鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2007.冬の常陸茨城・取材旅行「大津浜から平潟港 その2」

2007-12-29 09:17:28 | Weblog
 道を進むと、やがて大きな通りにぶつかりますが、これが国道6号線。地元の人は「コクロク」または「ロッコク」と呼ぶ。起点は東京都中央区日本橋。終点は宮城県仙台市宮城野区。総距離は345.5km。明治以降は「陸前浜街道」。江戸時代においては、水戸から岩沼までは「岩城街道」もしくは「磐城街道」と呼ばれました。

 陸橋を渡ると、そこは北茨城市立常北中学校の敷地内(校門から校舎にのぼっていく坂道の上り口)。校門を出て、左手の斜め道をさらに進みます。両側に、屋根の傾いた古い倉庫や谷藤水産(株)の巨大な倉庫が点在します。

 やがて右手の建物の奥に、川が見えてきます。通りと、家を隔てて並行して流れている川。左手に諏訪神社があったので、石鳥居を潜って、両側に手すりのついた急なコンクリート製の階段を登ると、社前から大津の町並みが見えました。左右に川が流れ、その手前に港へ向かう通りがある。しかし、ここからは港も海も見えませんでした。

 通りに下りて、さらに道を進む。右手に「笠原商店」や「常陽銀行大津支店」を見て、左折して商店街を一見し、仲丁区で路地を右折。大津公民館前のバス通りに出る。この道が「主要地方道 塙 大津港線」(後でわかったことですが、塙〔はなわ〕は、水戸城下から棚倉藩の城下町棚倉に向かう「棚倉街道」沿いにある町。大津港と塙を結ぶこの道は、平潟や大津浜から塩を塙経由で棚倉に運んだ「塩街道」ということになります)。

 港に向かう左手に平屋の長屋のような建物(長さ50mほど)があり、目を引きました。昔の集合住宅のようなもので、海側に出ると庭がある。大正か昭和初期の頃の建物でしょうか。珍しい長屋形式の建物(「集合住宅」)です。

 右手に「本家あんこう鍋」の幟(のぼり)の立つ「高砂屋」を見て橋を渡る。この橋の下の川が、先ほど見えた、通りに並行して(家を隔てて)流れていた川で、名前を確かめると「黒根川」でした。橋の名前は「大津橋」。

 橋を渡って左折すると、河口の一角は公園として整備されており、公園の名前は「仁井田浜公園」でした。ここで港を見ながらしばし休憩(12:55)。

 そこから「大津新橋(しんきょう)」を渡って港の方へ。

 岸辺には、えんじ色の漁網が積み上げられ、その上に網の山が崩れぬように、または飛ばされないように網が掛けられている。その漁網の山がおよそ20ばかり。

 そこから町の方を見ると、背後に小高い山があって、その上の方に白い石鳥居が見えました。この港や浜や太平洋を見下ろせる場所となると、まずはあの石鳥居がある神社しか考えられない。江戸期からあの場所にあったとすると、ここへやって来た人たちが海を見下ろせる場所として、まず目を付けた場所はあそこであるに違いない(神社だから、そこへ登る参道があるはず)、と判断して、真っ直ぐその山へ向かい、「高砂屋」の右横の道を入り、商店街の道を突っ切って、山すそから石鳥居に続く石段を登りました。その数およそ200段。

 港から見えた石鳥居には、「三峯神社」とありました(13:10)。その鳥居の下より、手前に大津の町並み、その先に大津港、その向こうに広大な太平洋を見晴るかすことができる。右手には砂浜が見え、波が打ち寄せています。昔は岸壁や防波堤などの港湾設備はもちろんなかったはずで、当然に景観はかなり変わっているはずでしょうが、おおよその当時の景観や雰囲気を感じ取ることが出来ました。

 石段を下りて岸辺の通りに戻り、左折。

 磯の香りが濃い。ここにも漁網の山が広がります。

 ウミネコが鳴いていますが、「ミャーミャー」とまさしく猫の鳴き声。

 港内に密集している漁船には、「茨城大津港 ○○丸」ないし「茨城県大津港 ○△丸」と書かれています。

 この大津漁港は茨城県が管理している港でした。

 ここから「五浦(いづら)」方面に続く道を進む。

 左手に「津之神社」という小さな社。右手に崖の露出した岬があり、その手前右下に「波切不動尊」。頭部と肩の左側がなぜか四角く張り出している石像。ガラスの張られたケースの中に入っています。

 道に戻ると、左手に「異国人上陸」と記された案内板がありました。「北茨城市茨城民族学会北茨城支部資料提供」とあって、いわゆる「大津浜事件」のことが詳しく書かれていました。

 実は、この「大津浜事件」の現場の雰囲気を探るのが、今回の取材旅行のポイントの1つだったのです。

 その案内板によると、「異国人」がこの地に上陸してきたのは、文政7年(1824年)の5月28日。この日、2艘の異国船が沖合いに姿を現し、その船から鉄砲を持った11名の船員が、2隻の小舟(ボート)に分乗して富岡海岸に上陸。

 急を聞いて駆けつけた領主中山氏の手勢により船員たちは捕らえられ、浜辺の民家に監禁されましたが、一部の船員たちが逃亡を企てたため洞穴に押し込められることになりました。沖合いの本船は数十発の空砲を轟かせ、威嚇しながら船員の身柄引き渡しを要求。拒否されると上陸船員を残して退き、その後数日して、今度は5隻の船団となって現れるものの再び退去。水戸藩から出陣の兵が送られ、また幕府代官が下向して取調べが行われましたが、この取調べの結果、船内に病人が出て野菜等の補給のために上陸したものと分かり、6月10日に、薪・水・食糧などを給与してボートで退去させたのだという。 

 水戸の藤田幽谷は、子である東湖を大津浜に送り「異人たちを斬るべし」と計ったものの、時すでに釈放の後で果たすことが出来ず、その時に幽谷が詠んだ歌が、「常陸なる 大津の浜に イギリスの 船をつなぐと 君はきかずや」(大津港駅前の和菓子屋さん「みなもと屋」のご主人が口ずさんだ歌がこれでした)。

 異人たち(イギリスの捕鯨船の船員)は20日ほど捕われていた間に、絵を描いたり相撲などをとって、村人たちと親しくなったとも。

 押し込められていた洞穴のそばに梅の老木があって、人呼んで「イギリス桜」と言われていたとのことですが、昭和の初めに枯れてしまったらしい。

 『茨城県史 近世編』によると、この大津浜における「異国人上陸」は、鎖国下の日本にとって本土(蝦夷地や琉球などを除く)への異人上陸の最初。

 この時、大津村は水戸藩付家老中山氏の知行地。ボートに乗っていた船員は、1艘に7名、もう1艘に5名の、合わせて12名。

 中山氏の松岡館から大津村に駆けつけたのは、物頭役松村平太夫と国分政衛門の組の者各20名、足軽50人(鉄砲30挺・持弓10挺・大筒3門)、他に目付・徒目付・郡奉行ら数名。さらに近辺から、郷士・漁師・郷足軽ら多数が動員されて馳せ参じました。

 急報を受けた水戸藩も直ちに対応。先手物頭矢野九郎右衛門と庄勘左衛門の二組の足軽40人(鉄砲30挺・持弓10挺)と目付・徒目付、それに筆談役会沢正志斎・飛田勝太郎らを加えた一隊が、異国人上陸の翌日である29日に早くも水戸城下を出立し、6月1日に大津浜に到着しています。

 周辺の泉藩・相馬藩・伊達藩などでも海岸警衛に当たり、また内陸の棚倉藩も出兵するなど、この大津浜への異国人上陸の報は、深刻な波紋を広げました。

 6月3日、筆談役の会沢正志斎や飛田勝太郎らは上陸船員たちと問答を開始します。

 一方、水戸藩は異国人上陸を幕府へ報告し、指図を求めます。

 報告を受けた幕府は、代官古山善吉、手添足立左内、天文方高橋作左衛門、通詞吉雄忠次郎らを派遣することに決定。彼らは6月5日に江戸を出立し、9日に大津浜に到着しています。

 おそらく会沢や飛田は、イギリス捕鯨船の船員との会話は出来なかったでしょう。通訳に当たったのはおそらく吉雄忠次郎(もと長崎オランダ通詞。後シーボルト事件に関係し永牢を申し渡される)。もっとも吉雄も英語は話せず、おそらく筆談や手真似であったことでしょう。
 
 その取調べの結果、船はイギリスの捕鯨船で、新鮮な野菜・果実などの食糧を求めての上陸であることが判明しました。

 この事件による水戸藩や幕府のショックは大きく、幕府は翌文政8年(1825年)の2月に「異国船打払令」を布告し、水戸藩では攘夷論が昂揚し、筆談役として大津浜に赴いたあの会沢正志斎が、(後期)水戸学の経典とも言える『新論』を書き著したのも翌文政8年のことでした。

 藤田幽谷は、ラクスマンが蝦夷地に来航したことに早くも危機感を強めて攘夷論を提唱していましたが、この大津浜の異国人上陸に際して危機感をさらに強め、長男である東湖に対して「無断で上陸した異人を斬るべし」と命じました。もっとも東湖が水戸城下を出立する前に、異国船退去の報が届いたことにより、この挙は実行に移されることはなかったのですが、この事件は、東湖が生涯三度死を決した最初の出来事(『回天詩史』)であったのです。

 緊迫した情勢の中で、イギリス船員と里人との間に、絵を描いたり相撲をとったりするなど親しい交流があったことは、この案内板の記述で初めて知りました。

 案内板の内容を取材ノートにメモした後、左手に「民宿松ヶ岬入口」の看板を見て、五浦(いづら)へと続く坂道をさらに進みました。


 続く


○参考文献
・『茨城県史 近世編』
 
 ネット
・「陸前浜街道」Wikipedia
・「水戸街道」Wikipedia
・「国道6号」Wikipedia
・「水戸・陸前浜街道」


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