鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「稚内 その3」

2008-10-01 06:22:56 | Weblog
 翌朝、いつも通り早朝に起床。窓外が明るくなってから、静かに「民宿しずや」の玄関を開けて外に出ました。

 「稚内船員保険保養所 宗谷パレス」の横を通って海岸の方に進むと、コンクリートブロック積みの集合住宅が立ち並んでいました。増毛町の海岸近くで見た集合住宅とほとんど同じタイプのもの。多くは空家でしたが、増毛町のそれとは違って人が住んでいる家もありました。車が駐車し、庭の手入れもなされています。表札や新聞受けもある。

 この集合住宅の傍らには、宗谷バスの「富士見4丁目」のバス停もありました。

 増毛町のそれとほぼ同時期に建てられた住宅団地です。

 丘陵の麓(ふもと)にあるお寺を左に見て通りを進み、しばらくして右折して細い道に入り、海岸の防波堤に突き当たったところで左折。

 海上には利尻富士が見えています。波はいたって静か。沖合いに三角形のテトラポットが、海岸に平行して長々と伸びています。

 利尻島を右手に眺めながら、海岸の防波堤に沿って歩いて行くと、岸から海浜へ小さな舟を移動させている女性に出会いました。

 挨拶をしたところ、

 「どこに泊まったの」

 と聞かれたので、

 「民宿のしずやさんです。朝の散歩です」

 「どこから来られたの」

 「神奈川から。小樽から増毛経由でここまで来ました。ずっと利尻が見えなかったけれど、昨日の夕方、はじめて上から下まで見ることができました。今朝は、とってもよく見える」

 「今日は風もなくおだやかな天気だね。うちの旦那が船で沖に出ているよ。あそこにいるよ」

 と、おばさんは沖の方を指差しました。

 テトラポットには、白い海鳥がとまっています。

 「あの海鳥は今年生まれたばかり。海鳥はテトラに卵を産むんですよ」

 おばさんは、気さくにいろいろと話をしてくれました。

 生まれたところは利尻島。利尻からここに来て50年になるという。利尻にいた時、青年部でご来光を仰ぐために利尻岳に2度登ったことがあるという。上にはお社があって、その頂上部からは、自分の住んでいる集落が真下に見えたとのこと。九州に旅行した時、飛行機から富士山が見えて、利尻にとてもよく似ているやまがある、と感動したという話はとても面白く感じられました。

 ここに住んでいる人たちにとっては、利尻が中心であり、富士山はそれとよく似た形をしている山であるということ。「利尻富士」とか「富士見」という地名は、後世に作られたものであって、土地の人々にとっては利尻岳がすべて(美しい山として、また漁において目印となる山として遥拝の対象)であったということです。

 「内地」や「東京」を中心に考えがちな思考方法に、反省を迫るような、一つの会話の内容でした。

 おばさんと挨拶をして別れてから、もとの大きい通りへ戻り、もときた方へ進みました。右手に、稚内市養護老人ホーム富士見園」や「特別養護老人ホーム富士見園」、「身体障害者授産施設北光園」などの真新しい建物が並んでいる一角がありました。

 その前を過ぎてすぐに、最近建てられたばかりと思われる3階建ての団地がありました。駐車場に車がたくさん停まっています。自転車やバイクを置いておく建物も付属していました。吹雪や雨を避けるものでしょう。

 その隣に、これは昭和の終わり頃に建てられたかと思われる稚内市公営住宅(富士見団地)が並んでいます。水色と卵色のツートンカラーで、やはり駐車場には車がたくさん停まっています。

 そこから、先ほど、丘陵の麓に見えたお寺(龍海寺)の墓域(本堂裏手)に入り、群立するお墓を見て回りました。お墓の多くには墓誌が付属していました。古くは天保9年(1838年)5月24日に亡くなった女性の名前が刻まれています。ここに住んでいて亡くなったのか、それとも他の土地で亡くなって、子孫によってここに名前を刻まれただけなのか。

 寺を出て、ふたたび古い集合住宅の中を通って、「民宿しずや」に戻りました。

 「しずや」の女将さんにお聞きすると、あのブロックコンクリート積みの集合住宅は、昭和39年(1964年)頃に作られたものであるとのこと。44年ほどの歳月を経ていることになります。増毛町のあの「廃墟系」と化した住宅団地も、ほぼ同じ造りをしていることから考えれば、おそらく同じ頃に建てられたものであるように思われます。昭和39年頃といえば私が小学校四年生頃ということになる。

 最新の団地・やや少し前の団地・昭和39年頃の団地と、三世代の団地が並んでいるわけで、自分の年齢と照らし合わせてみて、歳月による変化というものを実感しました。

 「民宿しずや」の朝食の美味しかったこと。とくに新鮮な海産物が美味でした。味が関東地方で食べるのとは大違い。

 宿を出る時に、女将さんといろいろ話をしました。私と同年輩の方でした。お客さんを大事にしておられることが言葉のはしばしから伺えました。建物も毎年しっかり補修しているとのこと。それはトイレの行き届いた綺麗さからも窺い知ることができることでした。

 8:25に宿を出発。レンタカーのナビに、「宗谷岬」と打ち込み、その案内に従ってノシャップ岬を経て、稚内市街へと向かいました。


 続く


○参考文献
・『中江兆民全集⑬』「西海岸にての感覚」「社員諸君に告ぐ」(岩波書店)


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