明和7年(1770年)の4月(旧暦)、次のような「徒党」禁止の高札が出されました。
「何事によらず、よろしからさる事に、百姓大勢申合(もうしあわ)せ候をととうととなへ、ととうしてしいて願い事くわたつるをごうそといひ、あるいは申合せ村方立退(たちのき)候をてうさんと申、前々より御法度(ごはっと)に候条、右類之義有之(これあれ)は、居村、他村にかぎらず、早々其筋(そのすじ)の役所へ申出(もうしでる)へし。御ほうびとして
ととうの訴人(そじん)銀百枚
ごうその訴人同断
てうさんの訴人同断
右の通(とおり)下され、其品により帯刀苗字も御免あるへき間(あいだ)、たとひ一旦同類になるとも発言いたし候ものの名前申出(もうしい)つるにおゐては、その科(とが)をゆるされ御ほうひ下さるべし」
「ととう」とは「徒党」、「ごうそ」は「強訴」、「てうさん」は「逃散」のこと。
百姓たちが相談し一致団結することは「徒党」、
百姓たちが徒党して強(し)いて願いごとを貫徹しようと企てることは「強訴」、
百姓たちが相談して一致団結して村を捨てて他所に逃げることは「逃散」、
であるとこの高札は示しています。
これらの百姓の行動はどういう理由であれ(何事によらず)よくないこと(御法度)であるから、もしこのような行動があれば、自分の村のことであっても、他の村のことであっても、すぐに関係する役所に届け出るように。
そうすればご褒美もあるし、場合によっては苗字帯刀(みょうじたいとう)も許され、いったんその行動に加わることがあっても行動を企てた発起人の名前を申し出ることがあればその罪を許し、ご褒美を与えるものである。
といった意味合いです。
百姓を支配する側、つまり代官や領主層からすれば、百姓が連絡をとり一致団結して(「申合(もうしあわせ)」)、「徒党」、「強訴」、「逃散」といった行動に出ることほど厄介なものはなかったということです。
従って百姓がそのような行動に出た場合の処罰はきわめて厳しいものとなりました。
たとえば寛延3年(1750年)7月(旧暦)の「米倉(よねくら)騒動」においては、丸籠(まるかご)や手鎖(てぐさり)で80~90人ほどの百姓が江戸へ送られて小伝馬町(こてんまちょう)の牢に投獄され、丸籠で江戸に送られた「頭取」など中心人物は、「獄門」・「遠島」・「重追放」等の重い処罰を受けることになります(しかし判決が出る以前に、他の50人以上とともに彼らは牢内で病死しています)。
これは八代郡米倉(よねくら)村の平七が煙草と蚕の運上願を甲府代官所に出したことに対し、山梨・八代両郡の煙草や蚕生産に関わる百姓が反発し、「徒党」して平七宅を打ちこわしたことの結果でした。
寛政4年(1792年)12月(旧暦)の「太枡騒動」は、田安家の財政逼迫が背景にあり、「新枡」(「太枡(ふとます)」)を設定するなど年貢増徴をはかった領主の田安家に対して、山梨・八代両郡の百姓が反発。
田安代官所への繰り返しの嘆願が聞き入れられなかったため、山梨・八代両郡の村惣代が江戸の寺社奉行に訴状を提出(「越訴(おっそ)」したものでした。
「頭取」と目された3人のうち2人は「獄門」となり、江戸小伝馬町で斬首された後、田安代官所へ首が送られて日川河原で3日間晒(さら)され、1人はおそらく拷問により牢死しています。
首謀者8人中、2人が「獄門」、1人が「死罪」、4人が「遠島」、1人が「重追放」。
そのうち4人は判決が出る前に牢死しています。
このように、「徒党」や「強訴」といった百姓たちの行動に対する幕府の処罰は厳しく、それは過去の記憶から百姓たちもよく知っていることでした。
それにも関わらず、百姓が「徒党」して「一揆」を起こすというのは、よくよくのことであり、その「頭取」に自ら名乗り出るということは、その後の厳しい処分、つまり「獄門」や「死罪」、軽くても「遠島」や「重追放」を覚悟すること、あるいは「牢死」を覚悟することでした。
下和田村の武七と犬目宿の兵助は、それを覚悟した上で「一揆」の「頭取」になったものと考えられます。
その二人の「頭取」の呼びかけに応じて、白野宿の天神坂林に、甲州街道筋の宿場や村々を中心に15歳から60歳までの男たちが続々と集まってきたのが、天保7年(1836年)8月20日(旧暦)から21日の朝にかけてのことでした。
続く
〇参考文献
・『上野原町誌(上)』(上野原町誌刊行委員会)
・『甲信義民騒動記』島田駒男
・『塩山市史 通史編 上巻』(塩山市)
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