鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

甲州街道を歩く-笹子峠~甲府まで その16

2017-10-14 07:53:30 | Weblog

 

  笛吹川の土手を走る国道411号から右斜め方向に入る道は、途中の「遠妙寺」「石和町役場」方面と「御朱印公園」方面の分岐点(右折すれば「八田御朱印公園」に至る)でやや左斜め方向へ向きを変え「遠妙寺」方面へ至ります。

 その分岐点で「八田御朱印公園」方面へ右折。

 その道を進むと「←県指定文化財 八田家書院と御朱印屋敷」の案内標示があり、左手に瓦屋根で白漆喰土塀の備わった立派な門が見えました。

 案内板によると、八田(はった)家はかつて武田氏の蔵前(くらまえ)奉行として年貢の収納や軍糧の輸送をつかさどっていたため織田軍の兵火にかかり居宅その他を悉く焼失。

 徳川家康から万力御林の材木を賜って母屋を造立し、また都留郡富士根の材木を賜って書院を構築。

 この書院(茅葺入母屋造・桃山時代末期の武家書院様式)が補修を受けながらも現存しているとのこと。

 また表門(先ほど見掛けたもの)は、石和代官所創設の際、代官平岡勘三郎良辰が石和陣屋表門として建立したものを、明治7年(1874年)に払い下げを受けて八田家の表門として移築したものであるという。

 つまり八田家表門はかつての石和陣屋の表門であったことになります。

 先ほどの「笛吹権三郎」の像の前で地元の方に聞いた「遠妙寺(おんみょうじ)」という寺は、「鵜飼山遠妙寺」という日蓮宗「身延五か寺」のひとつでした。

 豪壮な仁王門は、「三門一戸楼門重層入母屋造瓦葺」で江戸期のものであると言い、かつては本堂の瓦葺屋根とともに遠くからでも目に入る建築物であり、たしかに石和宿の入口を示すものであったでしょう。

 この総門の前を国道411号が走っていて、これが旧甲州街道。

 その総門前から国道の向かい側を左斜め方向に延びる道があり、その両側に家並みがあるもののその道を歩いてみると、その先の広い道路へは車が入れないようになっています。

 これが旧道であると思われ、広い通りに出て先へ進むと「鵜飼橋交差点前」歩道橋を越えて笛吹川に架かる「鵜飼橋」にぶつかりました。

 かつてはここに笛吹川は流れてはいませんでした。

 「鵜飼橋」を渡ると河口湖や富士吉田方面へと道が延びています。

 ということは、御坂(みさか)方面から石和宿へ至る道がこのあたりを走り、遠妙寺の門前で甲州街道と交わっていたものと思われました。

 「鵜飼橋」の上からは石和の町の背後(北側)に大蔵経寺(だいぞうきょうじ)山が屹立しており、この山がこのあたりのランドマークであるように思われました。

 遠妙寺の総門前から、かつては石和宿の家並みが街道筋に続いていたということですが、現在も国道411号沿いに商店街が延びています。

 この通り両側の家並み(「市部本通り」)が、鉄道敷設以前からの石和の中心街であり、現在のJR石和温泉駅から続く「駅前通り」は鉄道敷設後に出来たもの。

 もちろんホテルが建ち並ぶ「さくら温泉通り」は、戦後(昭和36年)にブドウ畑から温泉が噴き出たことにより出来た新しいものです。

 遠妙寺の門前を過ぎてまもなく「石和高速バスのりば」があり、その右手フェンス越しに「石和町指定文化財 史跡 石和本陣跡」と刻まれた石柱と「石和本陣跡」と記された案内板が立っていました。

 そのフェンス内の広い空き地には白壁瓦葺の土蔵1棟が、かつての本陣の名残りであるかのようにポツンと建っていました。

 案内板によれば、この石和御本陣は寛永年間に幕府の命令により設置されたもの。建物は書院造りで、門・玄関・上段の間を備える広大なものでしたが、明治13年(1880年)6月19日の明治天皇御巡幸のみぎりに御休憩地の予定であったところが、6月6日に大火により焼失してしまったとのこと。

 明治13年6月6日に大火で焼失するまで、ここに旧本陣の建物があったことになります。

 別の案内板には、明治以降も旅篭(はたご)として利用していたが、明治13年(1880)6月7日の大火により焼失したとありました。

 石和陣屋(代官所)跡地は、本陣跡向かいの「小林公園」を奥へと入って行った先に「石和南小学校」がありますが、その校門のところに「石和町指定 史跡 石和陣屋跡」と刻まれた石柱と「石和陣屋跡(町指定史跡)」と記された案内板がありました。

 周囲を歩いてみましたが陣屋の遺構は見当たらず、八田家の表門として移築された表門が唯一の遺構であるようです。

 この石和南小学校の南西側に神社があり(名前は分からず)、その境内に「蚕影山」と刻まれた石造物と「秋葉山」と刻まれた石造物が並び、また参道右脇に見事な「丸石道祖神」がありました。

 「蚕影山」信仰は養蚕と密接につながるものであるから、このあたりもかつては桑畑が広がり養蚕農家が多い地域であったものと思われました。

 国道411号に面してある「石和八幡宮」は、案内板によると、江戸期においては歴代領主・甲府勤番支配・代官はここに参拝することが例とされたとあり、往時は総回り五十間に及ぶ泉水に、築山・石橋を配し、杉檜の巨木の森に十三の摂社と神官屋敷を具えた荘厳な社であったのが、明治四十年の大水害で辛うじて本殿拝殿随身門は残ったものの、他は流失埋没し森は枯れ死し荒廃してしまったとのこと。

 残っていた本殿拝殿も平成十八年に焼失したことにより、江戸期の建築で現在残っているのは随身門だけであるという。

 この石和八幡神社の先の交差点(「石和温泉駅入口」)で右折する通りが「駅前通り」で、その通りをJR石和温泉駅の方へ向かうと、途中右手に「頌徳碑建立由来」と記された看板があり、それには明治40年8月の「山梨県河川氾濫」が石和村一帯に甚大な被害を及ぼしたことが記されていました。

 この河川氾濫によって荒廃した石和村の土地を農地として再興した「小松導平」を顕彰した「頌徳碑」であることを知りましたが、その文中に笛吹川が東に遷ったことが記されていました。

 さらに「第二平等川」に架かる「石和橋」には「笛吹権三郎の伝説」と刻まれた銘文があり、その終わりのところで、「現在の笛吹川は、この地より東南方向八百メートルのところを流れていますが、明治四十年の大水害の前には、この地を流れていました」とあり、石和橋のあたりをかつては笛吹川が流れていたことを知りました。

 といったことから、明治40年(1907年)の大水害により笛吹川の流路は大きく変わり、またその大水害によりこの石和周辺も甚大な被害を受けたことがわかりました。

 この「第二平等川」に架かる「石和橋」のやや上流は「さくら温泉通り」となり、その川および通りの両側にはホテルや旅館が林立している(石和温泉街の中心地)わけですが、以上のことから考えれば「さくら温泉通り」のあたりはかつての笛吹川の流路上に位置することになります。

 川幅はおそらくかなり広いものであり、河原も広く、また土手も長く続いていたものと思われます。

 現在の石和温泉街や石和の中心街のあたりの風景は、明治40年8月の大水害以前のそれとは大きく異なっていることが、今回歩いてみてよくわかりました。

 「石和温泉駅入口」交差点に戻り、そこを右折して、旧甲州街道(国道411号)を甲府方面へと歩を進めました。

 

 続く

『本』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
« 甲州街道を歩く-笹子峠~甲... | トップ | 甲州街道を歩く-笹子峠~甲... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事