鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 冬の「阿波南部~土佐東部」取材旅行 轟の滝まで その5 

2010-01-16 07:56:10 | Weblog
 「二重滝」へ行く遊歩道の出だしのところはコンクリートの急な石段。そこを上りきって、滝の音がゴウゴウ聞こえてくると、右手に見えてくるのが「二重滝」。確かに滝が二条、平行して岩肌を落下しています。

 次は「不動滝へ」という案内板が現れる。これはどの滝かちょっとわからない。

 「横見滝」は、群青色の滝壷に落下する滝を、横から見る滝。ゴツゴツした岩肌がその右手前に露出しています。

 「次は船形滝へ」。滝の上の落下しはじめる部分の岩が船の形をしていて、船に水がたまっているのが船べりの真ん中から落下している格好。

 「次は丸渕の滝へ」。「丸渕の滝」は、滝が途中で屈曲しています。ここも岩肌の露出がすさまじい。滝壷(渕)は円形を成しています。

 その次に現れるのが「鳥返しの滝」。ここは下の渓谷まで下りることができるので、遊歩道から下へと下りていきました。幅が広く、白い布のように見える滝。その白い瀑布の上に朝日に輝く樹林が覆い被さっています。その樹林の上に冬の澄み切った青空が広がっています。

 「次は鍋割滝へ 700m15分」の案内標示。「この上に滝はありません」と書いてあった、あの滝です。この滝への道はやや渓谷から離れて、若い杉の木の中を行く細い山道となり、傾斜はそれほどありません。小川に架かる橋を渡って、崖の中ほどを切り開いた細道を歩みますが、下の渓谷を見下ろすとかなりの絶壁であり、慎重に進みます。

 ふたたびゴウゴウと鳴る水音が聞こえてきて、「鍋割の滝」が右手下に見えてきたのは9:53。この「鍋割の滝」の上の遊歩道の左手にあったのが、「轟神社奥宮 鍋割神社」の小祠で、ちゃんと木製の鳥居もあります。鳥居には「鍋割神社」と墨書された立派な額が掛かっています。

 この小祠を過ぎると巨大な岩が右手に露出しており、その手前にも「ここより先に滝はありません」と記された看板が立っていました。しかし、なおも道は続いているようです。

 轟の滝の「本滝」の左手前を上がって行ったところに「轟神社」の「本社」があり、その「奥宮」が「鍋割神社」であることを考えると、「本滝」と「鍋割の滝」までのすべての滝が「轟の滝」であり、それ全体が、「本滝」を中心として信仰の対象(もともとは滝がご神体=信仰の対象)であるように思われました。「奥宮」、つまり「鍋割の滝」までずっと昔から参拝路として、道はあったように思われます。それが整備されて「遊歩道」となったのでしょう。

 では、その「鍋割神社」から、右手の巨大な岩と左手の岩肌に挟まれたようなところを通って、さらに川の上流へと続いている道は、いったい何の道なのか。

 その隘路を通って、枯れ葉が敷き積もった道へと進むと、右手には「鍋割の滝」の上部である幅広の渓谷が現れました。その渓谷に沿って左手の崖を山道は奥へと延びています。

 途中、道が途切れているので石がゴロゴロとしている河原に下り、石伝いに渓流を渡ったりして、また道へ戻ったりして進むこと6分ほど、道は大きな岩壁にぶち当たって、その岩山をよじ登らなければ先へは勧めなくなりました。ということで、もときた道を引き返したのが10:01。

 もし兆民一行がここを歩いたのなら、この岩山を立ち木を頼りによじ登り、それを越え、渓流に沿って進み、やがて左側の山肌を稜線へ向かって登って行ったと思われますが、それを確かめるのは困難なようであると判断しました。

 轟の滝の「本滝」の付近から、「鍋割の滝」までは、現在は「遊歩道」があり、それが整備されるまではずっと、「奥宮」を参拝するための、あるいは「鍋割の滝」へ至るまでの道(信仰の道)があったと思われますが、その先はもう、木こりが入るような道なき道であったことでしょう。

 『日本の民俗 徳島』によれば、「県下にある社寺はかえって隣県の参詣人が多く、…海部郡海南町の轟さんは高知県人がはるかに多い」という。しかも「一生に一度お参りしなければならぬと思われている社寺」の一つに轟神社が入っているのです。

 同書P92には、「大漁を祈願するために鞆浦(奥浦近くの港)の漁民たちはたびたび轟神社(海部川の上流)や蛭子(えびす)さん(海部町鞆奥)・清心さん(同上)にお参りし、酒や肴を供える」とありますが、阿南海岸の漁村の人々や、高知県側の漁村の人々が、大漁を祈願するために参詣した神社の一つ、それもかなり重要視された神社が轟神社であったのでしょう。

 したがって、人がやっと通れるような道が、轟神社まで、さらにその奥の「奥宮」(鍋割神社)まで通じていたと思われます。

 兆民一行は、その道をたどっていったと推定することができるのですが、確定することはできません。その道をたどっていったとすれば、「奥宮」から先は、木こりが入っていくような山道を分け入っていったということになります。

 もと来た道を下り、先ほど見た滝をふたたび眺めたりしながら、駐車場に戻って来たのが10:38。

 そこから少し下ったところに、「日本の滝100選 轟九十九滝」と記された、比較的新しい案内図がありました。

 現在地から少し下ったところで橋を渡り、右手の山すそを入っていくと、「龍王寺」というお寺と、その上に「轟神社」がある。「龍王寺」と「轟神社」は、明治初期の神仏分離令以前は、神仏習合で一体であったでしょう。

 そこで橋を渡り、轟神社まで行き、そこから「本滝」へと行って見ることに。

 橋からは兆民一行が登ったであろう山の稜線が左手に見えました。

 轟神社には、注連縄(しめなわ)が飾られた杉の「御神木」(推定樹齢約七百年)があり、また社殿もかなり古そうなものでした。

 そこから「御滝参道」が下の方へと延びており、やがて「龍神」を刻んだ石塔が現れ、「轟神社摂社 本滝神社」が見えてきました。朱色の鳥居も立っています。ここまで来ると、瀑布の落下する音がゴウゴウとあたりを支配しています。

 その先へ出ると、いきなり轟本滝が真向かいに姿を現しました。高さは30メートルほどはあるでしょうか。垂直に切り立った崖の裂け目の奥に、白い滝が霧しぶきをあげながら落下しており、よく見るとその中ほどに虹がかかっています。上から赤と白と青の三色で、苔むした岩肌が太陽の光に照らされて、緑色に輝いています。

 滝の手前の河原の大岩の上に、「轟神社荒魂鎮座」と刻まれた石碑も立っています。

 滝の上を見上げると、垂直の崖の木々の上に、青い空がわずかばかりのぞいている。

 河原には、白装束になって滝に手を合わせている女性がいましたが、その女性2人は、先ほど、ポリタンクを車のトランクから取り出していた男性の傍らで、白装束を取り出していた女性でした。

 おそらく、この「本滝神社」の左手の、本滝とその渕を前にした河原が、本滝の遥拝所であって、もともとはこの「本滝」そのものが人々の信仰の対象であったと思われます。

 白装束になり、水垢離(みずごり)をして身体を清め、滝を仰ぎ見ながら、大漁を始めとしてさまざまなことを人々は祈願したのです。

 そこから道を戻り、橋を渡って駐車場に戻ったのが11:00頃。そして11:02に車を出発させました。


 続く


○参考文献
・『中江兆民全集⑪』(岩波書店)
・『日本の民俗 徳島』金沢治(第一法規)
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