鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年・夏の山行─竹久夢二の登った須走口登山道 その7

2010-08-13 06:18:47 | Weblog
 「砂走り」の最初のとっかかりの部分は、かなり急斜面で慎重におりていかなければなりませんが、間もなく斜面は急ではあるけれども立って歩いて下っていけるようになります。しかし、火山礫がいたるところに散らばっているために、それを踏んで足首をくじかないように気を付ける必要はあります。

 登山靴は、一歩踏み出すごとに砂礫にジャリジャリとかかと近くまで埋まっていき、そのままずるずると斜面を1m前後下っていきます。

登山靴を履いた足先をV字形にして、抵抗を加えながら、しかも火山礫を踏まないようにして進んで行くのはそれなりにテクニックと脚力が必要です。御殿場の「砂走り」の方が、火山礫はもっと少なかったような気がします。御殿場口では、もっと大股に、真っ直ぐに、ズンズン下りていった記憶がある。

 「砂走り」の幅が広くなり、斜面もややゆるやかになってきたところで、斜面をジグザグに下りていくようにしました。距離はその分長くなりますが、足への負担はまっすぐに進むよりもぐんと減ります。

 途中立ち止まって上を眺めると〈12:25〉、砂煙をあげて下山してくる人たちの姿が見えます。中には走るようにして下りてくる人もいる。捻挫をしないか、他人事ながら心配になります。勢いがつくとなかなか止まらなくなってしまって、火山礫を変なふうに踏んでしまう危険性がある。

 それにしても「砂走り」にしても、登山道にしても、時々走っていく人たちがいて、私は危険性を感じます。「トレイル・ランニング」というようで、その手の本も売っているようですが、おそらく欧米から入ってきたスポーツであるでしょう。私はそれを好まない。ゆっくり景色を楽しみながら歩いている登山者にとって、あれはいきなりの闖入者です。本来なら、向こうが立ち止まってゆっくり行く人をやりすごすべきなのに、いきなり前から、あるいは背後から走ってきて、挨拶もせずにかなりのスピードで駆けていく。全部が全部ではないが、多くがそうです。

 危険でもあるし、筋力や持久力を高めるスポーツ性というのが前面に出て、ゆっくり景色を楽しみながら、そして思索にふけったりしながら登っている者にとっては、いきなりそこに闖入してくる場違いな人たちに思える。

 走るなら、登山者がいないところで走ってほしいと思いますが、それはまた山の動物たちにとっていきなりの闖入者であることに変わりはありません。

 「砂払い五合↑200m」の案内標示を見つけたのは12:47。「須走口砂払五合目」に到着したのは12:50。標高は2300m。標高差700m余を、34分ほどで下りたことになります。

 「吉野屋」の前に出ましたが、ここが標高2230m。五合目から六合目の途中、左手下に見えた山小屋がこの「吉野屋」。ここにも多くの下山者が休憩していました。私は、ここで3度目の靴の中の砂出しをしました。登山用の靴下を二枚重ねて履いていたからまだ良かったようなものの、薄手の靴下1枚であったら、入った砂礫で足裏がもっと痛かったはず。厚手の登山用靴下の重要性を知りました。もっともスパッツを携帯して、それで足首を覆っていたなら、砂礫が入り込むことはなかったのですが(御殿場口登山の時は用意していました)。

 「砂走り」はその「吉野屋」のところで終わりと思いきや、さらにそこからしばらく下へ続いていました。

 潅木地帯に入ったのは13:00頃。その樹林地帯の山道を下って「菊屋」などの前を通過したのは13:20頃。「菊屋」に立ち寄ってみようかとも思いましたが、下山客や登山客で混雑しているため遠慮しました。

 「宮上駐車場」までの登山バスの切符をあらかじめ購入し、次の御殿場駅行きの登山バスを道端に座って待ちました。


 続く


○参考文献
・「富士へ」竹久夢二



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