鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010.8月取材旅行「九段下~大手門~皇居東御苑」 その4

2010-08-20 08:25:29 | Weblog
 「中雀門」の「大門」跡にいったん戻って、今度は、右側の道を芝生広場を左手に見て進みました。

 ハリスやヒュースケンが本丸御殿に足を踏み入れた際、二人が歩いた範囲は限られます。玄関→入側→遠侍(とおざむらい)の間→三の間(四の間も含むか)→二の間→大広間(下段・上段)で、「表」のうちごくわずかであって、それ以外のところへは足を踏み入れてはいません。

 「中雀門」を潜って、「玄関」前を通過し、「御納戸口」を経て「御台所口奥入口」あたりまで入ったのは、樋口一葉の父となる樋口大吉。いつのことかと言えば、安政4年4月18日(1857年5月11日)のことでした。

 大吉は、その10日ちょっと前、甲斐国山梨郡中萩原村を、古屋家の娘あやめと一緒に出立して(4月6日)、御坂道→足柄道→東海道経由で4月12日に江戸にやって来たばかり。

 この日は、大吉が頼った眞下専之丞(蕃書調所勤番衆)のお供をして、弁当持ちの男と一緒に大手門から江戸城内に入ったのです。眞下専之丞は、大吉の父八左衛門のかつての親友であり、やはり中萩原村の百姓の倅(せがれ)であったのが、若い時に江戸へ出て、この時は「蕃書調所」の重役の一人となっており、その眞下専之丞は、自分を頼って江戸に出て来た大吉を、早くも自分のお供の一人として、江戸城内へと連れて行ったのです。

 これは、ハリスやヒュースケンが将軍謁見をする時から、およそ7ヶ月ほど前のことになります。

 3人が歩いたコースは、蕃書調所→大手門→中雀門→玄関前→中の口門→納戸口→新土戸門→台所門→その奥(「台所口奥入口」)。

 『江戸城の見取り図』によれば、

 「老中をはじめとする幕閣や幕府役人は、仕事をするために江戸城に登城してくる。しかし、本丸表御殿の南にある玄関を利用し、出入りしたわけではなかった。玄関のところから御殿の外側を北へ進むと、『中の口』があり、さらに北へ歩いていけば、「長屋門」がある。これをくぐって進むと、『納戸口』があった。納戸口の前を通りすぎれば『納戸前仕切門(新土戸門)』である。なお、もう一つ、先へ進めば『台所門』というのがあったが、これは賄方や台所方のほか、食材などを運び込む通用口だった。」

 とあり、幕閣や幕府役人の出入り口は、「本丸表御殿」の「玄関」ではなく、「中の口門」や「納戸口門」や「台所門」であったことがわかります。

 大吉は、その日記に、「中の口江参り夫(それ)より連之仁之案内二而御納戸口御台所口奥入口辺十分拝見仕」と記していますが、眞下専之丞の案内で、おそらく「台所門」を入り、「石の間」や「台所廊下」、「御膳所」「台所」などを見て回ったと思われます。

 その後、「平川門」を見てから「大手門」に戻り、その「大手門」で老中や若年寄の「御上り」(登城風景)を見て、「桔梗門」から城外へと出ています。

 わずか10日ほど前まで、甲斐国山梨郡で百姓の倅であった若者が、蕃書調所の勤番衆眞下専之丞のお供とはいえ、江戸城本丸御殿の「表」奥まで入り込んで、「十分拝見」しているのです。

 そもそも、眞下専之丞自身が、もともとは同郷の百姓の倅(せがれ)であった人物。

 眞下専之丞が、お供として大吉を連れて行ったのは、同郷の親友の息子である大吉に、自分が出入りできるようになった江戸城本丸表御殿内の一部を、ぜひ見学させてやりたかったのかも知れない。

 青年大吉の得意はいかばかりだったか。またその新鮮な感動はいかばかりだったか。

 裏を返せば、幕末には、百姓出身であっても江戸城内に出入りすることができるまで成り上がることができ、またその縁故で、たとえばその「お供」として江戸城内に入ることができたということ。「番所」があっても、「お供」としてであれば、咎めだてされることはなかったということでもある。

 「中の口門」前を通過し、「長屋門」を潜って、「納戸口門」前を通過して「新土戸門」を潜れば、右手に「台所前三重櫓」がそびえ、左手斜め奥には「台所門」がある。

 「中雀門」の「大門」跡を抜けて右側の道を進むと、やがて右手にスロープがあり、その坂を上がっていくと展望台があります。そこには、そこから東京のビル街を望む西洋人観光客が数人いましたが、この展望台がかつての「台所前三重櫓」があったところ。

 このスロープを下りて、さらに進むと休憩所がありますが、位置関係からすると、「台所三重櫓」に上るあたりに「新土戸門」があり、休憩所の前を過ぎて左手に「台所門」があったことになります。

 休憩所前の芝生広場の手前あたりが「台所門」や、その奥の「石の間」や「台所」があった空間であり、樋口大吉はそのあたりまで「表」の内部に入って見学したことになります。

 『江戸城の見取り図』によれば、この台所口(門)のあるところから先には、銅塀の仕切りがあって、そこから先へ進むことはできませんでした。

 その「銅塀」で仕切られた向こうの空間は、「中奥(なかおく)」であったでしょう。


 続く


○参考文献
・『旧事諮問録』(上)
・『ヒュースケン日本日記』
・『江戸城の見取り図』
・「最も早い樋口則義の記録─二つの日記」野口碩(山梨県立文学館紀要)


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