・・・。


アカデミー賞・イルカ・日本の食文化

2010年03月12日 | 日記

 アメリカ、オーストラリア、他の国々が、日本の食文化に『言いがかり』をつけているが、一連のアメリカの日本攻撃を見れば、この事情がアメリカの裏工作で作られていることは、容易に想像がつく。 何の為かは、ここでは触れませんが…。
キリスト教、ユダヤ教文化圏では、自分達以外は『神』がその者たちの生活に供する為に、準備してくれたとの選民意識が強い。

私達にしてみれば、『うし』、『ひつじ』、『ぶた』その他を食する、所謂西洋人は何様だと言いたい。  『いぬ』は知的な動物か、『イルカ』は知的な動物か、『黒人』は知的な動物か、黄色人は知的な動物か、彼らの判断は、彼らの都合によって決るのである。

『イルカ』、『クジラ』の生態系の中での生存実態のデータで畜産国を、納得させ、他の国々の同意を取り付けられるような方策を、国を挙げて執る必要に迫られているのではないか。 問題を大きくしないで先送りしておけば、政治家の身分は安泰かもしれないが、このままではアメリカ共々ずぶずぶと闇の中に沈んでいく。

  *** 以下引用  池田信夫ブログより ***
   http://ikedanobuo.livedoor.biz/
和歌山県のイルカ漁を撮影した映画"The Cove"がアカデミー賞を受賞した。 私はその映画を見ていないが、受賞の言葉で「日本人はイルカを食うべきではない」などと語っているのを見ると、その政治的意図は明らかだ。 この種の過激派は、グリーンピースやシーシェパードなどよくあるが、アカデミー賞を受けたとなると、その影響は無視できない。

イルカを年2万頭殺すことが残虐なら、年3500万頭の牛を殺すアメリカ人は何なのか。 デリダもいうように、高等動物と下等動物の区別には意味がなく、人間と動物の境界も恣意的なものだ。 たとえば新生児を殺したら殺人だが、妊娠3ヶ月で中絶するのは犯罪にはならない。 逆に、かつては老人を「姥捨て山」に遺棄することは犯罪ではなかった。殺してはならないものの境界を決めるのはそれぞれの時代や地域の文化であり、絶対的な基準はない。

ところがキリスト教文化圏は、すべての人類に普遍的な倫理があると信じる特異な地域だ。 さらに人間が神の姿に似せてつくられたという特権意識をもち、すべての動物は人間のために殺されるのが当然だと考える人間中心主義が強い。 「イルカは賢いから殺すな」という主張の根底には、黒人などの「劣った民族」は殺しても奴隷にしてもよいという自民族中心主義がある。

これが昂じると、「地球を守れ」という倒錯したキャンペーンになる。 冷静に考えればわかるように、人間が自然の中心として地球を守るという思想は、天動説にも等しい。 地球上の生物の圧倒的多数はバクテリアであり、人類が死滅しても地球上の生態系にはほとんど影響しない。 太古のままの地球を守ることが環境保護だとすれば、そんな自然はすでにほとんど存在しないし、それを守ること自体には何の意味もない。 環境保護は、あくまでも人間の問題なのである。

ホルクハイマー=アドルノも指摘するように、自然を支配の対象と考える啓蒙的な合理主義が自然破壊をもたらしたが、それによって近代社会は歴史上、類のない豊かさを実現した。啓蒙が反自然的だという批判は正しいが、それを否定するなら、自然を搾取する産業社会を捨て、すべての動物の肉を食うのをやめ、化石燃料をやめて山の中で隠遁生活をするしかない。

いいかえれば、無数の生命を虐殺し、自然を破壊することは近代人の原罪であり、この罪から無縁な人間はいないのだ。 それを認識しないで、CO2の削減が「文明の転換」だなどという経済学者は、西洋文明への無知をさらしている。 欧米人が彼らの自民族中心主義を信じるのは自由だが、
そういう偽善を無批判に輸入して「地球のいのちを守れ」と施政方針演説で語る首相は、日本の恥である。
  *** 以上  引用  終 ***


 時節柄、『トキ』が近くに住む『テン』によって、10羽近く殺された。
だからと言って、ヒステリックに『テン』を皆殺しにする訳にもいかない。
要は、自然の摂理の仲で人間も動物も、共存して生きる事を目指さなければならないのであろう。 極めて注意深く・・・と言う抽象的な言い回しは嫌いだが、具体的数値に置き換えようが無い。
アメリカを、ディベートで納得させるには、数値と理屈が必須で有る事は間違いない。
日本の知恵を、集約してそれでもかなわなかったら、仕方が無い。