鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.9月取材旅行「大麻生~押切~上新田」 その1

2013-11-08 05:27:04 | Weblog
渡辺崋山が三ヶ尻村の調査のために、桐生新町の岩本家を出立し、大麻生村の古沢喜兵衛(槐一〔かいち〕)宅に到着したのが、天保2年(1831年)11月(旧暦)の何日のことであったかは、まだ確定することはできていません。しかし『訪瓺禄』(ほうちょうろく)に収められている「路程図」の中の記載により、崋山が11月7日(旧暦)に「前小屋の渡し」で利根川を渡ったのは確実であり、その夜、中山道深谷宿に泊まったと思われるから、大麻生に到着したのは8日か、あるいは遅くとも9日のことということになります。大麻生村の古沢喜兵衛宅に到着した崋山は、喜兵衛から、古沢家の来客用の立派な離れ(「松蘿園」として現存する)を宿泊する場所として提供を受け、そこに三ヶ尻調査を終えるまで長期滞在することになりました。では他のところには泊まっていないかというとそうではなく、三ヶ尻村の黒田平蔵(幽鳥)宅や押切村の持田宗右衛門(逸翁)宅にも短いながらも宿泊しているものと思われます。三ヶ尻村の黒田平蔵(幽鳥)宅には、崋山は大麻生村から古沢喜兵衛の案内で初めて訪れたものと思われる。武体(ぶたい)村を経由して、田んぼの向こうに亀の甲のように盛り上がる観音山(三ヶ尻観音山)を左手に見ながら、三ヶ尻村へと入って行きました。押切村の持田宗右衛門宅には、崋山は荒川を徒歩で渡って出向きました。おそらく大麻生村の古沢家から出掛けたものと思われる。押切村というのは、現在の熊谷市押切であり、大麻生から見れば南側を東西に流れる荒川の対岸に位置します。荒川の流れ(流路)は現在のそれと天保2年のそれとは大きく異なっているはずですが、距離としては1.5kmほど。荒川を徒歩で渡ったとしても、歩いて小半時(約30分)ほどの距離。その押切村とはどういう村であったのか、またその押切村の西側に位置する上新田(かみしんでん)村とはどういう村であったのか(上新田村は三ヶ尻村の黒田平蔵〔幽鳥〕が生まれ育ったところ)、それらを確かめてみたく、大麻生から荒川を押切橋で渡り、荒川南岸を歩いてみました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む

「企画展 渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美」について その最終回

2013-11-05 05:32:29 | Weblog
今回、いつもの週末の取材旅行の行き先としては遠かったのですが、田原市博物館の企画展(田原市制施行10周年・渡辺崋山生誕220年・田原市博物館開館20周年記念企画展)に出掛けたのは正解でした。一連の展示作品を観て、それぞれの完成された作品はもちろんのことながら、崋山や椿山の縮図冊の膨大なスケッチ類に大きな感動を覚えました。まずその日々怠らない丹念な作画姿勢。心を動かされたり興味関心を持ったものについて、分野を限らずに、記録しスケッチをしていること。それを生涯にわたって続けています。これは師である谷文晁の真摯な作画姿勢を受け継いだものであるでしょう。そしてそれぞれの縮図冊に描かれたラフスケッチに、崋山や椿山の画家としての画力や、さらに人柄が十二分に現れていて、それが魅力的だったこと。また私にとっては、崋山や椿山が描く、花や鳥や小動物(魚や爬虫類、両生類、昆虫類を含む)の絵の方こそ、もしそれが手に入れられるのならば、手に入れて身近に飾っておきたい、と思わせるものであったこと。それらのことを知ったことが、今回の取材旅行の有意義であったことでした。「花・鳥・動物の美」という企画展テーマをポスターで見掛けて、「ぜひ行きたい」と思ったことが、すでに私の中に、崋山のいわゆる「花鳥画」に強く惹かれるものがあったことをあらわしているのかも知れません。田原市内を歩くと、「崋山の里」と記された、崋山の「花鳥画」を中心とした絵が印刷された案内板をあちこちで見掛けます。それには「花卉鳥虫蔬果冊より」などと記されています。描かれているのは花と昆虫であったりする。その昆虫は、崋山によって、小さな命を持った「生きもの」として生き生きと描かれています。それには対象を観る崋山の、小さなものに対する優しさがにじみ出ているような気がします。以前、この田原市内を散策して、そのような案内板をあちこちで見掛けたことが、「花・鳥・動物の美」という企画展示をぜひ観たいと思わせた遠因であるのかも知れません。 . . . 本文を読む

「企画展 渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美」について その9

2013-11-04 05:53:07 | Weblog
小田野直武の「不忍池図」における芍薬の花は、沈南蘋(しんなんぴん)流の描き方であり、崋山も、「蘆汀双鴨図」(文化11年)からうかがえるように、「谷文晁の画塾写山楼で目にすることができた伝統的な写生画の代表格として沈南蘋作品を受容」していました。しかし次第に南田(うんなんでん)の作風に惹かれていったようだ。崋山には、「南蘋は北画」、「南田」は「南画」という認識があったようであり(『絵事御返事』)、花鳥画においては特に南田を評価していました(『画楽答書』)。写生をもととするのはもちろんであるけれども、写生がすぐれていればいいかというとそうではなく、そこに風韻風趣があることが大事であるというのが、崋山の基本的な考え方でした。南田の花鳥画からは、そのような風韻風趣を崋山は強く感じ取ることができたのです。「花葉の形、渾(本当は「」-鮎川注)南田に宜敷、花葉之形一々其の流れ流れに似かよひたる処を当てゝ宜敷申し候」(『画楽答書』)と書き送った相手は、『游相日記』や『毛武游記』の旅(三ヶ尻調査を含む)において、崋山に同行した高木梧庵でした。 . . . 本文を読む

「企画展 渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美」について その8

2013-11-03 05:02:28 | Weblog
小田野直武(1745~1781)が「富嶽図」を描いたのはいつのことか。それがわかるのが今橋理子さんの『秋田蘭画の近代』のP149の記述。直武は安永6年(1777年)の12月24日(旧暦)、秋田への帰国を前に江戸に在った主君佐竹義躬のもとを訪れ、その際に相良特産のワカメを贈っているという。このことから、直武が相良へ旅をしたのは安永6年12月下旬にそれほど遡らない時期だったのではないかと推測されているとのこと。つまり直武が「富嶽図」を描いたのは、安永6年(1777年)のことであるということになります。直武は数えで33歳の冬(おそらく12月中旬)、東海道を西行し、清水から三保の松原へ出て駒越あたりで「富嶽図」を描き、御前崎手前の相良(さがら)あたりまで赴き、藩主への贈り物としてワカメを購入したというのです。直武はその際、沼津宿の手前の黄瀬川でも富士山の「真景図」を描いているらしい。その「紅毛流の正うつし」の絵は、後に京都へ旅した秋田藩江戸留守居役平沢常昌(つねまさ)が、黄瀬川に架かる橋を渡った時に思わず思い出してしまったほど、平沢にとって脳裡に刻まれるものであったようです。「不忍池図」の芍薬の花の背景として描かれる不忍池の風景は、まさに「紅毛流の正うつし」であり、それを観る人々は、手前の沈南蘋(しんなんぴん)流の芍薬の花よりも、それや樹木の幹などによって強調された、その向こうに広がる水面や雲や空を含む対岸の風景の伸びやかさ(「紅毛流の正うつし」=西洋流の真景図)に、きわめて強い印象を受けたのではないだろうか。 . . . 本文を読む

「企画展 渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美」について その7

2013-11-02 05:09:36 | Weblog
田原市博物館が出版した、やはり企画展の図録で『江戸後期の新たな試み-洋風画家谷文晁・渡辺崋山が描く風景表現』というのがあり、それに収められている鈴木利昌さんの「江戸後期の風景表現」によれば、関東の文人画は、松平定信(1758~1829)の御用絵師であった谷文晁(たにぶんちょう)から始まり、その文晁は、南宋画に北宋画を調和させ、狩野派・南蘋派・やまと絵、さらには洋風画をも学んで、江戸画壇に新風を吹き込んだ、という。文晁の、「遠近法を自然に生かした風景スケッチなどは、彼の現実を把握する眼の確かさを示し、渡辺崋山・立原杏所(たちはらきょうしょ・1785~1840-鮎川注)ら弟子たちに受け継がれていくすぐれた仕事である」とも指摘されています。崋山の風景画が、谷文晁の影響を強く受けていることはまず間違いありません。では、日本の実景を題材として、初めて「真景図」を描いた画家は誰かというと、それは池大雅(いけたいが・1723~1776)であったらしい。池大雅は、江戸において野呂元丈(のろげんじょう・1693~1761)から西洋画(銅版画か)を見せられ、真景図の足がかりを得たという。「西洋の遠近法や陰影法は、狩野派ややまと絵を見慣れていた日本の人々に驚きをもって迎えられ」ましたが、池大雅もまたその一人であり、さらに小田野直武や司馬江漢、谷文晁らもそうでした。先に挙げた企画展示の図録をみてみると、小田野直武の作品としては、板橋区立美術館寄託の「不忍池図」(反射式眼鏡絵の構図であるため左右反転している)や「富嶽図」があり、2枚とも空間の伸びやかな広がりを感じさせるものです。直武にとって江戸上野の不忍池は身近なところでしたが、駿河国の富士山はそうではありませんでした。直武は実際にこの地点に立って、この富士山の「真景図」を描いたはず。ではその立ち位置(描いた場所)はどこかというと、駿河湾越しに三保松原を中景として富士山を描いていることから、現在の静岡県静岡市清水区駒越あたりの海岸であると推測することができます。 . . . 本文を読む

「企画展 渡辺崋山・椿椿山が描く 花・鳥・動物の美」について その6

2013-11-01 05:15:26 | Weblog
沈南蘋(しんなんぴん)や南田(うんなんでん)とともに気になる画家は、小田野直武(1749~1780)です。小田野直武に関心を持ったのは、『秋田蘭画の近代 小田野直武「不忍池図」を読む』今橋理子(東京大学出版会)を読んだことにあります。その口絵のいくつか(1、3、6、7)を見た時、いわゆる「真景図」というのは小田野直武に始まるのではないか、と思ったほどでした。同書に掲載されている絵図としては、図5の「冨嶽図」、図9の「不忍池図」(肉筆眼鏡絵)、図21~図26など。これらの作品を見ていくと、谷文晁や渡辺崋山、あるいは歌川広重の肉筆画などにみられる「真景図」につながっていくものを、濃厚に感じます。この小田野直武の西洋的な風景画(「不忍池図」のような花鳥画の背景画も含めて)は、後の画家にかなりの大きな影響を与えたのではないかと思われます。田原市博物館の企画展に展示されていたのは「鷺図」ですが、この背景になっている左下隅の湖のようなところは、実は上野の不忍池ではないか、と小田野直武の「不忍池図」『秋田蘭画の近代』の口絵1(秋田県立美術館蔵 重要文化財)を観てみると、思われてきます。同書に紹介されている成瀬不二雄氏の研究によれば、小田野直武は、「江戸時代で最も早く西洋画法を開拓したことだけ」にとどまらず、「直武の画業は江漢(司馬江漢-鮎川注)に継承されることにより、江戸系洋風画の出発点になったことに重要な歴史的意義を有する」と指摘されており、その「江戸系洋風画」の系列の中には、当然、谷文晁や渡辺崋山、そして歌川広重などが入ってくるものと私は考えています。 . . . 本文を読む