鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-野田尻から犬目を経て大月まで その14

2017-08-15 07:16:25 | Weblog

 

 他に展示されていたのは川漁の漁具や炭俵、馬の荷鞍など。

 女たちによる機織りによる稼ぎや、男たちによる川稼ぎ、山稼ぎ、駄賃稼ぎなどが、現金収入を得る大きな手段であったことが伺えました。

 一方で、江戸時代初期、秋元氏が谷村(やむら)藩主であった時に新田開発が進められたことが「五ヶ堰(ごかせぎ)」の展示パネルでわかりました。

 解説によると、「五ヶ堰」というのは、江戸時代の寛文元年(1661年)~寛文9年(1669年)頃に完成したもので、現在の都留市田野倉(たのくら)から猿橋まで続く用水路。

 田野倉・大月・猿橋・殿上・猿橋の5つの村を通る用水路で、谷村藩主の秋元泰朝(やすとも)や喬知(たかとも)によって建設が進められたもので、全長約8kmにおよび、その建設は困難を極めたようです。

 秋元氏といえば泰朝が谷村藩初代藩主であり、上州総社藩主から移封されて来た時に、絹織物の生産技術を郡内に移入し、絹織物生産を奨励したことで知られています。

 「郡内織」は、オランダやポルトガルより輸入された「玉虫海気」の影響をうけて作られ、やがて「海気」と呼ばれるようになったというのは、先に見たパネルの解説で知ったことですが、オランダやポルトガルから輸入されたということは、いわゆる「南蛮貿易」や長崎のオランダ商館を通して日本に入ってきた織物の影響を受けたということであり、南アジア(インド)や東南アジアなどで生産されていた織物の影響を受けたものと考えられます。

 辞書などによると、「海気」というのは、南蛮船で更紗(さらさ)などと共にもたらされたインド地域の薄い絹の生地がルーツとされるもので、少しだけ撚(よ)りをかけて高密度に平織りされたもの。

 撚り数が少ない絹糸を使うために、大変な手間と多くの工程を経て生産されるものであるという。

 この織物技術が導入されたのが秋元氏が谷村藩主であった時なのか、それとも秋元氏が総社藩主であった時なのか、といったことはよくわかりませんが、「郡内織」が「南蛮貿易」により入って来た南アジアの絹織物の影響を受けているということは興味深いことでした。

 「岩殿(いわどの)城跡」の展示パネルの解説によると、近年では小山田氏の詰城(つめじろ)という従来の説は疑問視されていて、後北条氏に対する備えの拠点施設としての見方が強まっているとのこと。

 この岩殿城跡のある岩殿山の東麓には円通寺というお寺があり、それは中世以降、修験道本山(ほんざん)派の京都聖護院の末寺として、修験者たちの修業の場、つまり山岳修験道の拠点として政治や軍事にも影響力を持っていたという記述もありました。

 復元図を見ると、岩殿城(砦)への登山道は、その円通寺の背後から急な斜面を上へと延びています。

 広重が甲州街道から眺めた岩殿山は、現在もそうであるように切り立った巨大な岩盤を南面に露出させており、迫力ある異様な山の姿を見せつけています。

 このような切り立った岩盤を露出させている山は、広重にとって珍しいものであり、歩を進めるごとに迫力を増してくる岩殿山の山容は、スケッチの格好な対象であったものと思われますが、広重の絵に岩の露出する岩殿山が描かれることはなぜかありませんでした。

 「駒橋発電所の建設」や「「中央線の開通」に関する展示パネルもありました。

 「駒橋発電所」の建設工事は明治39年(1906年)から始まり、発電所建設工事と送電線路工事が行われ、建築資材は鉄道によって運ばれ、駅から水車や発電機のような重いものはカクラサンやコロによって運ばれ、軽いものは馬によって運ばれたという。

 また工事現場の土砂はトロッコやモッコが使われ、隧道工事には火薬を使って岩盤を破砕しながら、シャベル・ツルハシ・ノミによる人力によって工事は進められ、莫大な経費と労力をかけて明治40年(1907年)に完成しました。

 発電された電力は送電線によって75.6km離れた早稲田変電所に運ばれたとのこと。

 現在も2本の水圧鉄管、2台の発電機によって発電されているということでした。

 大月の「大正時代の職業図」によれば、中央線大月駅前から「富士電気会社」の鉄道(吉田まで通じる)は、市街を甲州街道に沿って走る路面電車であったことがわかります。

 現在の富士急のルートとは異なっているのが興味深く思われました。

 その図を見ても、甲州街道は大月市街を抜け桂川が造った段丘崖の上にさしかかったところで急角度に右折して坂を下り、桂川を橋で渡っていることがわかります。

 また甲州街道からやはり急角度に左折して都留方面へと道と鉄道(富士電気鉄道)が延びているのもわかります。

 これは富士山の麓へと、富士登山の人々(富士講の人々を主体とする)を運ぶ道(富士道)と鉄道でもありました。

 

 続く



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