鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.12.「横浜道~海岸通り」 その8

2007-12-09 07:23:55 | Weblog
外国人居留地には地番が振られていました。それがよくわかるのが、一川芳員の「横浜明細全図」(慶応4年〔1881年〕・『絵とき横浜ものがたり』P148~149)。この絵には一番から一七十六番まで振られている。一番は東波止場を上がったすぐ左手。そこから海岸に沿って、山手方向へ、二十番まで地番が続いています。この「一番」がジャーディン・マセソン商会があったところで、現在の「シルクセンター」(「シルク博物館」)の所在するところ。東波止場と西波止場の間に「御蔵」があり、その奥左手に「御役館」、右手に「御蔵」と「町会所」がある。これより7年前の外国人居留地の姿は、玉蘭斎橋本老父(五雲亭貞秀)の「御開港横浜大絵図二編外国人住宅図」(文久元年〔1861年〕・『絵とき横浜ものがたり』P110~111)で伺うことが出来ます。画面右端の下に描かれているのが東波止場。波止場を上がったところに番小屋があり、その背後が「水神の森」(水神社があって玉楠の大木が聳える)と「御役宅」。「御役宅」の通り隔てた隣は「御運上屋舗」(運上所)で、番小屋と運上所の間には門がある。その「御役宅」と運上所の背後にも「御役宅」が連なっています。東波止場を上がった左手に描かれている白壁の2階建の建物が、イギリスの商会である「ジャーディン・マセソン商会」(すなわち「英一番館」)。貞秀は、外国人居留地の建物1軒ずつの国籍と地番を緻密に描きこんでいる。よほどこまめに歩き回ったに違いない。その前年の「神奈川横浜二十八景之内」(万延元年・『絵とき横浜ものがたり』P104~105)を見ると、この2階建の建物はまだ描かれていない。居留地の建物はみんな平屋。2階建の西洋風建築は、どうもこの「英一番館」が「一番」早く建てられたもののようです。この「英一番館」をクローズアップしたものが見られるのが、やはり貞秀の「横浜純宅之図」(文久元年・『絵とき横浜物語』P100~101)と「英一番館」(万延元年・『横浜土産』より・同P194~195)。「純宅」とはドンタクのこと。この「横浜純宅之図」の右端に描かれているのが「英一番館」の入口付近。黒い門の両側には板塀があり、窓にはカーテンが掛かっている。「英一番館」の絵では、敷石と石段、そして正面入口が描かれています。窓には赤い「更紗」(さらさ)のカーテンが掛かっていたとか。壁は白の漆喰塗りでした。 . . . 本文を読む

2007.12.「横浜道~海岸通り」 その7

2007-12-08 08:28:36 | Weblog
江戸方面から東海道を通って横浜へ赴く場合、神奈川宿の先、芝生(しぼう)村の浅間(せんげん)神社下より左折し、「横浜道」をもっぱら利用したかというと、実はそうではなく、神奈川宿の洲崎明神下の船着場(「宮之河岸(かし)渡船場」)から渡し舟に乗って袖ケ浦を横切り、横浜の渡船場に赴くことが多かったようです。横浜から江戸に向かう場合もそう。陸路は時間がかかる。海を行く場合は、歩く必要も無く、時間も短縮されるし、海が荒れていなければ快適そのもの。神奈川宿洲崎神社下の「宮之河岸渡船場」付近が描かれている絵は、歌川(五雲亭)貞秀の「東海道神奈川之勝景」(万延元年〔1860年〕・『横浜浮世絵と近代日本─異国“横濱”を旅する─』P56)。手前に描かれた石鳥居が洲崎神社の石鳥居。その前に左右に伸びるのが東海道。洲崎神社の石鳥居前を真っ直ぐに海の方へ行くと、「渡口」(わたしぐち)と書かれたところがありますが、その左に小さく突堤と灯明らしきものが描かれています。これが渡船場。将軍家茂の行列が通過するためか、船着場には渡し舟が一艘もなく渡し舟を待つ人々もいない。波止場付近はきわめて閑散としています。実際の渡船場はもっと大きかったと思われます。ここから横浜の渡船場までの「航路」が描かれた絵が、一川芳員の「横浜明細全図」(慶応4年〔1868年〕・『絵とき横浜ものがたり』P148~149)。右手前の「宮之河岸渡船場」(右側に会所、左側に番所がある)より「横濱渡船場」まで真っ直ぐに線が引かれています。「横濱渡船場」を上がると、突堤の根元左手に番所、右手に「仏役館」「デ子マルカ役館」「プロシュン役館」が並んでいる。「役館」は領事館のこと。この「横濱渡船場」付近は、三代広重の「横浜海岸フランス役館之景」(明治4年〔1871年〕・『絵とき横浜ものがたり』P136~137)で詳しく描かれています。中央に帆を揚げているのが渡し舟。船尾の船頭は左手に櫂(かい)棒を握り、乗客は男女10人ほど。舳先には柳行李(やなぎこうり)と洋傘が置かれています。左側の2階建ベランダ付きの建物はフランス公使館。右端には弁財船、その奥に鉄道(蒸気車)が描かれています。富士山が描かれていますが、この位置からは富士山は見えないはず。海岸は石積みされ、その手前に杭が並んでいます。もとは杭と板と盛り土で出来ていた渡船場でした。 . . . 本文を読む

2007.12.「横浜道~海岸通り」 その6

2007-12-07 06:35:59 | Weblog
五雲亭貞秀はやはりすごい浮世絵師である。「鳥の目」を持つ貞秀は、まさに鳥のように自由に空を飛び、思いのままに旋回し、上空のいろいろな角度から開港地横浜の景色を描き出す。その貞秀の類(たぐい)稀な才能の躍如たる一枚が、「東海道名所之内 横浜風景」(万延元年〔1860年〕・『横浜浮世絵と近代日本─異国“横濱”を旅する─』〔神奈川県立歴史博物館〕P42~43に掲載)。何がすごいかというと、江戸の羽根田(羽田)沖や川崎の大師河原辺りから、川崎・鶴見・生麦・東子安・西子安・神奈川(新町・台町・青木町)を経て、「横浜道」全景(芝生〔しぼう〕村→新田間〔あらたま〕橋→平沼橋→石崎橋→戸部村→戸部坂→野毛の切り通し→野毛橋→吉田橋)、さらに本町一丁目→海岸町一丁目→日本人町→外国人居留地→横浜村→増徳院→北方村→本牧→十二天社までを、一続きのパノラマ絵に克明に描き出しているからです。もちろん港崎(みよざき)町の遊郭街も描かれているし、弁天の杜(もり)も描かれている。視点は、吉田新田の上空であったり山手の上空(百段坂の上にあった浅間神社の上空)であったり、今の石川町の上空(イタリア山公園の上空)であったりと、いくつかの視点を複合して描き出しています。神奈川奉行所がどう描かれているかと見てみると、野毛の切り通しの途中で折れた「不動山」の辺りにあるはずですが、何か小さな建物らしきものは点在しているものの、奉行所らしき大きな建物は描かれていない。ベアトが幕末の横浜全景を写した野毛山の地点は、この絵を見ると、野毛坂を登って左手に入った金毘羅(こんぴら)社の付近かと思われます。野毛橋(現在の都橋)が架かる大岡川の川沿いには漁師舟が浮かび、吉田橋を港側へ渡った左手には番所(関門)がある。袖ケ浦や横浜の港の沖合い、また左右いっぱいに広がる江戸湾には、無数の和船(1枚帆)とともに西洋の船(3枚帆)も浮かんでいます。また本牧(ほんもく)の十二天社の下の磯の付近では、小さな舟で群れになって漁をしている漁師たちの姿も見られる。横浜道や弁天通りには無数の人々が行き交い、港崎町の遊郭街や野毛山の麓(ふもと)、横浜村などには、今を盛りと桜が咲き誇っています。 . . . 本文を読む

2007.12.「横浜道~海岸通り」 その5

2007-12-06 06:12:25 | Weblog
またまた五雲亭貞秀の「横浜浮世絵」の登場。絵は「横浜本町景港崎街新廓」(万延元年〔1860年〕・『絵とき横浜ものがたり』P80~81掲載)。野毛方向から見た横浜開港地の景色をズームアップして描いたもの。手前に木造の吉田橋。橋を渡るとすぐに門があって、通り左手に小さな建物がある。これが吉田橋の番所(関所)。横浜開港地の関門は、この吉田橋以外に、暗闇坂(保土ヶ谷道)・石崎(横浜道)・芝生(東海道と横浜道の分岐点)・台町(神奈川宿)・子安にまず設置され、後に堀川が開削される(万延元年)と、谷戸橋・前田橋・西之橋に設けられました(堀川筋三関門)。この吉田橋関門から、海(袖ケ浦)と水田(太田屋新田)の境に盛り土(石垣が見える)して造った一本道が延び、その突き当たりが川のような入海を隔てて弁天社(弁財天社)の杜(もり)。その突き当たりを右折してすぐに左折すると、やがて右手に伸びる大通りが本町通り。さらに道を進むと、突き当りの海には帆掛け船が一艘停泊しています。ここから波止場までの海岸沿いは通りはなさそうで、長屋みたいな建物と蔵屋敷が軒を並べています。波止場から、日本人町と外国人居留地の間を通る道は、真っ直ぐに港崎(みよざき)遊郭方面に延び、突き当たりの高札場の手前を左折すると、堀に架かる橋を渡って港崎町に入る。入って左手に「五十鈴楼」と「岩亀楼」という大きな遊女屋がある。さて吉田橋関門ですが、ここには浅葱色(あさぎいろ)の長い羽織を着た番人が詰めていました。その着ている着物の色から「菜葉(なっぱ)隊」と呼ばれていたそうです。この関門で、「お頼み申します」と言うと、「どうれ」と長い青い羽織の番人が出て来て、「どこへ行く」「何人で行く」「何をしに行く」とか問いただした後に、「通れ」と言って、「チャキチャキと拍子木(ひょうしぎ)を打って中へ知らせ」たという。この「菜葉隊」は、攘夷浪人から外国人を守るために編成された幕府の警備隊。万延元年には同心・上番が70名、下番が173人もいたとのこと(『横浜市史』第2巻による)。貞秀の絵をよく見ると、外国人居留地の屋敷の周りには厳重に板塀がめぐらされており、警戒が厳しかったことがよくわかります。 . . . 本文を読む

2007.12.「横浜道~海岸通り」 その4

2007-12-05 06:26:47 | Weblog
安政6年6月2日(1859年7月1日)の神奈川開港に向けて、幕府側とアメリカ領事ハリスとの折衝が繰り広げられます。安政5年(1858年)の12月、ハリスは神奈川に来て現場を視察していますが、それを受けて安政6年の2月初旬には、神奈川宿本陣において、外国奉行永井尚志(なおゆき)・同井上清直・同堀利熙(としひろ)とハリスの間で会談が行われ、またその月中旬には外国奉行水野忠徳(ただのり)・同堀利熙・同村垣範正(のりまさ)とハリスとの間で、やはり神奈川宿本陣において会談が行われています。幕府側は、神奈川の中に横浜村を含めて考え、横浜村を開港地として提案しますが、ハリスは頑として拒否。横浜村は不適当で、神奈川宿本陣から200間(およそ360m)ほど離れた、神奈川台場のある付近が適当であると主張します。しかし外国奉行は横浜村を適当とする考えを押し通し、ハリスの反対をよそに、その年3月3日には、現地で勘定奉行・目付らと協議の上、港都横浜建設の具体的計画を決定しました。そしてただちに横浜開港場の建設工事が始まったのです。そして3ヶ月後には、建設工事は大部分が終了していました。建設はたいへんな突貫工事で進められたことになります。「横浜道」は、その港都横浜建設の一環として、東海道(芝生村)と横浜を結ぶ陸路として造られたのです。 . . . 本文を読む

2007.12.「横浜道~海岸通り」 その3

2007-12-04 03:25:23 | Weblog
石井孝さんの『港都横浜の誕生』(有隣新書)によれば、欧米諸国との貿易を「富国強兵」の基本と捉え、幕府要職から出された最初の横浜開港論は、安政3年(1856年)7月、海防掛(かかり)目付から出された上申書でした。この海防掛目付を構成したのは、岩瀬忠震(ただなり)・永井尚志(なおゆき)・堀利熙(としひろ)・大久保忠寛(ただひろ)など。この上申書を受けて、時の筆頭老中阿部正弘は、その年8月、「欧米諸国との通商開始が近いことを予想し、それに応じて、日本でも『交易互市の利益をもって富国強兵の基本』にするという方針を宣言」しました。横浜開港論、すなわち海外貿易による「富国強兵論」、つまりは鎖国制度廃止論を推進した幕府内勢力を、石井さんは「海防掛体制」と呼んでいますが、その中心は岩瀬忠震でした。安政4年(1857年)10月、下田駐在のアメリカ領事ハリスは、江戸に赴いて、時の筆頭老中堀田正睦(まさよし)と会見していますが、天竜川のほとりでハリスの江戸での言説に接した岩瀬は、老中への意見書を認(したた)め、その中で、横浜開港論を展開します。横浜開港は、「天下の利権を御膝元(おひざもと=江戸)に帰し、万世の利源を興し、中興一新の御鴻業」を立てる基本だというのです。その年12月から翌年1月にかけての堀田とハリスの会談により神奈川(幕閣の頭では横浜村を含む)を開港場とする方針が決まり、安政5年6月19日(1858年7月1日)、アメリカ軍艦ポーハタン号上で「日米修好通商条約」が調印されたのを皮切りに、同年9月までにオランダ・イギリス・フランス・ロシアとも通商条約が調印されて(「安政の五ヶ国条約」)、安政6年6月2日(1859年7月1日)を期して、神奈川が開港されることとなったのです。安政5年の8月4日、外国奉行の永井尚志・井上清直・堀利熙・岩瀬忠震ら(多くはかつての海防掛目付)は、江戸を出立して神奈川へ視察に赴きますが、彼らの目に、戸数100戸ばかりの「陸の孤島」とも言える横浜村は、どのように写っていたことでしょう。 . . . 本文を読む

2007.12.「横浜道~海岸通り」 その2

2007-12-03 06:23:22 | Weblog
石井孝さんは『港都横浜の誕生』(有隣新書)の「はじめに」の中で、「港都横浜は、当時の国際情勢に応じて、徳川幕府という政治権力が、農漁村横浜の完全な否定の上に創り出した」ものだと述べられています。文政年間の『新編武蔵風土記稿』によれば、「民戸八十七、東西十丁又は十七丁の処もあり、南北も大抵十八丁程なり。水田少く陸田多し。爰(ここ)も天水にて耕植す」というふうに、19世紀前半までは「陸上の孤島」とも言えるひなびた村に過ぎませんでした。この横浜村に最初に上陸した外国人は、ペリー艦隊のアダムス参謀長とサスケハナ号のブキャナン艦長。彼らは嘉永7年(1854年)の1月28日(旧暦)に、通訳のウィリアムズと部下30名を従えて、2隻のボートで横浜村の浜辺に上陸しています。ウィリアムズの目の前に広がった横浜村の風景は次のようなものでした。「土地はよく耕作されているが、住家は貧弱なものであった。村の道端には、下肥や、堆肥や、その他肥料になるものを混入し、蒸発しないように藁(わら)で蓋(ふた)をした大桶がたくさん並べられていて、不快な匂いを漂わせている。家屋はそのほとんどが梁(はり)、横木の骨組と泥土の壁、藁とでできている。板囲いの住家も二、三見られた」(『ペリー日本遠征随行記』)。突然の異国人の上陸は、横浜村の人々にとっては驚きだったことでしょう。多くの家は戸を閉ざしていたものの、村人たちの中には上陸した異国人を見物に出てきた者たちもいたようです。ウィリアムズは、「血色がよく、栄養も十分と思われる」男たちや、「貧しいながらも持てる衣類全部を着込」み、「眉を剃り落としていて奇妙な感じ」の女たちを見掛けています。彼らアメリカ人たちが横浜村に上陸したのは、江戸での会見を迫るペリー側に対して、幕府側が会談の場所として横浜村を提案したためでした。ペリーから横浜村の視察を命じられた彼らは、目印の杭を打ち込み、再びボートに乗り込んで沖合いに浮かぶ本船に戻っていったのです。 . . . 本文を読む

2007.12.「横浜道~海岸通り」 その1

2007-12-02 09:19:49 | Weblog
横浜市開港記念会館で、横浜開港資料館主催の講演会、「幕末維新の英外交官、アーネスト・サトウと歴史家・萩原延壽」があると知ったのは、先日、横浜都市発展記念館の「写された文明開化─横浜 東京 街 人びと」という写真展を観に行った時のこと。講師は杉山伸也さんと林望さん。演題は、杉山さんが「孤高の歴史家・萩原延壽さん」で、林さんが「旧蔵書から見たサトウと日本」。萩原さんの著作(『遠い崖』・『馬場辰猪』・『陸奥宗光』)はかつて読んでたいへん参考になり、また今後もじっくり読んでいきたいと考えていたので、きっと得るところが多いだろうと聴講を希望。往復はがきで申し込んだところ参加票が送られてきました。せっかく横浜に行くのに、講演会だけではもったいないので、かねて歩きたいと思っていた「横浜道」から「海岸通り」までの道筋を歩いてみることにしました。「横浜道」は、横浜開港に合わせて幕府が突貫工事で作った、東海道から分岐し横浜の吉田橋(関門)に至る道。各地からの生糸が横浜へと運ばれる「絹の道」でもありました。かつて保土ヶ谷宿を取材した時に、芝生(しぼう)村から「横浜道」が分岐していることは知りましたが、実際どこから分岐しているかは確認していない。今回はそれを確認するとともに、往時の面影をたどって吉田橋まで歩き、さらに海岸通りの尽きるところ、堀川に架かる山下橋まで歩いてみることにしました。 . . . 本文を読む