鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

麹町~明治公園~渋谷 その3

2011-09-23 06:58:52 | Weblog
 「国立劇場」の前に来ると、「国立劇場 開場45周年」を記念した「九月文楽公演」の案内ポスターが掲示されていました。「天下泰平 国土安穏 寿式(ことぶきしき) 三番叟(さんばんそう) 伽羅(めいぼく)先代萩(せんだいはぎ) 御殿の段」といった題目が並んでいました。

 「天下泰平 国土安穏」に、今の世相を感じさせます。

 門をちょっと入った右手に案内板らしきものを見掛けたので近寄ってみると、それには「仙台屋(センダイヤ)」とあり、「高知市内の仙台屋という店の庭にあった桜で、植物学者牧野富太郎博士が命名したと言われています」と記されていました。つまり「仙台屋」とは、桜の名前ということになる。

 「ヤマザクラ」の一種で、「オオヤマザクラ」に似ており、「ソメイヨシノ」より数日遅く開花し、おおむね「ソメイヨシノ」が散り始めの時が見頃だ、といったことも記されています。

 平成18年(2006年)2月に、国立劇場開場40周年を記念して植えられたもの。

 「日本橋から4km」という標示を左手に見て、「最高裁判所」の前に出たのが8:21。左手斜め前方に交差点の手前に、青地に白く「三宅坂」と記された標示が見えます。

 その交差点に面した角に、三体の女性の裸像の立つ小さな公園があり、その公園に上がってみると、「最高裁判所」の植栽や白亜の建物を背景に、ほぼ中央に金属製の案内板が立っており、近寄ってみると、それには「渡辺崋山誕生地」とあり、次のように刻まれていました。

 「ここに、三河田原藩の上屋敷が、かつてありました。渡辺崋山は、名を定静、通称を登といいます。三河田原藩三宅家の藩士の息子として、寛政五年(一七九三)に上屋敷内の長屋で生れました。文人画家として、また蘭学者としても著名な人物です。天保三年(一八四二)に年寄役末席となり海防掛を兼務して以来、小関三英や麹町に塾を開いていた高野長英らと蘭学研究を始め、尚歯会を結成しました。天保十年(一八三九)、いわゆる「蛮社の獄」により捕縛・投獄され、同年十二月に在所蟄居を命ぜられ田原に向かうまで、四十年余りをこの地で過ごしました。

 昭和三十年三月  千代田区教育委員会 (平成二十二年一月補修)」


 補修されたのは、つい最近、昨年の一月のこと。

 背後の広い斜面に、小ぶりの松の木の植栽が幾重にも重なっているものだから、ここが都心部の真っただ中であることを忘れてしまうような空間になっています。その植栽の上にわずかに覗く白亜のビルは「最高裁判所」の建物の一部。そしてその上に白雲が浮かぶ秋の空が広がっています。

 この公園の名前は、帰宅して調べてみると、「三宅坂小公園」というものでした。

 「内堀通り」を隔てて目の前に見える濠は「桜田濠」。「三宅坂」交差点で右に折れる大通りは「青山通り(国道246号線)」。その「青山通り」から「内堀通り」に沿って右手前方に延びている高架道路が「高速都心環状線」(高速道路四号線)。

 その「高速都心環状線」の右側(手前)が、近江彦根藩井伊家の上屋敷の跡地。

 ここから日本橋までは徒歩1時間、麹町の町屋(商店街)までは徒歩15分ほど。

 崋山は、この田原藩上屋敷からの景観、またその上屋敷から江戸市中各地へ向かう沿道の景観、そして麹町や日本橋を中心とする江戸庶民の生活に親しみながら、育っていったことになります。

 現在は、「内堀通り」や「青山通り」、そして「首都高速」を、車が音を立てて行き交う界隈となっていますが、かつては「桜田濠」を隔てて緑濃い江戸城を望む、閑静な一帯であっただろうと思われました。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山 優しい旅びと』芳賀徹(朝日選書/朝日新聞社)


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